第7話 甘える
そっと頭を撫でていると、お風呂から音声が聞こえてきた。ずっとこうしているわけにはいかない。お互い明日は学校と仕事があるのだ。
「お風呂できたみたいだよ。先に入る?」
「そうですね。入らせてもらいます」
ソファから立ち上がって浴室に向かっていく。リビングから出ていく寸前で振り返った五十嵐は、ほのかに赤らんだ頬でどや顔で言い放った。
「一番風呂って実は健康に悪いんですよ。浸透圧でお湯が皮膚に移動したり、空気の温度と湯船の温度の差が大きかったりするので。年上の牧野さんよりは、健康で若い私が先に入ったほうがいいでしょう?」
知らなかった。初耳の雑学に感心していると、五十嵐がどこかいたずらっぽい笑みを浮かべていることに気付く。
「……ツンデレだと、愛嬌だととらえてくれた牧野さんのためなんですからね? 私という天才美少女の特別にしてもらえたのを、たくさん感謝してください。じゃないと許しませんから」
返事をする暇もなく、勝ち誇るような微笑みで言い残してリビングから消えた。これまでとは全然違う言葉と表情だ。少しは心を開いてくれたってことだから嬉しいけど、ちょっと顔が熱い。
改めて五十嵐は美人なんだなと思う。そこに愛嬌が合わさったらもう無敵だ。私は温かな気持ちでソファに座った。
「牧野さん。申し訳ないんですけど、バスタオル持ってきてもらえますか?」
しばらくするとお風呂から声が聞こえてくる。
「ごめんね。ちょっと待ってて」
急いでタオルを持ってきて脱衣所に入る。ついでに私が普段着ているパジャマも置いた。サイズは合うか分からないけれども。五十嵐は私よりもずっと細い。
「五十嵐に合うか分からないけど、パジャマも用意したから」
「まぁ、私はスタイルも抜群ですからね」
どこか自慢げだ。実際五十嵐はスタイルがいい。手足も長いし顔も小さい。ケチをつけられる点は一つだけあるけど、そこも私には欠点には思えない。
脱衣所の棚の上にサイズの小さな青色のブラがあった。自分のものではない下着を自宅でみるのは新鮮で、無意識にじっとみつめてしまう。
「……あの、もしかして今、酷いこと考えてませんか?」
突然図星をつかれるから慌てて視線をそらした。ワンテンポ遅れて言葉を返す。
「そんなことない。考えてないよ」
「……別にいいですよ。正直に言ってくれて。自覚はしていますから。でも私くらい完璧な美少女なら、ちょっとした欠点すらもむしろ魅力にみえてくるものです」
胸を張っているのだろう。すりガラス越しでも分かる。
「まぁそれはその通りだね。初対面の時からもう既に見惚れちゃってたし」
「……そ、そうですか。ふふ。流石私です」
言葉とは裏腹に声はどこか恥ずかしそうだった。もしかすると褒められることに慣れてないのかもしれない。
あまりにも完璧な美しさというのは、むしろ褒めるのをためらう。世界的な名画を目にしてもわざわざ「美しいですね」なんて言葉には出さない。ただただ魅入られるだけだ。
「五十嵐、嫌われてたって本当なの? 正直、全然嫌いになれそうにないんだけど」
愛嬌しか感じられないのだ。むしろ好かれそうに思う。天才なうえに美しくて、性格だって可愛らしい。見下す、なんて聞くともっと殺伐としたものを想像するけれど、今の五十嵐にはそんなのは一切ない。
でも浴室から聞こえてくるのは寂しそうな声だった。
「相手が牧野さんだからですよ。敵意を向けてこないから、その、私も優しくできるというか。受け入れてもらえてるって分かるから、甘えられるんです」
「甘えてくれてるんだ?」
笑いながら問いかけると、浴室は静まり返ってしまった。かと思うと突然、ぱしゃぱしゃとすりガラスにお湯をかけてきた。恥ずかしさを隠すこともしない声色で、早口が飛んでくる。
「言葉のあやです! 甘えてないです! 優しさを分け与えてあげているだけです! 牧野さんはもっと私に感謝するべきですよ」
確かに。私は五十嵐にかなり助けられている。空虚な日常が終わりを迎えたのは、五十嵐が現れてくれたおかげだ。こんなに心の休まる時間は、ここ五年間一度もなかった。
「そうだね。ありがとう。五十嵐」
「……ちょっと! なに素直に感謝してるんですかっ! そこはもっと、こう……」
「だって嬉しいんだから仕方ないでしょ? 一人ぼっちは寂しいんだよ」
お湯が飛んでくるのが止まった。五十嵐だって分かってるはずだ。私と同じで一人ぼっちだったのだから。「そうですね」と照れくさそうなつぶやきだけが響く。
「……私、牧野さんに助けてもらえてよかったです」
「私もだよ。もしかすると運命だったのかもね」
微笑むとまたばしゃばしゃとお湯が飛んできた。
