第8話 家族
じいちゃんとばあちゃんが結婚するまでには、そう時間は掛からなかったという。
縁談とは言っても、それは自由な恋愛への入口などではなかった。
両家揃って顔を合わせた時点で、結婚へ向かうのは決定事項のようなものだった、とじいちゃんは言った。
時々、ネットニュースの見出しに使われる“交際0日婚”なんてワードを見るたび僕は「信じられない、ありえない」と不信感を抱いていたのだけれど、聞いたところじいちゃんはその状態に近かった。
当人たちよりも周りが、あれよあれよと話を進めて後戻りできない状況になっていた、と。
「正直、俺は迷っていた。このまま流れに乗ってしまえば、美代子を不幸にするんじゃないか、と。俺と違って美代子はまだ若かったし、七つも年上の、しかもバツのついた男なんかじゃなく、もっと望ましい相手がいるんじゃないか、とずっと思っていた。だから二人で会ったときに聞いたんだ、本当にいいのか、と。もし、美代子の気が進まないのなら俺の方からこの話はなかったことにしてほしいと申し出る、と伝えたんだが、美代子は『このまま話を進めてほしい』と言った。その言葉を聞いても、当時の俺はまだ完全に文子への想いを断ち切れてはいなかったから、そんな状態で彼女と結婚するのは気が引けたんだ」
それはそうだろう。文子さんとは嫌い合って別れたわけじゃないのだから、そう簡単に気持ちを整理できるとは思えない。
それに、自身の不誠実な態度への後ろめたさもあったはずだ。
「でも、美代子はそんな俺の考えなどお見通しだった。後日、美代子から手紙をもらったんだ」
「手紙?」
「あぁ。後から知ったんだが、美代子は筆まめでな。字も綺麗だった」
あぁ、そういえば……。
僕は、毎年誕生日と正月にじいちゃんから貰っていたポチ袋を思い出した。
裏にはいつも“晋ちゃんへ”という綺麗な字で「お誕生日おめでとう」とか「今年も一年元気に過ごしてください」とか、そういう一言が添えられていた。
成人してさすがにポチ袋を貰うのを断ったことがあるけれど、大学を卒業するまでという約束で恥ずかしながら未だに継続中だ。
二人から貰うポチ袋を僕はなんとなく捨てられず、母さんがくれたクッキーの缶に溜め続けている。新しい一枚を入れるたびに、古いポチ袋の裏面を見直すのが好きだった。
けれど、そのメッセージは去年の誕生日に貰ったものが最後だった。ばあちゃんが亡くなってから正月と僕の誕生日が一度ずつ巡ったけれど、ポチ袋のメッセージはなくなった。
「手紙にはなんて?」
「結婚していたことも、俺の気持ちに整理がついていないことも全部含めて、話をすすめてほしい、といった内容だったな。俺なんかとの結婚にどうしてそこまで前向きになってくれるのか不思議だったんだが、やっぱり受け入れてもらえるってことは素直に嬉しかった。……晋太朗。孤独ってのはな、思っている以上につらく寂しいもんだぞ。俺はそれを文子と別れてから痛感した。……純粋に寂しかったんだ。誰もいない冷え切った真っ暗な家に帰って、一人ポツンと過ごす日々に参っていたんだ。薄情者だと思われるだろうが、そんなときだからこそ、余計に美代子の優しさが身に染みたんだと思う」
じいちゃんの言葉は、すごく真っ直ぐで腑に落ちた。
「美代子の包容力に甘えて、俺たちは籍を入れた。両親、とくに母親は大いに喜んでいたが、どうしてもこの町を去った文子のことが頭に浮かんで、俺は彼らとの関係を修復するのは無理だと思った。もうこの町から離れたいとも思ったが、結婚した以上美代子の家族のこともあるだろ? そう簡単に我を通せる問題じゃなかった」
「うん、そうだよね……」
「でもな、美代子はそれすらも覚悟の上だったようで、美代子の方から引っ越しを提案してくれたんだ」
「ばあちゃんが!?」
「あぁ。しかも東京だぞ? 俺は出ていくとしても道内のどこか、としか思っていなかったのに『どうせなら遠く離れた東京でのびのびと暮らしましょう』なんて言うもんだから、あのときは驚いた!」
