第7話 三人

 ばあちゃんとの結婚の経緯いきさつを聞こうと決めたはいいものの、いざ話題を振ろうと思うとなかなか聞きづらいものがあった。

 両親の馴れ初めすら聞いたことがない……というよりあまり興味がない僕にはやっぱりハードルが高い話題だし、なんとなく切り出しにくい。


 彼女と付き合うきっかけとか、デートの思い出話とかを抵抗なく話す友達の姿は今まで何度も見たことがある。もちろん僕はそういうとき、適度な相槌で聞き役に徹する。

 楽しそうに話す友達を見ていると、こういうのがノロケ話っていうんだろうな、と微笑ましく感じる。

 でも、もし僕に彼女ができたとしても、きっと僕は率先してその子との思い出は語らないと思う。できれば、二人のことは自分自身の中に留めておきたいと思ってしまうのだ。

 それに、ノロケ話をする友達を前にすると、恋人同士のやり取りを他人である僕が聞いてもいいのだろうか、と戸惑ってしまうこともある。

 そのせいか、僕から話を聞きだすのにはどうしても抵抗があった。


 そんな迷いは全然隠しきれていなかったようで、うだうだする僕の顔を見たじいちゃんは耐えきれなくなったように「聞きたいことがあるんだろ」と優しく笑った。

 あぁ、やっぱりじいちゃんには敵わない。

 僕の心中なんてお見通しなんだろう。

 僕は少しの安心感を取り戻し、珍しく自分から苦手な話題を切り出すなんてことをしてみた。

「あー……、その、ばあちゃんとの結婚の経緯とかって、聞いても良いの?」

「ははっ! 何を今さら!」

 そう言ったじいちゃんは、さっきとは比ぶべくもない笑い声をあげて「じゃあ少し長くなるが……」と再び昔の話を語り出した。


「ばあちゃんと結婚したのは、文子と別れてから一年も経ってない頃だった」

「え、そんなに早く?」

 僕はてっきり、紆余曲折あって結婚まで数年かかっていたのかと思っていたから驚いた。

 じいちゃんはそんな短期間で文子さんへの感情を消化できたのだろうか。


「我ながら、薄情者だと思う。とくに、美代子……ばあちゃんには本当に悪いことをしたと今でも申し訳なく思ってるよ」


 じいちゃんとばあちゃんは、昔から互いのことを名前で呼び合っていた。

 僕も交えて会話するときには、僕にあわせて「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼び変えていたけれど、二人で話すときには「寿さん」「美代子」と呼び合う姿が今でも思い浮かぶ。

 小さな頃から二人の家に遊びに行ってばかりだった僕には、それが普通だった。けれど、自分の家にいるときにふと、父さんと母さんが名前で呼び合う姿を見ないな、と気付き、じいちゃんとばあちゃんは少数派だったことを知った。


「ばあちゃ……。美代子が俺のとこに嫁いできたのは、十九のときだった」

 さっきは、あえて「ばあちゃん」と言い直していたけれど、今度は逆に「美代子」と言い直した。

 今じいちゃんが思い出しているばあちゃんの姿を想像すると、僕も、そっちの方が良いと思った。


 それにしても、十九歳で結婚か。

 やっぱり僕は、僕自身がその年で人生の重要な決断ができるとは思えない。


「俺の母親は、信じられないことに文子と離婚してすぐに縁談を持ってきた。俺は正気を疑ったが、残念ながら母は本気だったんだ。早く再婚して跡取りを、ってそればっかりになってたんだろうな。俺はもううんざりだった。子ども、子どもと口を揃える母親や親戚が、何か別の生き物のようにすら見えてきて、腹の中が黒くて重たいヘドロみたいなもので埋まっていくような感じがした。体調不良を理由に話を避け続けてはいたが、当然限界はやってくる。またしても父親が出てきて『どこまで恥をかかせれば気が済むんだ』と殴られたときに、俺はこの人の何に怯えていたんだ、と情けなくなった。すでに自分の方が体も大きいし、力も強かった。当然自立していたから、疎遠になったところで困ることはなかったはずなんだ。そのことにもっと早くに気付いていれば、文子を侮辱したあのとき、言いたいことを全てぶつけられたのに、ってな」

