天才の孤独

第6話 木漏れ日

 リビングはつけっぱなしのエアコンのおかげで温かかった。スマホで時間を確認すると、もう二十二時を過ぎている。五十嵐が描いた漁師町の絵画もすっかり乾いていた。


「五十嵐、これ」


 絵画を手にして差し出すけど、五十嵐は首を横に振った。


「これは牧野さんが持っててください。せめてものお礼ということで」

「じゃあ私の絵の横に飾っておくよ。いつか乗り越えるべき目標として」


 凡人なら人生の全てを賭けても一つ生みだせるかどうか。それほどの傑作を額縁に入れて、壁に突き刺したフックに引っかける。


 やっぱり差は歴然だ。例え届かないと分かっていても、それでも諦めるわけにはいかない。五十嵐を死なせるわけにはいかない。


「ありがとうございます」


 五十嵐は木漏れ日みたいに微笑んだ。


 湯船を洗ってから、お湯が沸くまでソファに腰かけてテレビを見る。五十嵐もちょこんと私の隣に座っていた。


 湯船にでも浸かっているのではないかと思うほどに、穏やかな顔をしている。


「五十嵐って明日は学校ある?」

「……憂鬱ですけどね」


 急にどんよりした表情になる。私も学校嫌いだったな。じっくり絵を描きたいのに、興味もない勉強ばかりさせられるから。


「金曜日だから頑張って。私が美味しいお弁当作ってあげるから」

「えっ。いいんですか? 嬉しいんですけど、でも明日も仕事ですよね?」

「大丈夫。家を訪ねてくるような人もいないし、いくら料理が上手くなっても虚しいだけ。誰かのために作る料理ならむしろ嬉しいよ」


 私が微笑むと五十嵐は申し訳なさそうに肩をすくめていた。


「ありがとうございます」

「気を遣ってるとかじゃないよ?」

「公園で、酷いこと言っちゃったじゃないですか。牧野さんのこと見下すような発言。……実は私、あまり褒められた性格ではなかったんですよ。昔はああいう性格だったんです」


 あれが五十嵐のありのままなら、確かにあまり性格がいいとは言えない。私は五十嵐のことを知っているけれど、何も知らない人ならいい感情は抱けないだろう。


 励ましたくても綺麗ごとになってしまう。どれほどの不幸に直面しようとも人を見下すのは悪いことで、正当化されることはない。なにより、五十嵐自身も擁護なんて求めていないのだと思う。


 黙って話に耳を傾ける。


「今の私になったのは中学のとき最悪なことが起きたからです。何度も何度もたくさん後悔して、真人間としてやり直そうって思ったんです。絵に対して死に物狂いの努力を始めたのも、その時でした」


 昔は才能だけで成功していたのか。今の五十嵐の絵からは想像もできない。かつては泥臭さの欠片もなかったはずなのに、あれほどまでに泥にまみれるなんて。後悔の強さが伝わってくる。


「……でも高校でも中学からの知り合いが昔のことを話したみたいで」


 あまり想像したくはない。人は他人の長所よりも短所に目を向ける。五十嵐ほどの天才ならばなおさら短所が目立ってしまう。


「私って本当に馬鹿ですよね。あんな最悪な人間だったのに、やり直せるだなんて思ってたんですから。あなたに出会えなければどうなってたか分からないです。……橋の上で助けてくれて、本当にありがとうございました」


 ためらいがちな微笑みだった。助けられるにも勇気はいるのだ。


 私も覚悟を決めてそっと五十嵐の頭に手を伸ばす。繁華街を全力疾走したあととは違う。高揚感なんてないから落ち着いた心のままだ。それでも恥ずかしさを振りきって、優しく頭を撫でてあげる。


「……牧野さん?」


 怪訝な顔をしている。私だって恥ずかしい。人の頭を撫でるなんて、そんなのコミュ力最大の人がすることだ。落ち着けば落ち着くほどに顔が熱くなる。


 でも私の気持ちもきちんと伝えてあげなければならない。


「私にとってあれはツンデレにしか聞こえなかったんだよ」

「え」

「五十嵐はみんなと距離を置いてた。真人間として頑張ってた。なのにそんな子が私だけには人間らしい所をみせてくれたんだよ。ツンデレ以外の何だっていうの?」


 目を見開いて私をみつめる。顔は赤らんでいるし、恥ずかしそうに視線をそらしている。私だって恥ずかしいけど、それでも頭を撫でる手は止めない。 


「……私は好きだって感じたんだ。だからもしも無理して真人間を演じているのなら、私の前でだけはありのままの五十嵐でいてもいい。私には甘えてもいいんだよ」

「本当にいいんですか?」


 上目遣いでみつめてくるから、私は頷いた。


「いいんだよ。私の前では嫌なことは何も考えないで欲しい」


 微笑むと五十嵐はそっと目を閉じた。頭を撫でるたびに気持ちよさそうにほおを緩めている。拒絶するような態度は薄れていて、少しは私を受け入れてくれたのだと感じる。


「私みたいな美少女の頭を撫でられて、牧野さんもさぞ幸せなんでしょうね」


 これまでとは違ういたずらっぽい笑顔だ。これがありのままの五十嵐だというのなら、やっぱり私はどう頑張っても五十嵐を嫌いになれそうにはない。


「そうだね」


 私が頷くと五十嵐はまた目を閉じた。お風呂が沸くまでずっと頭を撫でてあげた。


 

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