第8話 第一歩
カーテンの隙間から朝日がさしていた。五十嵐はまだソファの上で眠っている。
ベッドをきしませながら大きく体を伸ばした。昨日激しい運動をしたおかげで熟睡できたのだろうか。いつもなら残っているはずの疲労がすっかり消えていた。
「五十嵐。起きて」
「……んぅ」
ベットから降りて声をかけるもむにゃむにゃと口を動かすだけだ。相変わらず綺麗な顔をしている。五十嵐ほどの美人になると「みつめている」のではなく「鑑賞している」という表現の方が正しい気がしてくる。
感心するくらい長いまつげを間近でみつめていると、不意にゆっくりと目が開いた。蕩けたような瞳と視線がばっちり交差する。
「……おはよぅござぃます。まきのさ……」
寝ぼけているせいだろうか。しっかりした表情ではなくて、ふにゃふにゃと微笑むものだから、なんだかみてはいけないものをみてしまったような気分になった。顔がちょっと熱い。
でもこれも五十嵐を知るということなのだ。恥ずかしがるだけではなくて、真正面から向き合ってあげないといけない。
「おはよう。寝ぼけてないで起きて」
「……きのうみたいに、あたまなでてください」
またしてもふにゃふにゃした声で奇妙なことを口にする。戸惑っていると、また瞼を閉じた。そのままむにゃむにゃとぼやけた喋り方をする。
「……あたま、なでて」
どうやら朝は弱いらしい。完璧な外見をしているだけあって、その可愛らしさが嫌というほどに際立つ。一言で言うのなら、あざとい。
ますます顔が熱くなってしまう。それでもため息をついてから、そっと五十嵐の頭に触れる。スキンシップなんて不慣れだけど頑張らないと。これが五十嵐の願いなのだから。
触れただけで髪質の彼我の差を知る。絹糸でも触ってるのかと錯覚するくらいだ。優しく撫でてあげると、また五十嵐は目を開いた。
ようやくきちんと目覚めたのか、じっと私をみつめている。表情には完璧な美しさが戻っていて、その頬はほんのりと赤い。
「あの、なにしてるんですか?」
非難を含んだ声と目線だった。
「なにって、頭撫でて欲しいって言うから」
「えっ。そんなこと言ってませんけど」
「……覚えてないの? お願いしたでしょ。あたまなでてくださいって」
ようやく思いだしたのか、五十嵐の頬は真っ赤になってしまった。飛び跳ねるようにソファから起き上がる。
「えっと、実は私は二重人格なんです。さっきのは甘えん坊な人格で……」
「そんなわけないでしょ」
「……と、とにかくっ、忘れてくださいっ」
そんな上目遣いでみつめられても……。あれほどのギャップ萌えはみたことがない。忘れたくても忘れられない。
私だって恥ずかしかったけど、可愛いなって感情のほうがより心に強く残っている。
「可愛かったのになぁ……」
「殴りますよっ!」
胸元に拳を持ってきてファイティングポーズをしたかと思うと、逃げるように洗面所に向かってしまった。
可愛いなんて面と向かって伝えるのは、やっぱり恥ずかしい。でも仲良くなりたいのなら、ありのままを伝えなければならないと思う。
五十嵐も少しくらいは楽になってくれてるといいんだけど。私は五十嵐のお弁当と朝食を作るために、キッチンに向かった。
五十嵐のお弁当、どんな風にしようかな。まだ時間はあるから、少し豪華にしてあげようか。なんて考えて包丁を手にする。
自分のためだけに料理するのは、楽しくもなんともない。でも昨日の唐揚げを食べたときの五十嵐の笑顔を思い出せば、自然と楽しくなってくる。
私の朝食とお弁当が少しでも五十嵐を幸せにしてくれたのなら、この5年間も少しは報われるというものだ。
テーブルに朝食を運んでくると、五十嵐は昨日よりも明るい笑顔でご飯を食べてくれていた。気付けば口元が緩んでしまうから、頑張ってこらえる。食事を終えたあと、食器を洗ってから身支度をしていると、時間は八時になっていた。