 僕からすれば曾祖父と曾祖母にあたる人物の話になるわけだけれど、本当に、聞けば聞くほどじいちゃんの両親とは思えない。

 これも時代のせいなのだろうか。


「父親に感じていた恐怖や畏怖が完全になくなって、抵抗するのも反発するのも簡単だった。でもな、遣時やりどきはとうに過ぎていた。俺が一番抵抗しなきゃいけなかったときに何もできないで、自分が望んでもいない再婚を迫られたからといって突っぱねるんじゃ、子どもの駄々と同じだ」

 こんなの、自暴自棄になってしまっても仕方ない話だと僕は思った。僕ならきっと何もかも投げやりになっているだろう。

 しかし、じいちゃんは違った。


「俺は悪足掻きなのは重々承知で、最後の賭けに出ることにしたんだ」

「最後の……賭け?」

「文子に会いに行った」

「え?」

「文子の実家の近くで待ち伏せするような真似をして……今思い出しても恥ずかしいことだが、もうなりふり構っていられなかったんだ」

 思わぬ行動力に少し驚きはしたけれど、まだ手が届く範囲に文子さんがいると知っていたなら体が動いてしまうこともあるのだろう。

 一度別れた相手に会いに行くというのは、きっとものすごく勇気のいることだと思う。でも、そんなこと考える余裕もないくらい、当時のじいちゃんは追い詰められていたのかもしれない。


「文子さんとはちゃんと会えたの?」

「一応な。別れてからは半年くらい経ってたかな、遠目から見る文子はひどく痩せていて顔色も悪いようだった。自由になってほしくて離れたのに、変わらず雁字搦めのままだった。結局、地元に居続けるなら本当の意味で解放されることなんてなかったんだ。それで踏ん切りがついたよ。拒絶されても正論をぶつけられても、強引にこの町から連れ出そうと。それで恨まれることになっても、最終的に文子を救い出すことになるはずだ! なんて……思い上がっていたんだ」

 この口ぶりからして、じいちゃんの最後の賭けは徒労に終わったのだろう。

 いや、僕が存在している時点で、文子さんと望ましいルートを築けなかったのは言うまでもない。


「突然声をかけた俺に、文子は一瞬驚いた様子だったがすぐに懐かしい笑顔を見せてくれた。俺は精一杯思いの丈をぶつけたが、文子の気持ちが揺らぐことはなかった。『こんな小さな町から駆け落ちなんてしたらたちまち噂になって、残された互いの両親がつらい思いをするでしょう』なんて言うんだ。あぁ、どこまでも周りを優先するんだな、と改めて思ったよ。俺にはもう自分の両親を思いやる気持ちなんてなかったが、文子の両親にも迷惑がかかると思うと、さすがに強行するわけにはいかなかった。文子がこの町を一人で出ていくと聞いたのは、そのときだ。札幌で仕事を見つけるつもりだと言っていた。それで俺は、文子と会うのはこの日が最後なんだと確信した。どうしたって一緒には生きられないと悟った俺は、せめて前向きに別れようと思ったんだが……」

 そこでじいちゃんは言葉に詰まった。

ひどく言いにくそうな様子で視線を落とす。その気まずさの理由はすぐに分かった。


「別れ際、文子に『幸せな家庭を築いてください』と言われた……」

「……え?」

 美代ちゃんとは、言うまでもなくばあちゃんのことだ。

 文子さんとばあちゃんは面識があったのか?