ばあちゃんは物静かで穏やかな人だったけれど、若い頃はこんなにも豪快な一面があったのか、と驚きながらも嬉しくなった。
「当時、北海道と東京なんて簡単に行き来できるような場所じゃあなかった。時間もお金も今以上にかかったし、数年帰れない可能性だってあったんだ。だが、美代子はそれもちゃんと分かった上で俺を選んでくれた。本当に嬉しかったよ。もちろん互いの両親は猛反対したんだが、俺はもう彼らとは会わない覚悟で強引に意見を通した。美代子の家族に伝えるときは、親父さんに殴られると思ったなぁ。でも美代子が『私が必ず説得するから先に一人で行かせてほしい』と言ってきかないから任せたら、本当に説得してみせたんだ! あれもまた驚いた! 引っ越し当日にはご両親が揃って見送りに来てくれた。俺は美代子にも、美代子のご両親にも頭が上がらない」
二人が東京で暮らすに至るまで、こんな出来事があったなんて。僕は自分のルーツに関わる大発見をしたような気分だった。
「東京に越してしばらくの間は、生活の基盤を築くので精一杯だった。頼れる知り合いも友達も誰もいない土地で、美代子は俺に飽きることなく尽くしてくれた。まだ若いのに泣き言一つ言わず、それはそれは一生懸命に。その健気な真っ直ぐさに俺がどれだけ救われたか……」
うん。僕の知っているばあちゃんの人物像とよくマッチしている。
「結婚してから四年程経って明美が、さらにその三年後に誠が産まれた。初めての妊娠が分かったとき、美代子は大泣きして喜んでなぁ。ホッとしたんだと思う。いつも笑顔を絶やさなかった美代子が俺の前で泣いたのは、後にも先にもあの一回きりだ」
こうして、じいちゃんは三十歳ではじめて父親になった。
僕は、結婚すれば家族が増えることが当たり前だと思っていた。もちろん、夫婦二人きりで生きていくという選択もあるから、絶対というわけではない。
でも、どちらを選択するも自由だと信じ切っていた。
じいちゃんは、最初の結婚から親になるまでに約十年掛かっている。
その間、肉親との衝突、恋人との理不尽な別れ、勘当、離郷と多くの障壁を越えてきた。
じいちゃんの話を聞く前と後では、家族というものの見方が変わる。
当たり前なんかじゃない。
本当なら、明美伯母さんも父さんも生まれていなかった。そうなれば当然僕も存在しない。
今僕が生きているのは、あのときじいちゃんを叱ってくれた文子さんと、じいちゃんを東京に連れ出してくれたばあちゃんのおかげだ。僕は、彼女たちの優しさや強さの延長線上に存在していることを実感した。
「『美代子のことは愛せない、子どもは作れない』なんて啖呵を切っておきながら、子どもを授かったと美代子から聞いたときは素直に嬉しかった。産まれてきた子どもたちは可愛くて仕方がなかった。俺が仕事に集中できるようにと気を使いながら、一人で明美と誠を大事に大事に育ててくれる美代子を見て、家族を幸せにする責任の重さを感じたよ。だが、それと同時に、文子の顔がチラつくのも事実だった。自分が幸せを感じれば感じるほど、文子を心配に思う気持ちも強くなった。どうか、寂しさを感じない幸せで平穏な暮らしをしていてほしい、と切に願った。……まったく、自分勝手で情けない男だろ」
そう言ってじいちゃんは升に半分ほど残っていた日本酒を一気に飲み干した。
じいちゃんは身をもって孤独を経験したからこそ、文子さんの平穏を願わずにはいられなかったのだろう。僕はそれがじいちゃんの優しさだと思うから受け入れられるけれど、じいちゃん本人は罪悪感を感じているらしい。
守るべき家族を放棄して文子さんを気にかけていたなら話は別だが、もちろんそんなことはない。家族のことも、ちゃんと大切にしていた。
僕はやっぱり、じいちゃんを情けない男だなんて思えなかった。
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