「は、恥ずかしいとか思わないんですか? ……流石は狂人ですね。あなたと話していると、調子を狂わされてばかりです。というかそろそろ出ていってくださいよ。体が熱くてのぼせてしまいそうです」
「そんなに恥ずかしかったんだ。やっぱり可愛いよね。五十嵐って」
それだけ言い残して脱衣所を出ていくと、またばしゃばしゃと音が聞こえてきた。
人と話すのは得意じゃない。でも今の五十嵐とならいくらでも言葉を交せそうなのだ。リビングに戻ってしばらくすると、すっかり温まった五十嵐がやって来る。私のパジャマを着ているけど、やっぱりサイズは合っていない。
むすっとした顔だけど、それでも完全な他人に向ける顔ではない。少しは心を許してくれたのだと伝わってくる。入れ替わりでお風呂に入ってから髪の毛を乾かしていると、すぐに眠る時間になった。
ベッドに潜り込んでから、ソファで横になる五十嵐をみつめる。
「ベッド使う? やっぱりソファじゃ寝づらくない?」
「大丈夫です。優しさには感謝しますけど流石に申し訳ないですよ。天才だからって人のベッドを占有できるほど唯我独尊じゃないです」
むしろ五十嵐は謙虚だ。
「もしも私が五十嵐みたいな才能持ってたら、どこまでも増長してたと思う」
大して努力しなくても、全てを越えてしまうのだ。本気ですらない自分に誰も勝てないのなら、それでも謙虚でいるのは難しい。
「自分で気付けた五十嵐は偉いよね」
「ありがとうございます。私のこと褒めてくれるのは牧野さんくらいですよ。優しいし才能にも屈しない。本当に凄い人です」
べた褒めだからちょっと恥ずかしいし申し訳ない。五十嵐に褒めてもらえるほど私は凄い人じゃない。天井を見上げて目を細めていると、か細い声が聞こえてきた。
「……その、たまにはただデレるだけでもいいですよね?」
「もちろん、五十嵐がやりたいようにすればいいんだよ。言いたいことを言ってくれればいい。おやすみ。五十嵐」
視線を向けてささやくと、五十嵐は穏やかに微笑んでから目を閉じた。
「……おやすみなさい」
しばらくして月明かりもささない暗いリビングに、すすり泣く声が響いた。孤独に怯えているのなら、強引にでも優しく抱きしめてやるべきなのだろう。天宮ならそうしたはずなのだ。
でも私には自信がなかった。自分なんかに五十嵐を救えるのか。自殺は止めたけれど、これからのことなんて何も分からないのだ。
五十嵐のことだってまだ何も知らない。中学のときあった「最悪なこと」が何なのかも分からない。過去のことをわざわざ掘り返して聞き出したくもない。五十嵐には傷ついて欲しくないのだ。
絵で張り合うというのも、ただの張りぼて。時間稼ぎでしかない。また絵を描けるのは怖いけど嬉しい。でも私なんかの絵が五十嵐を救えるのかと問われれば、肯定はできない。
ややもすればお母さんにまで憎まれているのかもしれないのだ。五十嵐のお母さんはお父さんほど有名じゃないけど、確か画家だったと思う。不安ばかりが湧き上がってくる。
五十嵐を傷つけるわかりやすい敵がいたなら楽だった。でも親は排除すべき敵ではない。そんなことしたって五十嵐は幸せにはならない。一番いいのは仲直りしてもらうことだけど、それに関して私にできることは何もない。
五十嵐を救うためにできることは、時間をかけて少しずつ心を開いてもらうこと。私は味方なんだよって信じてもらうこと。心のよりどころを作ってあげること。ただそれだけなのだろう。それなら明日から何をするべきか決まったも同然だ。
恥ずかしさなんて恐れずに、真っすぐに五十嵐に向き合う。凄いと思ったことは例えそれがどれほど恥ずかしいことだったとしても、なんでも素直に褒めてあげる。して欲しいと願ったのなら可能な限り願いをかなえてあげる。
私はずっと臆病に逃げ続けてきた。
でも明日からは狂人として頑張らなければならない。五年前に夢は消えてしまった。けれど今日、また新しい目標が生まれたのだ。五十嵐にはいつかまた天才として空高く羽ばたいてもらう。
他力本願だなんて自分でもわかってる。でも夢を諦めきれないせいで、五年間ずっと苦しみ続けてきたのだ。絵はまた描こうと思う。でも夢を叶えることはできない。私の才能では天宮には届かない。もがくだけ無駄だって分かってる。
挫折の記憶は色濃い。諦めている自分は嫌いだけど、これだけはどうしようもない事実なのだ。自分では無理だって分かっているのなら、五十嵐に叶えてもらえばいい。そうして夢と決別すればいい。
目を閉じて、輝かしい未来を思う。
まだ遠い未来だけど、今度こそは叶えさせてみせる。
それこそがきっと夢を追いかけ続けた自分への唯一の贖罪なのだ。
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