第11話 祝福に変える

 積極的に絵を書く理由なんてないのだ。呪いのような才能が自らの望むものを奪ったのだから、向き合いたくないに決まっている。


 でも罪悪感も強いのだろう。巨匠ですらも圧倒してしまう。対等な相手なんてどこにもいないのだ。だからこそ、みんなに味わわせた苦しみを自分自身も味わうことを望む。


 気持ちは分からないでもない。でもそんなのただの自傷行為だ。筆を置いて、真っすぐに五十嵐をみつめる。私の気持ちは届かないのかもしれない。それでも別の可能性を問いかける。


「……仲直りするのは無理なの?」


 五十嵐は口元を歪めて、すれた笑みを浮かべた。


「無理ですよ。死を願われるほどなんですよ? 牧野さん。あなただけが私の希望なんです。どうにかして、私の心を折ってください。お願いします。私から絵を奪ってください。私をぼろぼろにしてください」


 心の中は自己嫌悪ばかりで、天才としての自分を否定している。五十嵐は二度の挫折を経て、才能の全てを失い完全な凡人になることを望んでいるのだ。

 

 そんなの受け入れたくない。もう十分に傷ついたはずなのだ。なのに深く頭をさげてくるから、慌てて顔をあげさせた。


「分かった。分かったから……」

「……ありがとうございます。でも今のままだと無理だってことは分かってますよね? 私を挫折させる算段はあるんですか?」


 天と地ほどの差もある私たちの間を埋める算段なんてものは、この世のどこにも存在しない。けれど綺麗な嘘でもいいから、どうにかして納得させてやらなければならない。


 欄干に足をかけていた五十嵐の姿が、脳裏によぎった。背筋が冷たくなる。


「……そうだね。ひとまずは五十嵐の絵を模倣しようと思う。もちろん筆遣いから色の使い方から世界の捉え方。その全てを」


 顔を強張らせながら返事を待っていると、ほんのわずかだけ五十嵐は表情を緩めた。


「いい考えだと思います。私も昔は両親の絵を模倣してました。でもそれだけでは私の心は折れませんよ」

 

 その通りだ。模倣をすれば実力は多少近づけるかもしれない。けれど真物には決して届かない。永遠の贋物だ。五十嵐の望みは完膚なきまでに心を折られ、傷付けられることなのだ。このままではダメだ。


 悩んでいると、不意に天宮の言葉を思い出した。


「……ベースにするのは私の絵だよ。五十嵐から盗めるもの全て盗んだあとは、ひたすら天啓を得るまで頑張るだけ」

「運頼みですか?」


 気にくわない返答だったらしい。むすっとした顔になってしまう。もちろん私も無策にこんなことを口にしたわけじゃない。ちゃんと根拠はある。


「私の友達、画家やってるんだけど凄い才能があるんだ。そいつに私は心を折られた」

「……それで?」

「そんな奴だって私の心を折る傑作を描き上げたとき、ただ運が良かっただけだって言ってたんだ。天に愛されたあいつですらそうなんだよ。私は凡人だからその運を引き寄せるために天才の何十倍も努力してたくさん作品を生み出さないといけない。それでやっと同じ土俵に立てる」


 ちらりと様子をうかがう。表情は柔らかくて、印象は悪くなさそうだ。最後のひと押しをかける。


「……だからこれは運頼みであって、運頼みではない。限りなく低い可能性。その中に眠っている傑作を引き寄せるための、死に物狂いの努力。いつか五十嵐を打ち負かすために必要不可欠な頑張りだよ」


 沈黙が広がるから冷や汗が頬を落ちていく。けれど幸いにも思いが通じたのか、五十嵐は優しく微笑んでくれた。


「分かりました。それなら今からは私が描きます。……そうですね。とりあえずこの部屋を描いてみましょうか。何をどのように表現するのか。私が世界をどうとらえているのか、よく見ておいてください」


 まっさらなキャンバスに入れ替えて、五十嵐に席を譲る。


 筆をとると、もう迷いはなかった。相変わらず筆遣いは人間業とは思えないほど繊細だ。その優れた感性で感じた魅力を一切の誤差なく、それどころか何倍にも増幅させてキャンバスに写し取っているのだろう。


 モチーフはありふれたリビングのはずなのに、キャンバスの向こうには廃墟のような寂しさが漂う。苦痛に悶えるような、魂を削るような美しさだった。横顔だって息苦しそうなのだ。筆を動かすたびに表情が強張っていく。


 やっぱり自分の全てを愛して欲しいと思ってしまう。絵を描く才能だって五十嵐の一部なのだ。それを嫌うってことは、五十嵐自身を嫌うということ。どんな過去があったとしても、自分を嫌いになって欲しくない。


 机の上の嵐の漁師町に目を向ける。結構気に入ってるんだよ。五年前に諦めた絵をまた描いたのは、五十嵐の幸せのためだった。私の気持ち、少しくらいは気付いて欲しいよ。


「……ねぇ五十嵐。私、五十嵐のこと好きだよ」

「そうですか。私は嫌いです。牧野さんの言葉だって信じられません。だってたくさんの人を傷つけたんですよ? 両親だってこの才能で苦しめたんです。誰にも好かれていいはずがないんですよ」


 吐き捨てるように言い放つ。胸が苦しくなる。こんなに素晴らしい才能をもっているのに、性格だって可愛いのに。人を見下したのだって、原因は両親だった。なのにどうして五十嵐がここまで苦しまないといけないんだよ。