「俺は自分の耳を疑った。自分が何の返事もしていない再婚のことを、しかもその相手のことまでを、なぜ文子が知っているのか理解できなかった。俺自身、縁談の話は避け続けていたから、。だから、余計に驚いて混乱した」

「え? ……え、ちょっと待って。文子さんとばあちゃんが知り合いなだけじゃなくて、じいちゃんも昔からばあちゃんのこと知ってたの?」

 今の話じゃ、三人は互いのことを認識していたように聞こえる。

 

 これが付き合う付き合わないの話ならまだしも、結婚が絡むとなるととんでもなく気まずい三角関係なんじゃないだろうか。

「俺たちの七つ下の美代子は、商売をやってた文子の親父さんのお得意さんとこの子でな。しょっちゅう文子んちに遊びに来てたらしい。子どもの頃から文子によく懐いてて、その頃から俺も何度か顔を合わせたことがあったんだ」

 驚いた。

 互いを認識していたどころか、古くからの知り合いだった。

 そんな狭小な世界で周りが主導する結婚なんて理解できない。

 百歩譲って、その風習が主流だった時代もあっただろうけれど、もっともっと昔の話だと思っていた。


「文子は、俺と美代子の縁談話があると噂で聞いた、と言った。俺が拒絶し続けていることは知らなかったらしく、全てを話すと少し驚いていた。まだ未練の残る俺は文子に誤解されたくなくて、すぐに否定したんだ。俺は美代子を愛せないし、仮に結婚したとしても子どもを作る気にはなれない、と。……そのとき、はじめて文子に怒られた。子どもの頃も、夫婦だった頃も、文子が怒っている姿なんて見たことがなかったから、本当に驚いたよ」

「文子さんはなんて?」

「『彼女のことを知ろうともせずに拒絶することは許せない』と強く言われた。そのときすぐには受け入れられなかったし、文子がどうしてあんなに怒ったのかも理解できなかった。でも今なら分かる。俺は美代子の気持ちを蔑ろにして、拒絶して、傷付け続けた。踏みにじった。それでも返事を待ち続けてくれている美代子を無視して、終わったはずの話を蒸し返して……。どこまでも自分のことしか考えていない愚か者だった。文子はきっと、歩み寄ってくれる相手の気持ちを軽んじるような俺の態度がどうしても許せなかったんだと思う。本当に自分で自分が情けない」

 僕はこのとき、じいちゃんに掛けられる言葉を持っていなかった。


「『無理に愛せとは言わないけれど、ちゃんと正面から向き合ってください』と言われて、ハッとしたよ。そう言った文子が昔と同じ笑顔だったから。美代子も含めて、この瞬間も下を向き続けているのは俺だけだと自覚した。運命を受け入れて、前を向いている文子はもう俺なんかを求めていなかった。新しい道を切り拓く彼女の足枷にはなりたくなかったからな、最後は笑顔で別れたよ。文子とは……、それ以来一度も会っていない」

 少し湿っぽくなった空気を切り替えるかのように、じいちゃんの声色がわずかに変わる。


「文子と別れたあと、俺は不誠実な態度を直接謝るために美代子と会う機会を設けてもらった。縁談って形式上、美代子と互いの両親が揃う場での俺の第一声は美代子への謝罪だった。だが、文句の一つや二つじゃ足りないことをした俺を美代子は一切責めなかった。それどころか『会えてよかった』って笑顔を向けたんだ。俺のしたことを思えば、破談になってもおかしくなかったがそうはならなかった。美代子とちゃんと向き合うと決めた俺には、また会いたいという彼女の申し出を断る理由はなかったから」


 僕は、生まれてはじめて、人が別れを乗り越える瞬間を見た気がした。

 文子さんとの二度の別れはさぞつらかっただろう。でも、二度目の決別がなければじいちゃんの心だけが今もあの場に置き去りになったままだったかもしれない。

 じいちゃんの背中を押した文子さん。

 ずっと返事を待ち続けていたばあちゃん。

 二人の優しさが、折れかけたじいちゃんを立ち直らせてくれたのだろう。

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