ソファに腰かけて、スマホの内カメをみつめる。そのまま枝毛の目立つミディアムヘアを整えた。隣で情報番組をみている制服姿の五十嵐に問いかける。
「時間大丈夫?」
「近いので大丈夫ですよ」
「この近くの高校っていうとたしか美術系の高校だったよね」
「牧野さんも美術系の高校でした?」
首を横に振る。私の故郷はド田舎だ。海が綺麗で漁が盛んだけれどそれ以外に特筆するものはない。普通科の高校しかなかった。
「近くになかったから普通科の高校だったよ。大学は芸大だけど」
「どこだったんですか?」
「東京藝大だよ。天才奇人だらけのあの場所」
どこをみても、圧倒されてしまう空間だった。もしも藝大でなければ、天宮と同じ大学に進んでいなければ、私は今も絵を描いていたのかもしれない。あそこは、私みたいな凡人が足を踏み入れてもいい場所ではなかったのだ。
「そうなんですね」
「驚かないんだ?」
「牧野さんの努力なら入学できて当然ですよ。私という天才に喧嘩を売ったんですよ? それくらい余裕だって涼しい顔をしてもらわないと困ります」
真っすぐな瞳でそんなことを言ってくれるのだ。藝大に入ったことを後悔する気持ちは今もある。それでも嬉しくないわけがない。
「……ありがとう」
就職先は学んだことに全く関係しない会社だけどね。天宮の「はじまりの群青」に挫折してからは、もうすっかり芸術から足を洗うつもりだった。
温かい気持ちに浸っていると、五十嵐がスマホの画面をみせてきた。
「これ、出してみませんか? リハビリとしてはいいと思います」
スマホの画面には市民絵画コンクールと書かれていて、私の住んでいるこの町の景色。それをモチーフにした絵画が背景でスクロールしていた。プロほどではないけれど、アマチュアならかなりの上澄みに相当すると思う。
「ひさしぶりに描くんです。大舞台を目指して、ちょっとずつ勘を取り戻していきましょう。これはその第一歩です」
五十嵐は笑顔を浮かべている。でも私は声を出せなかった。
嫌な汗が頬を伝う。あの日、天宮の「はじまりの群青」に挫折させられた記憶が蘇ってしまうのだ。また絵を描くというのは、また失うかもしれないということ。昨日、強く決意をしたはずなのに、ひるんでしまいそうになる。
だけど私は勇気を振り絞って、頷いた。
「……そうだね。頑張ってみるよ」
表情が強張っているのに気付いたのか、五十嵐は慈しむみたいな微笑みで頭を撫でてくれた。
「失ったものに向き合うのは怖いと思います。でも描きたいって気持ちは本物なんですよね? 牧野さんがいったんじゃないですか。失ったままにしていれば、自分みたいになるって。私は、牧野さんに取り戻してほしいです」
懇願するみたいに目を閉じて、ぎゅっと私の手を握ってきた。
「……そして、誰も折れなかった私の心を木っ端みじんに折って欲しいんです」
女子高生とOLなんて距離の離れた私たちが結びつく根本の理由は、それなのだ。五十嵐が今生きてくれているのも、きっと昨日の私の言葉のおかげ。
『私が五十嵐の心を折るよ』
それが好ましいことだとは思わない。けど傷付けられることだけを望みに生きているというのなら、その希望を消してはいけない。
拳を握り締める。五十嵐を死なせるわけにはいかない。もう止まるという選択肢はない。五十嵐のためなら、私ができることは何でもすると決めたのだから。
どれだけ恐ろしくても、また筆をとると決めたのだ。
「とりあえず、今日帰って来たらすぐに描いてみようと思う」
「応援してますね。頑張ってください」
まぶしい笑顔を浮かべる五十嵐に、私は小さく頷いた。
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