第6話 罪の意識
活気のある居酒屋のカウンターに、文字通り肩を落として並ぶ背中が二つ。
寂しさを
互いを嫌いになったわけじゃないのに別れを選ぶしかなかった二人は、どんなに辛い思いをしたのだろう。
満足に語れるような恋愛経験などない僕の乏しい想像力じゃ見当もつかない。
じいちゃんの話は、今から五十年以上前の出来事だ。それなのに、まるでつい数か月前の話をするような迷いのない口ぶりで、そこに忘却という概念は感じられない。
それだけ鮮明に、色濃く、当時の出来事がじいちゃんの心に刻み込まれているのだろう。
僕はふと、ある疑問に思い至る。
不条理で、理不尽で、到底納得できない理由で別れることになった二人だけれど、じいちゃんは最後まで文子さんを第一に想っていたし、気持ちを汲んでいたはずだ。
子どもはできなくてもいいから、親も故郷も捨ててでも二人で遠い町で暮らしたい、という強い希求を諦めたのは、文子さんを想っていたからこその結果だ。
じいちゃんは、文子さんが大事だからこそ、彼女の希望を受け入れ、彼女の手を離したのだ。
なのにじいちゃんは、北海道でしたいことを尋ねた僕に「前妻に謝りたいんだ」と答えた。
文子さんとの話を聞いた僕には、当時のじいちゃんの決断が間違っていたとは思えないし、謝らなきゃいけないようなことをしたとも思えない。一体、じいちゃんは何を謝りたいというのか。
「あの、さ……。一個、聞いてもいい?」
「ん?」
「じいちゃんは、文子さんに何を謝りたいと思ってるの? 僕、じいちゃんが謝るようなことをしてたとは思えなかったんだけど……」
率直な思いを単刀直入にぶつけた。
さすがにこれは口にはしなかったけれど、謝るべきというならばむしろ、息子の幸せを願えなかったじいちゃんのお父さんやお母さんじゃないだろうか。余計なお世話で文子さんを傷つけた近所の人たちじゃないだろうか。
僕は誰にぶつけることもできない不満を密かに抱きながら、じいちゃんの答えを待つ。じいちゃんは何度か首を横に振り「文子を独りにしたのは……俺だ」と言った。
「何を謝りたい、か……。そうだなぁ。あの日の文子の申し出に抵抗し続けられなかったこと、俺に抗う力がなかったこと、両親や近所の人たちから守れなかったこと、文子の気持ちにもっと早く気付いてやれなかったこと、最終的に離婚届けに判を押してしまったこと、文子だけに孤独を背負わせたこと……。言い出したらキリがないな」
メモを読み上げるかのように、淀みなく次々と罪の意識を告白するじいちゃんは、きっと何十年もずっと、辛い過去や消えない後悔と向き合っていたのだろう。
思い出も、気持ちもまったく色あせていない。当時のままだ。
「今でこそ離婚はよくある話になってきたが、あの時代では珍しいことだった。そして、珍しい話ってのは、あっという間に広がる。しかも尾びれがついて。勝手を言うのは簡単だからな。俺は、無理を承知で文子の気が変わることに賭けて粘ったんだが……、まぁ、結局互いに二十六のとき離婚した。当時、二十五を超えた女性、ましてや離婚歴のある女性を貰いたいという珍しい男なんていなかった。おまけに文子は子どもができないと思われている。それが真実かどうかなんて、赤の他人に確かめられるはずないのに、そんなことお構いなしに勝手を言う。当然、嫁の貰い手は余計になくなるし、仮に実家に戻るにしても肩身の狭い思いを強いられる。これがどんなにつらいことかは……晋太朗にも分かるだろ?」
小さく頷く。僕は浅はかな自分が恥ずかしくなった。
「俺は文子にあれ以上悲しい思いをさせたくなくて、彼女の気持ちを尊重した。でも、文子の申し出を受け入れるってことは、文子が独りで生きる可能性を限りなく高めることと同じなんだ。それを理解していたのに、抗う
「っ! それは違うよ!」
この店に来て、僕は初めて大きな声を出した。
「じいちゃんは文子さんを見捨ててなんかない! 本当に見捨てたって言うなら、今もまだ抱え続けているその後悔はなんて説明すればいい? 五十年以上前のことを謝るためにわざわざ北海道までやってきた原動力は、文子さんを大切に想う心だ!」
もしかすると僕は、またしてもじいちゃんのことを分かった気になっているだけなのかもしれない。なんたって僕は、考えが至らない浅はかな人間なのだから。
でも、こんなにも情が深いじいちゃんに“見捨てる”なんて言葉は似合わない。だから僕は、大きな声で否定する。じいちゃんは文子さんを見捨ててなんかない、と。
「……ありがとなぁ。晋太朗は優しいなぁ」
きっとじいちゃん自身、本気で見捨てたとは思っていないだろう。ただ、それくらい強い罪悪感を感じているのだと思う。僕はこの旅でじいちゃんにその罪悪感から解放され、自分を許せるようになってほしいと、心から思った。
でも、そのためには、聞いておくべき話がまだある。ばあちゃんとのことだ。
僕が見ていた限り、じいちゃんのばあちゃんへの想いも、本物だったと思う。となると、じいちゃんの罪悪感はばあちゃんにしてきたことに対しても向くはずだ。
第一、やむを得ず文子さんと離婚したじいちゃんが、再び結婚を選ぶ理由が分からない。文子さんへの想いを引きずったまま、ばあちゃんと結婚するなんて不自然すぎる。きっと、ここにもまた、僕の知らない過去があるのだろう。
僕はじいちゃんと自分の分の飲み物をそれぞれ追加で頼み、もう一歩じいちゃんの過去に踏み込んでみることを決めた。
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