第4話 残る未練

「お! お客さん。おかわりは?」


 空のグラスを見て声をかけてきたのは、じいちゃんの右斜め前にある炉端で焼き物を担当していた店員だった。

 きっと、ものすごく熱いだろう。時折、パチパチと炭のはじける音がする。額に巻いたねじり鉢巻きがよく似合う、声の大きなおじさんだ。


「そうだなぁ、せっかくだから北海道のうまい日本酒でももらおうか」

 じいちゃんは日頃から晩酌をするわけではないが、祝いの席だとか、親戚の集まりだとか、そういった場面ではいつも飲んでいる。多分、お酒には強い方なのだろう。

「晋太朗ももらうか?」

 じいちゃんのカミングアウトの余韻を引きずっていた僕は、あ、いや……、と言いよどんでしまったが、すぐに「僕はビールが残ってるから大丈夫。それに、日本酒はまだ一度も飲んだことがないんだ」と答えた。


「そうか。それじゃあ、グラスは1つ、銘柄はお任せで」

「わっかりましたぁ! お二人はご旅行で北海道に?」

「えぇ。夏の北海道は気持ちがいいもんですな」

「そうでしょ! 今週はずっと天気いいみたいなんで、楽しんでってくださいね! ちなみに旭川は初めてですか?」

「私はここで生まれましたが、遠い昔の話なんではじめての土地みたいなもんですね。当時の面影なんて当然ないですし、懐かしさも何もありませんよ。孫はね、北海道に来るのはじめてなんです」

「あっ、お孫さんでしたか! てっきり息子さんだと思いましたよ! 一緒に旅行に来てくれるなんて、いいお孫さんですね~」

「本当にそうですね、自慢の孫です」

「じゃあ今夜はビールと旭川の地酒で、存分に語り合ってってください」


 カウンターに座る客全員に聞こえるんじゃないかと思うくらいのボリュームで話す店員は、よく冷えたグラスと升に酒を溢れさせながら注いで、持ち場の炉端に戻って行った。

 話していたときは陽気なおじさんという印象が前面に押し出されていたけれど、今はもう職人の顔になっている。


 確かに僕とじいちゃんは、きっと今からこの旅の目的について語り合うのだろう。しかし、あの店員が考えるような明るい話題にはならないかもしれないな、と思いながら、どう話を切り出すべきか悩んでいると、じいちゃんが「軽蔑したか?」と静かに言った。

 僕は沈黙を嫌うように慌てて「そんなことない!」と答える。

 そして、一呼吸おいてから「ただ、聞いたことない話だったからびっくりしただけ」と続けた。あまりにも頼りない声だったから、もしかしたら店の賑やかさにかき消されて、じいちゃんには聞こえていなかったかもしれない。


 咄嗟に口から出た言葉だったけれど、正直な気持ちだった。

 じいちゃんが、ばあちゃんと結婚する前に別の女性と結婚していたからと言って、その過去が軽蔑する理由になるかといえば、それはない。

 ただ、そんな可能性は今まで微塵も思い浮かばなかったし、二人は互いに他の相手などいなくて最初から最後まで互いだけを想い合っていたと思い込んでいた。なぜかそう決めつけていた。

 勝手な思い込みで二人の過去を分かった気になっていただけで、二人の口から昔の話を聞いたわけでもないのに。


 それなのに、人の想像力というのは豊かで、じいちゃんとばあちゃんははじめから結婚することが決まっていて、父さんや僕が生まれたのも当然のことのように錯覚していた。

 勘違いも甚だしい。

 勝手に思い描いた過去とは違う事実が出てきたら、勝手に驚いている自分の身勝手さに嫌気がさす。

 しかし、それ以上に辟易したのはじいちゃんのカミングアウトを聞いて、反射的に軽いショックを感じてしまったことだ。

 そして、僕がショックを受けたことにじいちゃんは多分気付いていた。

 まぁ、あんなにわかりやすく黙りこくっていたんじゃ、悟られて当然だろう。僕は申し訳なさやら、自分の不甲斐なさやらでまたしても言葉が出なくなった。

 でも、そこまで空気が重たくならなかったのは、周りの人たちが生み出す騒がしさがあったからだろう。


「本当は墓まで持って行くつもりだったんだけどな……。晋太朗、じいちゃんの話聞いてくれるか?」

 墓まで持って行こうとした話を僕なんかが聞いて良いのだろうかという気持ちはあったけれど、僕が旅の目的を聞いたことで秘密を仕舞っていた箱の鍵が開けられ、じいちゃんは自らの意志で僕にその話をしようとしている。

