二章:過去と後悔

第5話 別れの理由

「……なんで別れたの?」

 そんな不躾な僕の質問に対して気を悪くする様子はなく、しかし、視線は落としたまま「」とじいちゃんは答えた。


 僕は聞き間違いかと思った。

 子どもができないことが離婚の理由になるのが、いまいちピンとこなかったからだ。それもそうだろう。僕は結婚自体よく分かっていないのだから、その先の問題など完全に未知の領域に他ならない。


「周りよりも大分早くに結婚したもんだから、最初の頃は子どもを設ける余裕がないんだと思われていたのか、大して何も言われなかったんだけどな。だが、三年も過ぎると会う人会う人に『跡取りはまだか?』『ちゃんとやることやってるのか?』なんて言われるようになった。当然腹は立ったさ。でもな、皆、コッチの気も知らないで笑って言うもんだから、相手にするのもバカバカしくてな。適当にあしらって、やり過ごしていた。それに子どもってのは授かりもんだから、俺は、今の自分たちにはまだ早いんだって受け入れられていたし、できないならできないでいいとも思ってたんだ。本当に。でも、文子は俺なんかよりもよっぽど悩んで、思い詰めて……辛い思いをしてたんだろうなぁ……」


 言うまでもなく、子どもを設けるか否かのデリケートな問題に他人が口を出すべきではない。

 軽い冗談のつもりで口にした言葉が、当人を思いのほか追い詰めるなんてことは、現代でもよくある話だ。文子さんも悪意のない悪意を浴び続け、嫌な思いに耐えていたんだと思う。

 きっと、僕なんかには想像できないくらい、それはそれは暗くて苦しくて重たい気持ちを生み出したことだろう。


「結婚して五年くらい過ぎた頃だったかな、あまりにもいい知らせがないもんだから、遂に俺の母親が黙っていられなくなったんだ。俺がたまたま実家に寄った日『あの子はダメだ、今からでも遅くないから子どもを産める嫁さんを貰った方があなたのためよ』って言い出してな」

「そんな……」

「正論だとは言えないが、昔はそう珍しいことじゃなかった。男が外で働くのと同じように、女は子どもを産んで、育てて、家を守るのが当たり前だったんだよ」


 じいちゃんの言うことは、なんとなくだけれど分かった。

 今でこそ、男性の育休取得率が少しずつではあるが増えてきている。家事や育児に男性も参加することが、徐々に自然になってきている。

 けれど、日本全体に普及しているかといえば、まだまだだろう。

 今になってようやく変化が見られだしたばかりなのだから、じいちゃんの時代、育児と家事が女性の役目だと思われていても不思議ではない。


「母親の肩を持つわけじゃないが、言っていることは理解できた。だが、それを受け入れられるかは別の話だ。俺はあのとき、生まれてはじめて怒鳴り声を挙げた。自分たちのことは放っておいてくれ、と。そして、文子には絶対に何も言うな、と」

 若い頃とはいえ、じいちゃんが誰かに声を挙げて抗議する姿なんてどうしても想像できず、僕は驚いた。

 父さんも伯母さんもじいちゃんを温和で優しい人だと言うし、僕もそう思う。

 父さんは、子どもの頃に叱られた覚えがない、なんて口にしたこともあった。

 家庭の絶対的存在で、威圧感をまとっていそうな昭和の父親像には、とてもじゃないが当てはまらない。そんなじいちゃんが怒るってことは、よほど耐えがたい出来事だったのだろう。


 決して、進んで思い出したくないであろう話を語る喉を潤すかのように、じいちゃんは地酒が注がれた升を口に運んだ。もしかすると、良い思い出が少ないかもしれない地元の酒に何を感じているのか、僕にはわからない。


「俺の怒鳴り声を初めて聞いた母親は、驚いたような、ショックを受けたような、そんな顔をしていた。あの顔は今でも忘れられない……。ついカッとなって怖がらせてしまったことは申し訳なく思った。だが、何を言われても発言を訂正するつもりはなかった。その後は別人のように大人しくなったから、諦めてくれたんだと思ったんだが……」

「また、何か言われたの?」

「あぁ。自分だけじゃ説得できないと思った母が頼んだのか、今度は父親が出てきた。『あの女とは別れろ』と。あの頃、どこの家庭でも父親というのは絶対だったんだ。うちの父親は特に厳しい人だったから、子どもの頃から一度も反抗したことはなかった。反抗すれば小さい子どもの頭にも容赦なく拳が飛んできたしな。でもあのときは、俺も黙っていられなかった。放っておいてくれといったはずだ、と反論したんだが、父親は初めから俺の意見を聞く気などなかったらしい。『いつまでも子どもができないと周りから変な目で見られる、一家の恥だ』と言った。父親は世間の目ばかりを気にしていたんだ。挙句の果てに『子どもを産めない女に価値はない、お前の嫁は穢れた石女うまずめだ』とまで……。俺はそのとき、自分の父親をひどく嫌悪した」


