凡人にできること
第9話 熱量の矛先
他愛もない会話をしているといい時間になったから、私たちは家を出た。そういえば五十嵐は鞄を持っていない。お弁当と水筒の入った袋を持っているだけだ。これから必要なものを取りに家に帰るのだろうか?
私としては、娘の死を望む父親の所になんて帰したくなんてない。
マンションの近くの交差点で、五十嵐に問いかける。
「教科書とか大丈夫?」
「全部学校に置いてるので大丈夫です。課題は全て学校で終わらせてしまうんですよ。家で勉強した記憶はないです」
五十嵐は自慢げに胸を張った。
「え。普通にすごくない?」
素直に驚いていると、五十嵐はニヤリと笑った。
「私天才なので。テストでも一位以外を取ったことがないんです。きっと牧野さんみたいな凡人には想像もできない世界なんでしょうね。流石私です」
驚きを通り越して、もうすっかり呆れてしまう。天は二物を与えずなんていうのは、きっとこの子には適応されないんだろう。五十嵐は神に愛され過ぎている。
「私も五十嵐みたいならなぁ。学生時代もっと絵を描けたはずなのに。羨ましい。赤点の補習とか無駄な時間でしかないよ」
「『狂人』なんて呼ばれたのも納得ですよ? その考え方。普通の人は絵なんかよりも成績の方が大事なんですから。流石の私でも呆れますよ」
反論はない。昔の私は画家になる未来以外、想像していなかったのだ。だけど現実は非情で。けれどまた少しずつではあるけれど絵の道に戻りつつある。
きっと画家にはなれないだろうけれど、それでもまた絵を志せるようになったのは五十嵐のおかげだ。怖いけど、嬉しいのだ。そういう意味でも五十嵐のことを助けたいと思う。
いつもの橋を渡ってからしばらく歩いて綺麗に整備されたアーケード街を抜ける。多くの車が行き交う広い交差点の向こうに高校の校舎がみえてきた。校門の前にたどり着くと、名残惜しさを覚えながらも五十嵐に手を振る。
「頑張ってね。五十嵐」
「牧野さんこそ頑張ってくださいね。私という天才のライバルなんですから」
笑顔のまま小さく手を振ってから、五十嵐は校門を抜けた。私も職場に向かった。
夕方、マンションに帰ると五十嵐が部屋の扉に寄りかかっていた。目が合うと、斜陽に照らされながらニコニコ笑う。
「遅いですよ。牧野さん。私という美少女をこんなに長い時間待たせるなんて」
「ごめんね」
「別にいいです。謝らなくても。そんなことより、お仕事お疲れさまでした」
意外な言葉に目を見開く。家に帰っても誰もいないから、ねぎらってくれる人なんていなかった。たったそれだけのことで目頭が熱くなってしまうのだ。
「……ありがとう。五十嵐こそ学校、お疲れさま」
「お弁当が美味しかったのでいつもより頑張れました。一人は寂しいですけど牧野さんのことを思ったら、そんなに気にならなかったんです」
優しい声を聞きながら扉を開く。玄関でパンプスを脱いでリビングにやって来ても、昨日とは違って五十嵐に緊張するそぶりはなかった。それどころか目が合うとどこか嬉しそうに微笑んでソファに腰かけてくれるのだ。
いつもなら寂しくなるだけな日没間際のリビングなのに今日は全然違った。
温かな気分に浸っていると、不意に五十嵐のお腹が地獄の悪魔みたいに唸った。隣に座ってみつめていると、唇を尖らせて頬を赤くした。
「牧野さんのお弁当が少ないのが悪いんです」
「えっ。食べ盛りだろうって考えて結構大きめのお弁当箱使ったんだけど」
やってしまったとでも言わんばかりに五十嵐は目を見開いた。ジト目でみつめてやると、頬がリンゴみたいに赤くなっていく。
「美少女で天才でしかも大食いって。属性盛り過ぎでしょ」
「そういう風に生まれたんだから仕方ないじゃないですかっ!」
天使みたいな顔がぐいっと鼻先にまでやってきた。
慌てて体を引く。ちょっと顔が熱い。天宮相手ならこういう距離も当たり前だったけど、普通はそうじゃない。ましてや相手が五十嵐ならドキリとしてしまう。
「……つまりは昨日の唐揚げじゃ量が足りてなかったってことだよね? 今日の晩御飯はもっと多めにするから心配しないで」
照れ隠しでにこやかに笑うと凄まじい剣幕で睨みつけられた。美人だから迫力がすごい。でもすぐにため息をついたかと思うと、敗北をみとめるみたいにうなだれて頷いた。
「……まぁ、そういうことです。牧野さんの言葉は正しいですよ。昨日の唐揚げはちょっと少なかったです。あの三倍は欲しかったですね」
流石若者だ。私くらいの年齢になると、胃袋の容量よりも胃もたれが心配になる。
「やっぱり五十嵐って若いよね」
「なに当たり前のこと言ってるんですか。高校生なんですから」
「そりゃそうか。そろそろご飯作ってくるね」
「今日の晩御飯はなんですか?」
私がソファから立ち上がると目をキラキラさせてみつめてくる。昨日は揚げ物だったから、今日はあっさりしたものの方がいいかな。五十嵐の健康的にも、私の胃袋的にも。確か冷蔵庫に豚バラ肉が残ってたと思うし、あれなんかどうだろう。