 聞かないなんて選択肢、あるはずがない! それに、僕はもう知りたくなっている。

「僕でよければ聞かせてほしい」と答えると、じいちゃんがほんの少し微笑んだように見えた。


 ***


 話がはじまる前に、僕はジョッキに残っていたビールを飲み干して、新しい一杯を頼んだ。途中で話を中断したくなかったからだ。

 よく冷えた新しいビールはすぐに届き、準備は整った。僕はこれから、きっと父さんも知らないであろうじいちゃんの過去を知ることになる。


「じいちゃんな、ばあちゃんと結婚する前に“文子あやこ”っちゅう幼馴染みと結婚したんだ。二十歳のときだったな」

 二十歳と聞いて僕は、随分若いときに結婚したんだな、と思った。

 二十一歳の僕は今、将来のビジョンが描けず、就職先も選べず、ただ何となく毎日を過ごしている。

 自分が結婚するなんてとても想像できないし、考えたこともない。結婚ってのは相手の人生も背負うことになるわけだから、ちゃんとした大人になってからするものというイメージはあるものの、自分には関係のないからと真剣に考えたことはなかった。

 だから二十歳での結婚は早いと驚いたけれど、昔はそれくらいの年齢で結婚するのも普通だったのだろうか。


「文子とは生まれた家が近くてな。こんな小さいときからずっと一緒だった」

 じいちゃんは自分の腰よりも低い位置に手をやりながら話す。

「あの頃はまだ見合い結婚の方が多い時代だったんだが、じいちゃんは恋愛結婚ってやつだったんだ」

 そう言ってじいちゃんは照れくさそうに目線を下げた。


 ほんの数分前まで、じいちゃんはばあちゃんだけを想っていたと決め込んでいた僕だけれど、実際にじいちゃんの口から別の女性と恋愛をしていた事実が語られると、不思議なくらいすんなりと受け入れられた。

 時期が被っていないのであれば何も悪いことじゃないし、そりゃそうだよな、じいちゃんだって若いときは恋愛くらいするよな、と冷静に納得する自分がいた。


 当時を思い出しながら話すじいちゃんの横顔はとてもやさしい。

 幼い頃から何度も見てきた柔らかい表情だ。だからこそ、気付いてしまった。

 その顔を見てしまえば、じいちゃんにとって文子さんがどれだけ大切な女性だったのかってことくらい僕でも分かる。となると、どうして別れてしまったのかが気になる。

「文子はよく気が利いて、家のことも一生懸命だった。当時は稼ぎも少なくて苦労ばかりかけたのに、文句の一つも言わずによくやってくれてな。貧しいなりに楽しく暮らしていけたのは、文子のおかげだ」


 僕はなんとなく文子さんにも、ばあちゃんのような優しい雰囲気を感じた。

 じいちゃんの周りに優しい人が多いのは、きっとじいちゃんが優しい人だからなんだろうけれど、だったら尚更別れる理由が分からない。

 僕が不思議に思っていると、じいちゃんは少し辛そうに「本当は……別れたくなかったんだ」と呟いた。

 僕は思わず、え? と声が出る。


「こんなこと言ったら、死んだばあちゃんに怒られるかもしれないな」と苦笑いを浮かべるじいちゃんに「……なんで別れたの?」と尋ねた。

 尋ねながら僕は、さっきじいちゃんが言った「軽蔑したか?」の意味に思い当たる。

 じいちゃんは、今もまだ文子さんへの想いを引きずっているのだろう。そのことにじいちゃん自身が強い罪悪感を感じているからこそ、なんて言葉が出てきたんだ、と思った。

 中身が減らないビールジョッキの周りを水滴が伝う。

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