第5話 後ろ向きな希望
二人で繁華街の近くの公園に向かう。歩いているとまた吐き気がぶり返してくるから、街灯の下のベンチに座って五十嵐に背中を撫でてもらう。
「ありがとう。……もう大丈夫」
五十嵐は隣でほっと息を吐いていた。でもやっぱり悲痛な思いは隠せていない。父親に憎しみをぶつけられて家を追い出されてしまった。自らの才能に呪われているのだ。平気なはずがない。
だからこそ呪いだけじゃないんだって証明してあげないといけない。真っすぐに五十嵐をみつめる。
「五十嵐。私、また絵を描こうと思う」
「……え?」
人気のない静かな公園に当惑の声が響いた。五十嵐ほどの圧倒的な絵の天才を前にして、何を思ったらその思考に行きつくんだって話だ。私だって今も不安感がある。また五年前みたいに折れてしまわないのか。
「……どういう考えで。意味が分からないです」
眉をひそめて理解できないとでも言わんばかりに、目を細めている。私は夜空を見上げて白い息をはいた。相変わらず月は雲に隠れていてみえない。星の一つもない真っ暗な空。
「単純だよ。五十嵐の描く美を目にして、画家としての血が騒がないわけがない」
「……そんなの」
目を見開いたかと思うと、すぐにまた視線をそらしてしまった。まるで信じられないとでも言いたげだ。
「心を折られる人ばかりじゃない。私みたいな人だっているんだよ。挫折してずっとくすぶってて。きっかけを探してたんだ。また絵を描くための刺激的な出会い。私にとってその相手は五十嵐。君だった」
「私の絵は綺麗です。でも人を不幸にするだけでした。誰も幸せにしない絵です。呪いですよ。……でも、あなたにとっては祝福だったとでも言いたいんですか?」
出会いからして祝福だった。見慣れた余生の象徴ですら芸術に塗り替えてしまう。それが五十嵐という存在で、今思えば描く絵をみた瞬間だって心の奥で嫉妬とは違うものが脈動するのを感じていたのだ。
かつて画家を目指していた私の原動力。消えてしまった情熱に、ほんのわずかだけれどまた火を灯してくれたのだ。こういうことを言うのは不謹慎だけど、五十嵐の世界との関わり方だって芸術だと思う。
素晴らしい才能があって努力を重ねたのに、倒錯的な結末にたどり着く。
だけど私が望むのはもっと温かな美なのだ。純文学なんて嫌いだった。私が好きなのはご都合主義でもいい、キラキラしたハッピーエンドだった。絵でもそうだ。人を幸せにできる温かな絵が、私は大好きだった。
絵を始めた原動力だって、自分の体の内側に溢れ出す明るい感情なのだ。
五十嵐の絵は魂を削るような絵だ。それを否定するわけではない。でも諸刃の剣だ。自らを追い詰めて画家としての寿命を縮めてしまうというのなら、もっと温かなものを原動力に絵を描いて欲しい。
五十嵐という存在が誰かを幸せにできるという可能性だって、信じて欲しいのだ。
「……紛れもない祝福だよ」
微笑むと、五十嵐は拳を握り締めてうつむいてしまった。不幸の総量に比べて与えた幸せは小さすぎる。焼け石に水で、もしかすると私の言葉だって嘘だと思っているのかもしれない。
この方法では、だめなのだろうか。
今の五十嵐には届かないのだろうか。
冷たい風を頬に浴びながら、じっと考え込む。考えて考えて全身が熱くなるくらいに、五十嵐のことを思う。そして一つの結論にたどり着く。
五十嵐が欲しているのは償いで、罰されること。苦しんでいる人にわざとらしい光を与えたって、むしろ傷付けてしまうだけなのかもしれない。だとするのなら、今私にできることは。最善の手段は。
心臓がうるさい。思いついた荒唐無稽な言葉を伝えるために、五十嵐の肩を軽くたたいた。暗い表情のまま顔をあげて、私をみつめる。馬鹿なことを伝えようとしているって分かってる。
それでも今の私の最善手は、きっとこれなのだ。
冷え切った空気を震わせて、五十嵐に言葉を届ける。
「……五十嵐が死のうとしたのは、もう二度と絵をかかないため。誰かを傷付けないため。憎まれないため。それで合ってる?」
五十嵐は肩をすくめて頷いた。
「なら他にも方法はあるでしょ。何気ないきっかけで絵をかいてしまうことを恐れているのなら、もう二度と絵に向き合えなくなるほど挫折してしまえばいい」
ちょうど私が天宮に心を折られてしまったみたいに。
「でもそんな天才、この世にはいません。お父さんだって私に心を折られたんですよ?」
張り合ってくれる人がいない。だからこそ五十嵐は嫉妬や憎しみばかりを浴びて、死を考えるほどに追い詰められてしまったのだ。それなら私が、せめて形だけでも張り合ってあげればいい。罰を与えようとしてあげればいい。
「私が五十嵐の心を折るよ」
葉擦れの音の響く公園に、正気を疑う言葉が溶けて消えた。
自分でも馬鹿みたいなこと口にしてるってのは分かってる。凡人の中の凡人が規格外に天才な努力家を挫折させる? 天宮に心を折られた私が?
