第3話 祖父と孫の旅

 自宅を出てから約二十四時間、ようやく北海道に着いた。いや、正確にいえば四時間ほど前には、北海道の苫小牧港に到着していた。しかし、そこからバスで札幌へ移動し、さらに電車で旭川への移動があった。すべてのルートを制覇した今だからこそ、やっとゴールにたどり着いた達成感のようなものを感じていた。

 ここまでの旅路で僕が一番驚いたのは、じいちゃんがスケジュールのメモとパンフレットだけを頼りに北海道へ行こうとしていたことだ。いくら経験があると言っても、それは五十年以上前の話だし、記憶は曖昧になっているだろう。移動の大半は乗り物に乗っていれば成立するが、すべてが直結しているわけではないから乗り換えまでの移動は自分の足で歩く必要がある。仮に当時のルートを事細かに覚えていたとしても、時の流れとともに様変わりしているだろうから、記憶は正直あまり当てにならない。

 僕が「もし、乗り換えまでの道が分からなくなったらどうするの?」と聞くと、じいちゃんは「その時は現地の人に聞けばいい」と、さも当然のように答えた。まぁ、それが一番なのだろうけれど、どうも僕は知らない土地で知らない人に話しかける勇気はない。駅の職員やバスの乗務員が相手でも、目的地への行き方が分からないから聞いてみよう、という気は起きないだろう。だいたい、知らない人に聞かなくてもスマホで調べれば大抵のことは解決する。口頭で説明されるよりも、ナビで導いてもらった方が確実だと思ってしまう。

 僕の不安は北海道に到着して早々に的中した。案の定、苫小牧港からバス停までの道のりが分からず、じいちゃんは近くにいた職員の人にルートを尋ねていた。僕も横で聞いていたが、正直よく分からなかった。というか、途中で理解することを諦めた。単に、聞く相手が悪かっただけだと思う。仕事が忙しいのか、相手が老人だからなのか、たまたま機嫌が悪かったのか、理由は分からないがやけに早口で不親切な印象の男性で、僕は少しイラっとした。じいちゃんも一度では分からなかったようで聞き返そうとすると、「詳しいことは窓口で聞いてください」と言って去って行った。

 あの人がいつもこんな態度なのかは分からない。もしかすると、普段はもう少し穏やかな人かもしれない。大人としてあまりいい態度とは言えないが、そういう人もいる。他人に過度な期待をすると、かえってストレスが溜まる原因になる。だから僕は人ではなく機械に頼ることを選ぶのだ。

 じいちゃんは苦笑いをしながら窓口に向かおうとしたが、僕はナビアプリに目指すバス停を入力して、ルート案内を開始する。見れば現在地から数分のところにある。こんな簡単な説明も放棄するようなら、あの男の人は相当機嫌が悪かったんだろう。あれ以上関わらなくて正解だ、と納得すると不思議と先ほど感じた苛立ちは消えた。僕は窓口を探すじいちゃんに、こっち、と声をかけ道案内を引き受けた。

「晋太朗、今の説明で場所が分かったのか? さすが若い人は理解力があるなぁ」

 感心するように話すじいちゃんに、僕はスマホのナビ画面を見せた。

「目的地を入力すると、移動にあわせて道順を教えてくれるんだ」

 ほら、と言ってじいちゃんにも画面が見えるようにスマホを持ち、ナビ通りに進む。アプリの指示に従って左に曲がるとすぐ先にバス停があった。

「ほぉ、これは便利だな」

「うん。これがあれば、はじめての土地でも大体迷わず移動できるよ」

「いやぁ、便利な世の中だな。それじゃあこの先の道案内も晋太朗に任せれば安心だな! すごいすごい」

 すごいのは僕じゃなくてスマホなのに、勝手に少しいい気分になってしまった。そうか、僕たちにとっては当然のことでも、スマホを持たないじいちゃんにとってはすごいことなのだ。僕がこの旅に同行している間は、なるべく不便をかけず快適に過ごせるようにフォローしようと決めた。

