第10話 神様の与えた呪い
筆を動かすたびに、忘れていた感覚が蘇るようだった。
失った情熱はもう戻らない。それでも絶え間ない努力で身につけたものは失われない。自らの絵になにが足りないのか、天宮の助けを借りながら毎日毎日考え続けていた。技術ではなく感性が足りないと感じたのなら絵画以外の分野にも手を伸ばした。
映画や漫画、小説なんかも浴びるように学んだ。できることはなんでもしたのだ。後天的に伸ばせることなら全てに手を出した。それでも天宮には届かなかった。でもきっと五十嵐なら、天宮だって容易く越えてくれる。
誰かに自分の夢を託しているなんて、きっと昔の私は信じられないのだろう。誰もが競争相手で嫉妬することだって数えきれないほどあった。でもそのたびに嫉妬の理由を冷静に分析して自分の作品に取り込んだ。
軸がぶれないか天宮は不安がっていたけれど、私の絵は常に一貫していたのだ。理想の海を通じて人を幸せにする。生まれ育った漁師町の海が、原風景としていつだって心の奥にあったのだ。
この五年間、表現できなかった感情の全てを筆先にのせる。まるで洪水のように描きたいものが溢れ出してくる。キャンバスの向こうでは海は荒れ、雷鳴が響き、家屋は今にも吹き飛びそうだ。でも真っ黒な雲を裂いて、一筋の光が差し込んでもいる。
一息に描き上げて、筆をおく。
呼吸を忘れていた。いつの間にか荒くなっていた息を整えて五十嵐をみつめる。怒りや苛立ちや悲しみ。そしてまた描けたことの幸せ。この感情は世界には届かない。届かせるつもりもない。ただ一人、五十嵐だけに届けば、それでいいのだ。
五十嵐はぼんやりと私の絵をみつめていた。魅入られたような表情をしている。全盛期に比べて大きく劣る。それでも何かを感じてくれたというのなら、嬉しい。
「……凄いですよね。牧野さんの絵って」
無意識にこぼれたみたいな声だった。少し遅れて、自分の発した言葉に気付いたみたいに五十嵐は口元に手を当てた。かと思うと私をみつめて微笑みを浮かべた。
「壁に掛けられている絵だってそうです。才能は欠片も感じませんけど、でもどうしてか心が動かされる。それはきっと強い情熱が流れているから」
でもすぐにため息をついて眉をひそめてしまう。自らを蔑むような声が、リビングに響いた。
「牧野さんの方が私なんかよりもよほど画家に向いてますよ。……なのにどうして、神様は私なんかに才能を与えたんでしょうね?」
言葉が出なかった。あまりにも悲痛な笑顔だったのだ。天才である自分だけでなく、絵画の神様まで憎んでいるみたいな、この世のありとあらゆる不平等を悲しんでいるみたいな、そんな顔。
「私にはそこまでの熱量をぶつけられるものなんて、ないんです。そもそも絵を描き始めた理由だって両親の気を引くためでした。アトリエで絵を描くときだけは、ありふれた平凡な両親になってくれたんです。私に構ってくれたんです」
私は肩をすくめて問いかけた。
「絵を描いてない時はそうじゃないの?」
「親子らしい会話なんて何もないですよ。だから私はたくさん絵を描いたんです。そして自分の才能に気付いてしまった。……誰も私には勝てないんだって。お父さんだって、勝てないんだって。恐れるみたいな表情を向けられたんですよ」
――私が人を見下すようになったのは、それからです。
遠い目で五十嵐はつぶやいた。親に恐れられた不安のはけ口として、人を見下すようになった。私にみせてくれるツンデレだって、その不安の表れでしかないのだろうか。視線の先にはイーゼルに掛けられた荒れ果てた漁師町の絵がある。
「……私、才能なんて欲しくありませんでした。私が絵を描く理由って、家族と仲良くしたいからなんですよ。誰かに賞賛されたいとかじゃないんです。ただ、仲良く出来ればそれだけでよかったんですよ」
励ましの言葉なんて思い浮かばない。
五十嵐が人を見下したのは、才能に驕ったからじゃない。ただただ純粋に愛されたいだけだった。必死で愛を求めた、どこにでもいる平凡な女の子の心からの叫びだった。
でも両親はその叫びに応えてくれなかった。
完璧な天才として羽ばたかせたかった。けど今の五十嵐には間違ったものなのだ。むしろ五十嵐の願いのためには、枷でしかない。
「……牧野さん。私の心を折ってくれるんですよね?」
まるで痛みを求めるみたいな五十嵐の声が重く響いた。
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