そんなの不可能だ。冗談にしたってあまりにも質が低い。笑われても仕方ない。自分でも失笑しそうになる。画家になることだってもう諦めている私だ。でも五十嵐に希望を与えるにはそれくらいのはったりが必要だと思う。
たくさんの人の心を折ってしまったのなら、求めている罰もまた心を折られること。五十嵐は馬鹿にすることもなく、ただただ真っすぐに私をみつめてくれた。
「どうしてそこまで……。一度は挫折してやめてしまったんですよね? 怖くないんですか?」
「怖いに決まってる。でも五十嵐の描く絵をもっとたくさん見てみたいんだ。少なくとも自殺なんて最悪の終わり方で、その可能性の全てを潰して欲しくはない。心を折られるだけなら、また立ち上がれる日だって来るかもしれないでしょ?」
今は死ぬつもりはないのかもしれない。けど希望がなければやっぱり人はいつか死んでしまう。後ろ向きな希望でもいい。助けた責任を取ってやらなければならない。
「あんなに嫉妬してたのになんでですか? やっぱり分からないです」
「嫉妬はするけどそれだけじゃない。自分の手でも美しさを表現したいし、美しいものをみてみたいって気持ちも当然あるんだよ。その可能性を全て潰してしまうのは、五十嵐という天才がこの世から消えるのには、私は耐えられない」
結局私の根幹は美しいものを愛する芸術家なのだ。心を折られた「はじまりの群青」ですら憎めない。五十嵐が相手ならなおさらだ。どうにかして生きて欲しいと思う。
「……でも未来なんてみえてますよ。どうせまた折れて、お父さんと同じになるに決まってます。もしかすると絶望して自殺してしまうかも」
根拠のある反論なんてできない。天宮に心を折られてからは、本気で死を考えていた。今日、五十嵐に出会うまではずっと。
「……それでも私を諦めないんですか?」
「五十嵐、昔の私に似てるから。本当は絵を描くこと好きでしょ?」
「絵なんて嫌いです」
うつむいたまま否定しているけれど、五十嵐の絵を思い出せばそうは思えない。人が何かを頑張ろうと思うのは、それが楽しいからだ。テスト勉強なんてしない子供でも、ゲームならいくらだって遊べてしまうみたいに。
「嫌いならそこまで上手くなれないよ。五十嵐の絵の根元にあるのは才能だけじゃない。血のにじむような努力だよ。私、才能はからっきしだけど、努力は誰にも負けない自信があるくらい重ねてきた。そういう意味では同類だって分かるんだ。五十嵐のそれは、決して才能だけでたどり着ける領域じゃない」
五十嵐は顔をあげたかと思うと、目をぱちくりさせている。まるで期待していなかったとでも言いたげな、あっけにとられたような表情だ。
「牧野さんは、私に努力を見出してくれるんですか? 学校の皆も、お父さんだって、……全部才能のせいにしたのに?」
「当たり前でしょ。学生時代の私、ずっと絵ばかり描いてたんだ。授業中でも修学旅行でも。みんなが私をなんて呼んでたか知ってる?」
五十嵐は小さく首を傾げた。
「『狂人』だよ」
「ふふっ」
あまりにもストレートな罵倒だ。ツボにはまったのか五十嵐はくすくすと可愛らしく笑う。当時は気に入らないあだ名だったけれど、天使みたいに笑ってくれたのなら報われたような気持ちになる。
笑う五十嵐をみつめていると、やがてじとーっとした目を向けられた。でもすぐに照れくさそうに視線をそらす。
「……分かりましたよ。今は『狂人』なあなたを信じてあげます」
「良かった」