 そうして、北海道出身のじいちゃんを、北海道初体験の僕が案内するという不思議な形で、ようやく目的地である旭川に到着した。北海道とはいえ、昼間はそれなりに暑かった。八月の最も気温が高い時期なのだから当たり前なのだけれど、僕は東京で暑さには慣れているから、何の苦も感じなかった。むしろ、湿度が低くカラッとしていて気持ちの良い暑さに感じる。

 じいちゃんが予約を取ってくれたホテルを調べると、旭川駅のすぐ近くだった。とりあえず荷物を置くために、すぐにホテルのチェックインを済ませる。駅からホテルまでの移動中、チラリと街中へ目をやったが人が少ない。バスから電車に乗り換えるために立ち寄った札幌には通行人が大勢いて、都会という感じがしたのに。

 聞けば、旭川は札幌に次ぐ歓楽街だというから期待していたのだが、あまり活気は感じられなかった。駅前とは別に栄えている中心部があるのかもしれない、と思いながら僕はホテルのベッドにダイブした。

 二十時間を超える長旅は、とくに疲れるような動きはなかったけれど、乗り物に乗り続けるのも意外とエネルギーを消費するという新たな発見があった。固まった体をほぐすように、ベッドの上で軽いストレッチをして再び横になる。すると、だんだんとまぶたが落ちてきて、その重みに抗えなくなってくる。移動中に満足な睡眠が取れなかったのだから仕方ない。

「ごめん、じいちゃん。少し仮眠して良い?」

「あぁ、はじめての船旅で疲れただろ。夕飯まで休んでいいぞ」

「じゃあちょっとだけ……」

 僕は念のため三〇分のアラームをかけておいた。


 ピピピピピ、ピピピピピ……。

 聞き慣れたアラームを止めて、思い切り伸びをする。たった三〇分だが、よく眠れた。揺れていないのも嬉しい。頭がかなりスッキリと軽くなった。

「ん~、よく寝た!」

「それ、目覚まし時計にもなるのか! 一台何役だ! すごいな」

 またしてもじいちゃんはスマホに感心している。東京に帰ったらシニア向けのスマホでもおすすめしてみようかな、と思う程の食いつきだった。

 アラームを止めるついでに時計を見ると、十八時を少し回ったところだった。

「晋太朗、夕飯食べに行くか」

 そういえば、お腹が空いている。僕はスマホと財布だけポケットに入れて部屋を出た。てっきりホテルで食事するのかと思っていたのだが、じいちゃんはホテルを出るので僕は後ろをついて行く。

「じいちゃん一人だったら、ホテルで食事を済ませたんだが、せっかくなら晋太朗と現地の店に行ってみたいと思ってな」


 僕位の年代の人は、もしかしたら祖父母と食事や旅行に行くのは抵抗があるかもしれない。でも、僕は少しも嫌じゃなかった。僕は昔から、一人で過ごすのが好きな子どもだった。学校に行けば友達がいるし、休日に遊びに誘ってくれる仲間もいる。小中高、そして大学と長い団体生活の中で、幸いにも孤独感を抱えることはなかった。

 自分で言うのもなんだが、人当たりは柔らかい方だと思うし、コミュニケーションに絶望的な難があるわけでもない。話しかけられれば、当たり障りのないやり取りはできる。しかし、同級生のように部活に青春を捧げたり、アニメやゲームに夢中になったり、アイドルを推したりする機会は、僕にはなかった。

 アグレッシブな友人たちが眩しくて、ほんの少し憧れたこともあった。けれど、だからといって彼らと同じように何かに熱中している自分の姿は思い描けなかったし、残念ながら心が昂るような事柄には恵まれないままに、ここまで生きてきた。周りとの温度差に困惑し、自分はおかしいのかもしれない、と悩んだ時期も当然あった。周りと同じでないことが悪いことのように感じて、無理に話題をあわせてみたりもした。しかし、そんな無理が続くはずもなく……。遊びに誘ってもらえたら参加するし、それなりに楽しいけれど、時間を忘れるほど夢中になって過ごしたことはない。