 きっと五十嵐は誰も信じられなくなってしまったのだ。両親に見捨てられて、学校でも一人で自分は嫌われるべきだって思ってる。今の距離感では五十嵐はもしかすると、私の気持ちにも永遠に気付いてくれないのかもしれない。


 頭を撫でるだけでも恥ずかしい。好きっていうだけでも緊張する。でもそれ以上でなければ五十嵐は私を信じてくれない。だったら私が全てを変えなければならない。心を折るなんて痛みだけでつながった関係、私は嫌なんだよ。


 この二日間、目を背けていた。私は五年間、ほとんど孤独だったのだ。家族や天宮以外の誰にも受け入れてもらえなかったのだ。


 だから恐れみたいなものがあったのだと思う。好意ではなく、死を先延ばしにする約束でしか繋がれなかった。でも今の私はもっと五十嵐と前向きな関係でいたいと思っている。

 

 そのためになにができるのか、必死で考える。そして一つの案を思いつく。


 想像するだけでも顔が熱い。でも絵を描くことに苦しんで欲しくない。自分を嫌いでいて欲しくはないのだ。勇気を振り絞って、五十嵐の後ろに歩く。


 そしてそのまま、抱きしめるみたいな姿勢で筆を持つ右手に手を重ねた。


「えっ。あのっ、牧野さん?」


 筆を止めて困惑する五十嵐をよそに、そっと耳元でささやく。


「好きになって欲しい」

「えっ……」


 急に五十嵐が振り向くから、至近距離で見つめ合うことになる。大慌てで顔を背ける五十嵐の頬は、夕ご飯で食べたミニトマトよりも真っ赤だった。


「もちろん私のことじゃなく五十嵐のことをね?」

「わ、分かってますよっ」

「本当? 顔赤いよ?」

「変なこと言わないでください。こんな距離感で接されるの初めてだから」


 私もだよ。こんなの。正直滅茶苦茶恥ずかしい。顔すごく熱いし。でも五十嵐が自分を嫌いになってしまうのは、辛い記憶に囚われているからだ。一人ぼっちでなければならないと思っているからだ。


 だったら私はその思い込みを全力で崩す。もう決めたのだ。五十嵐を輝かせるためなら、幸せにするためなら何でもするんだって。どれだけ恥ずかしいことだって、もうためらわない。繁華街を全力疾走できる女なのだ。舐めてもらっては困る。


「五十嵐。ちょっと立ち上がって」

「えっ? ……はい」


 素直に立ち上がって、椅子が空く。そこに横から滑り込むように座り込む。そしてそのまま、五十嵐のお腹に回した手を引いて、膝の上にぽんと座らせた。


「えっ」


 何が起きたのか理解できていないようで、ぱたぱたと足を動かしている。でもがっちりと細いお腹に腕を回しているから、私の上から動けない。


「ちょっとっ! こ、こんな姿勢じゃ描けないですっ! だからっ……」


 声だけでも分かるほどに恥ずかしがっているし、横から顔を覗き込むとこれまでに見たことないくらい頬が真っ赤になっていた。なおさら強く後ろから抱きしめる。ほんのりと甘い果物みたいな匂いがした。


「私、五十嵐のこと好きだよ。本当に好きなんだよ。ずっと一人ぼっちなのに、両親に嫌われても頑張ってた。お父さんに追い出されるまでは、必死で仲良くしようとしてたんでしょ? だったらいい加減報われて欲しいよ。私の気持ちだって信じて欲しいよ」


 私よりもずっと華奢な背中越しに心からの願いを伝える。ぎゅっと抱きしめていると、五十嵐の体はあっという間に熱を帯びてしまった。恥ずかしいよね。私もだよ。


 それでも今は五十嵐を手放してなんてやらない。


「……本当ですか? 私なんかのこと、好きなんですか?」


 思いが届いたのだろうか。力ない声は、それでも確かに苦しみ以外の感情を宿している。


「うん。大好きだよ。大切だって思ってる」


 優しく後ろから髪の毛を撫でてあげた。無力な私に今できるのはこれくらいだ。盤外戦術というか、なんというか。でも結果的にはこれが最適解なのだと思う。


 恥ずかしいのは、まぁ、仕方ない。必要な犠牲だ。心臓がどくどく鳴ってる。でもそれは五十嵐だって同じだ。だからおあいこだ。……でもやっぱり恥ずかしいな。


 黙り込んでいると、照れてしまったみたいな可愛い声が聞こえてくる。


「……牧野さんの気持ちは分かりました。でもこんなのじゃまだ信じられません」


 まだ分かってくれないの? だけどこれ以上の手段なんてないと思う。私たちは良くて友達。まだ出会って二日の関係なのだ。細いお腹を抱きしめたまま悩んでいると、五十嵐はため息をついた。かと思うと、急にいたずらっぽい笑みを浮かべる。


「本当に私に信じてもらいたいのなら、一緒に描いてください。膝の上で描かせるだけじゃなくて、一緒に手を重ねて。……もう一人じゃないんだって温もりで教えて欲しいんです」


 表情からはさっきまでの苦しみはさっぱり消えていた。九割の恥ずかしさに一割の親愛を混ぜ込んだみたいな可愛い微笑み。


 思わず笑ってしまうくらいに胸が温かくなった。静かに頷いてお腹に回していた右腕を解く。そっと五十嵐の右手に手を重ねた。私たちは微笑み合いながら、二人で一枚のキャンバスに絵を描く。


 ここ五年間で一番、穏やかで幸せな時間だった。

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