「でも勘違いしないでください。別にあなたの意見に賛同したわけじゃないです。絵なんてもう二度と好きにはなりませんから。ただ、あなたなら私を更なる地獄に叩き落してくれそうだって思っただけです。あなたみたいな凡人には、私の才能にひれ伏して罵詈雑言をまき散らす。それ以上のことなんてなんにも期待していませんから」
言葉の刺々しさに比べて、あまりにも表情が柔らかい。そのおかげで少しは心を開いてくれたのだと理解する。でももしも普段の冷徹な美貌でこんなことを口にするのなら、学校では間違いなく孤独を極めてしまうはずだ。
「……五十嵐、高校でも友達いないんじゃない?」
五十嵐は否定もせずに、遠くを見ていた。色づいた公園の木々が冷たい風に吹かれてさわさわと揺れている。
「みんな遠巻きにみるだけです。向けられる感情は憧れか嫉妬か、嫉妬を通り越した憎しみ。だから私もありのままの自分を、誰にも見せない」
言い切ると白い息を自分の手に吹きかける。よほど冷えているのだろう。両手をこすり合わせる。その容姿もあいまって映画のワンシーンみたいだ。仕草一つ一つが様になる。見惚れていると、そのままいたずらっぽい微笑みで私を覗き込んできた。
「これまでの人生であなただけですよ。私の心を折る、なんて馬鹿みたいな言葉を聞かせてくれたのは」
少しだけどきりとする。美人だって言うのもそうだし、なによりも……。
「もしかして五十嵐ってツンデレ? 罵倒するのが心を開いた証みたいな」
「ツ、……何わけのわからないこと言ってるんですか。馬鹿なんですか?」
顔を赤くしながら私を睨みつけている。美人なだけじゃなくて可愛いな。こんな反応されて五十嵐を好きにならない異性はいないと思う。
私がたまに読んでいた少女漫画にも、こういうタイプのヒーローが出てきた。好みではなかったけれどこうして直にツンデレをみせられると、なかなか来るものがある。
「スペック高いんだから、他の人の前ではそういう態度やめなよ? 言葉通りに受け取られて恨まれるよ?」
「心配いらないです。普段の私はすこぶる優等生なので」
自慢げに胸を張っている。この完璧な容姿で優等生か。それはそれでなかなかに近づき難い気もする。というか普段の五十嵐が優等生ってことは、今の五十嵐は私だけに見せてくれる特別な姿ってこと?
まじまじと横顔をみつめる。自分が何を言ったか五十嵐も気付いたのだろうか。ほんの一瞬硬直したのちに、沸騰するみたいに頬が赤くなっていく。顔を背けるも、耳も真っ赤だから隠しきれていない。
コミュニケーションに造詣が深くない私だけど、それでもからかいたくなってしまうくらいには面白い反応だった。でも頑張ってこらえる。そこまで親しげにしてもいい間柄ではないと思う。
私は明るいキャラでもないし、人をからかうなんて高等技術はない。
帰る間も五十嵐は一分おきぐらいに悶えていた。なのにいつもの橋を二人で歩いていると自分からぎゅっと手を握ってくれたのだ。目を向けると横顔がほんのり赤く染まっていた。本質的には甘えん坊なのだろうか。妹ができたみたいだ。
私は一人っ子だけど、こんな妹がいれば無限に甘やかしたと思う。本当に可愛いのだ。でも微笑んでいるのがばれたら睨みつけられてしまいそうだから、顔を背けてこっそりと口元を緩めるだけに留めておいた。
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