「季節外れだけど冷しゃぶとかどう?」
「いいです。というかむしろ好物です」
ニコニコ笑っている。やっぱりいいなぁと思う。こうして笑ってくれる誰かがそばにいてくれるのって。
「作って来るからちょっと待っててね」
「待ってます。私という天才美少女が食べるんですから、丁寧に作ってくださいね。急がなくてもいいです。……怪我とかされても困るので」
顔を赤らめてもじもじしている。これがありのままだというのなら、あまりにも魔性だ。思わずにやけてしまいそうになりながら、カーテンを閉める。明かりをつけてからキッチンに向かう。
料理をしながらちらりと五十嵐の横顔をみつめる。立ち上がってじっと私たちの絵を見比べていた。最初ここに来た時よりは明るくなったけれど、それでもやっぱり暗さは残っている。
忘れてはいけないのだ。私たちの関係は「五十嵐の心を折る」という約束に基づいているということを。もしも私が絵を描くのを諦めれば、五十嵐は私の元を去ってしまう。
出来上がった冷しゃぶをテーブルに並べると、五十嵐は美味しそうにポン酢で食べていた。ミニトマトやレタスも豪快に頬張っている。その小さな可愛い口からは想像もできない暴れっぷりだ。面白いから食べるのも忘れてまじまじとみつめてしまう。
「私がたくさん食べるの、そんなに変ですか?」
不服そうな目で見つめてくるから、首を横に振る。
「ううん。面白いなって。見てて飽きないね。人が自分の料理美味しそうに食べてくれてる姿って。それが五十嵐みたいな美少女ならなおさら」
「……美少女だから助けてくれるんですか?」
「えっ?」
唐突に悲しそうな声が聞こえてきたら、びっくりしてしまう。
「なんでもないです。聞かなかったことにしてください。分かってますから。牧野さんが私の容姿にいい感情を持ってくれてるってこと。……正直、私はあまり好きではないんですけどね。この見た目」
五十嵐は申し訳なさそうに眉をひそめて笑った。
「妬まれることも結構あるんです。孤立しているのならなおさらですよ」
勉強に絵に容姿。きっとあらゆる才能が、五十嵐にとっては呪いなのだ。私も五十嵐のことを知らなければ、みんなみたいに五十嵐を妬んだり憎んだりしたんだと思う。
真人間になろうと頑張ってるのにたくさんの悪意をぶつけられる。一度間違えた人間は、立ち上がることすらも許されない。この世界は残酷な場所だ。だからこそ、せめて五十嵐には自分自身がもつ輝きを信じて欲しいのだ。
絵に挫折して、腐っていた。人生は余生だった。でもそんな私に熱を与えて、また動かしてくれたのは、紛れもない。五十嵐の才能なんだよ。絵の才能も、美しい見た目も、可愛い性格も、その全てが私の熱量になっている。
今はまだ八十億人のうちのたった一人かもしれない。私しか五十嵐のことは分かってあげられていないのかもしれない。でもそんなのは今の内だけだ。きっとすぐにみんな五十嵐の輝きに気付く。気付かせてみせる。
食事を終えると、私はすぐに画材を用意した。イーゼルにキャンバスを掛けて、筆を握る。そんな私の姿を、五十嵐は嬉しそうにみつめていた。真っ白なキャンバスをみつめる。
私が逃げた場所。ずっと戻りたいと思っていた場所。
燃え上がる熱量が向けられるのは、絵そのものではなく五十嵐だ。でも結局、かつての私が絵を描いていた理由は、人を幸せにするため。
天宮という水の天才の前に、夢は諦めてしまった。でも熱量の方角は違っても、誰かを幸せにしたいって気持ちは決して変わらない。五十嵐には幸せになって欲しい。
「五十嵐。見ててね。今から描くから」
「……はい。頑張ってくださいね」
椅子に座ってキャンバスに向き合う私を、傍らから笑顔でみつめる。
筆を握った右手が小さく震える。絵を描くのはやっぱり恐ろしいのだ。かつての私は自らの表現する美に見切りをつけてしまった。牧野瑞希という芸術家を否定してしまったのだ。
でも五年後の今、私はまた立ち上がることを選んだのだ。世界中の皆ではなく、目の前のたった一人の女の子を救うために。深呼吸してから、キャンバスに筆を触れさせる。
下絵はいらない。描くものは決まっている。小さなころから飽きるほど描いていたあの海。壁にかけられた故郷の漁師町の絵をみつめる。五年というブランクは大きい。どれほど劣化しているのか考えるだけでも怖い。
でも現実から目を背けてはいけない。自分がどの位置にいるのか把握しなければならない。五十嵐を挫折させる力があるなんて、信じてはいない。でも本気で向き合わなければならないと思うのだ。
五十嵐には私の夢を叶えてもらう。影一つなく、完璧な天才として羽ばたいてもらう。その為ならどんな努力だって惜しまない。
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