 石女という言葉の正確な意味は知らなかったけれど、妊娠できない女性を虐げる言葉であることは何となく分かった。きっと今使えば問題になるような言葉だろう。

 じいちゃんの父親の話を聞くのは、これがはじめてだった。

 優しい人の育ての親も優しい人である、とは限らないらしい。


「俺は何とか怒りを抑えて、絶対に別れないとだけ言い残して自宅に戻った。正直、すぐにでも殴りかかりたいくらいだったが、躾と称して容赦なく手を上げてきた父親の姿が浮かんで、なんとか怒りを制御できた。俺は、子どもの頃から父親が嫌いだったんだと実感して、自分は絶対にこうはならないと決めたんだ」

 じいちゃんは自分の父親を反面教師にして、こんなに優しく穏やかな人になったことを僕は知った。

 僕は、奈良岡寿じいちゃんという人物をよく知っている気になっていたけれど、離婚歴があったことも厳しい父親に育てられたことも一切知らなかった。

 もしかすると、実は大してじいちゃんのことは何も知らないのかもしれない。そう思うと少し寂しくもあるが、せっかくの機会だ。もっと教えてもらおう、じいちゃんの過去を。


「そのあとはどうなったの? 文子さんや、じいちゃんのお父さんとは」

 きっと、昔言われたひどい言葉を口にするには抵抗があっただろう。当時の怒りも思い出しただろう。

 それでもじいちゃんは、顔色一つ変えずに淡々と、落ち着いた様子で語り続けていた。そして、同じ様子で僕の問いに答える。

「両親とは当然険悪な関係になった。顔を合わせれば互いに不快な思いをするだけだってことは分かっていたから、俺は実家からそれまで以上に距離を置いて、文子も俺の実家に近付けないようにした。もちろん、両親が俺たちの家に来ることも拒んだ。周りにどう思われようと、俺は文子と一緒に居られればよかったんだ。だから、両親とは縁を切って地元を離れるって選択肢もあったんだよ。いわゆる駆け落ちってやつだな」

 縁を切るとか、駆け落ちとか、僕には馴染みのない言葉から状況の悪さが想像できる。


「本気だった。俺は、女性を子どもを産む道具のように見る父親も、すれ違えば『子どもはまだか?』と無配慮な声ばかりをかけてくる近所の人たちも、気持ち悪いと思ってしまったんだ。だから、気持ちの悪い人間たちから離れて、知っている人が誰もいない町で文子と二人穏やかに暮らそうと決めた。でも俺が文子にその提案をする前に、文子に……『別れてください』と言われた」

 これまで淡々と語り続けていたじいちゃんの声が沈む。

 まるで噛みしめるかのように、少しだけゆっくりと文子さんの言葉を口にした。


「俺はすぐに両親が余計なことを言ったんだと思って、文子に理由を問いただした」

 きっと僕がじいちゃんの立場でも、同じように考え、同じような行動を取るだろう。

 別れるように言われた、本当は別れたくないのに、そんな言葉を聞けたら、そりゃあ駆け落ちする覚悟も固まるに違いない! 想い人の手を取り、すぐにでも駆けだしたくなるだろう!

 しかし、文子さんの答えは、知らない土地への誘いの手を取ってくれるものではなかった。


「何度聞いても文子は、何も言われていないと言い張ってな……。そんなことは嘘だとすぐに分かったが、結局最後まで文子は俺の親を守った」

「それじゃあ、どうして……」

「文子は子どもの頃から心が優しかったから、両親を庇ってるんだと思った。それなら強引にでも連れ出してやろうと思ったんだ。でも、そんなことしたって何の解決にもならないってことに気付かされた」

「どうやって?」

「『どこに行ったって、子どもができないままなら私はずっと女としての役割を果たせない無価値な人間として見られる。穢れたものを見るような周りの目に、耐えられる自信がない』と……」


 人間の視線というのはときに残酷で、それに恐怖を感じるようになることだって珍しくない。文子さんは結婚してからずっと、奇異の目にさらされ続けていたのだろう。

「文子の言うことは理解はできたし、納得もできた。でも俺は、それが一時的な問題だとどうにか折り合いをつけて、一緒に来てほしいと懇願した。今思えば、自分勝手でひどい言い分だが、あのときはとにかく文子を説得して連れ出すことで頭がいっぱいだったんだ」

「説得……できなかったの?」

「できなかった、というよりも……諦めざるを得なかった、といったところかな。『もし私を本当に大切に想ってくれているなら、もう私を解放してください』なんて言われたら……それ以上は、もう……」


 それは、自分の両親を捨て、故郷を捨ててでも文子さんと一緒に居ることを選んだじいちゃんには、随分酷な言葉だっただろう。

 本当は別れたくなかった、と言ったじいちゃんが別れを選んだことを想像するとやるせなくて、悔しさすら感じる。

強引にでも連れ出そうと考えていた駆け落ちを諦めたのは、文子さんの幸せや自由を願ってのことだ。相手が大事だからこそ、自分の気持ちを押し殺して文子さんの思いを優先したのだろう。


 周りが余計なことを言わなければ──

 じいちゃんのお父さんがもう少し寛大な人だったら──

 時代が違えば──

 二人が別れる必要はなかったのかもしれない。


「子どもができないことが離婚の理由になるなんて……、悔しいよ」

 話しかけているのか、独り言なのか分からない僕の呟きにじいちゃんは、そうだなぁ……と寂しそうな声を漏らした。 

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