 そんな、何て言い表せばいいのか分からないふわふわとした思春期特有ともいえる悩みを抱えていた当時の僕が、唯一心から居心地がよいと感じられる場所がじいちゃんの家だった。孫をチヤホヤする祖父母の家の居心地がよいということではない。とくに何をするでも、何を話すでもないけれど同じ空間にじいちゃんとばあちゃんがいて、僕はそこで周りを気にすることなく漫画を読んだりテレビを見たり自由に過ごす時間が大好きだった。比較的活発な幼少期を過ごしていた母さんは、休日になると僕に「お友達と遊んで来たら?」「どこかに出掛けようか?」と声をかけてくれていたけれど、その声掛けに応えるのは五回に一回位で、それ以外は大抵じいちゃんの家に遊びに行った。

 周りとの違いに悩んだ時期も、母さんに反抗的な態度を取ってしまった時期も、進路の事で父さんと軽くぶつかった時期も、決まって僕はじいちゃんの家に逃げ込んだ。他の人には打ち明けられないことも、不思議とじいちゃんには言えた。たくさん話を聞いてくれて、いつも僕を諭してくれた。もしも僕が誰かに、親の顔が見たい、と言われたら両親ではなくじいちゃんを紹介するべきだと思うほどに、僕はじいちゃんの影響を大きく受けて育った。そんな過去があるからか、祖父と孫の二人旅、という少し珍しい組み合わせの旅行も、何の抵抗もなく受け入れ楽しめている。


 じいちゃんに誘われるままホテルを出た僕は、ナビアプリにお店の名前を入力して道案内を引き受けた。信号待ちの際、近くにあった気温計に目をやると二十七度を示していた。街行く人たちは暑そうにしているが、僕は快適だった。ちょうど帰宅ラッシュなのか、駅に到着した時よりも車や人の数が多いように感じる。僕たちが向かう先は、ホテルが観光客用に用意したボードで紹介されていた海鮮が美味しいという店だ。地元でも有名な店のようで、平日だというのに大勢の客で賑わっていた。僕たちが案内されたカウンターの目の前にはよく冷えたショーケースがあり、中には魚や貝がぎっしりと並んでいる。その隣には炉端があり、炭火焼の匂いとその光景に食欲がそそられる。僕はようやく、北海道に来たことを実感した。

 じいちゃんは僕に、好きなものを頼め、とメニューを渡してきたので北海道に来たら絶対に食べたいと思っていた刺身とじゃがバターを選んだ。せっかく炉端があるんだし焼き魚も食べたいなと思ったけれど、魚の種類がよく分からないのでそこはじいちゃんに任せて、ビールを二つ頼んだ。

「晋太朗もビールか!?」

 驚くのも無理はないだろう、僕がじいちゃんの前で酒を飲むのはこれが初めてだ。

「僕ももう二十一だからね。せっかくだから一緒に飲もうと思って」

 じいちゃんは目を大きくして驚いていたけれど、すぐに目尻のしわが増えた。

「そうかー、晋太朗と酒を飲める日が来るとはなー。いやぁ、嬉しいなぁ」

 よほど嬉しかったのか、じいちゃんはいつもよりも少しだけビールを飲むペースが早かった。旅先で、美味しいものに囲まれているこの環境も手伝ったのかもしれない。僕はいいタイミングだと思い、ずっと気になっていた旅の目的を尋ねることにした。東京を出発してからのじいちゃんにはどこか違和感があり、どうしてもこの旅が何の目的もない思い出作りの旅行には思えなかったからだ。

「じいちゃん、ここで何かやりたいことあるんでしょ?」

 僕の問いに、気づかれてたか、と苦笑いを浮かべたじいちゃんは、わずかに残っていたビールを流し込み、少し掠れた寂しそうな声でこう言った。

「じいちゃんな、ここで前妻に会って謝りたいんだ」


 ……前妻? じいちゃんがばあちゃん以外の人と結婚していたなんて話、はじめて聞いた。混乱した僕は声を出せずに固まっていた。

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