第4話 追う狂人と逃げる天才
絵に呪われて、自らの命を諦めようとしている稀代の天才。それが五十嵐だった。
私が表情を暗くすればするほどに、五十嵐は悲痛に笑った。
「私が絵を描く限り心を折られる人がいる。傷つく人がいる。それどころか、絶望して死んでしまう人だっている。思い上がりだなんて思いません」
五十嵐が経験しているのは、私とは違う種類の地獄だ。地獄であるという時点で良いも悪いもない。私たちは等しく苦しめられている。唇をかみしめる。類は友を呼ぶなんて望んでない。他の地獄なんて知りたくなかった。存在して欲しくなかった。
呆然としていると、五十嵐は涙をぬぐいながら自嘲的な笑みを浮かべた。
「……もう止めなくていいです。私が生きてる限り、また何かの間違いで今みたいに絵を描いてしまうかもしれない。だから私は死なないといけない。分かりましたよね? 私の存在はあらゆる画家にとって毒なんですよ」
才能さえあれば大切な夢を失わずに幸せになれたはずなんだ。ずっとそう思ってた。でも行き過ぎた無才が私を不幸にしたように、行き過ぎた才能だって全てを不幸にしてしまう。
「……この絵は、私に自殺を止めさせないために描いたの?」
「そうですよ。だって牧野さん絵に未練があるようでしたから。あなたはただの凡人なんですから、お父さんと同じで私がとても憎いはずです」
自らを断頭台へと歩ませるためだけに、あれほどまでに真剣に絵を描いたというのだろうか。むしろ藁にもすがる思いで、必死で助けを求めていたように感じるのだ。
「……だから、私を見捨てるべきです」
表情は歪だった。喜ぶような、悲しむような。諦めたくないような、楽になってしまいたいような。もしかすると五十嵐本人にも自分の気持ちが分からないのかもしれない。
拳を握り締めて強く思う。もしもまだ迷っているというのなら、引き止めなければならない。生きることの苦しみを知っている。けれど死ねば全て終わりだということも分かっている。
死んでいれば私は五十嵐に出会えなかった。五十嵐は一人で全てを抱えて、あの橋から飛び降りて死んでしまっていたはずなのだ。幸福と呼ぶには小さすぎる。けれどそれでも諦めて欲しくないと思う。
天使みたいに綺麗なのに人間らしさもある。お腹を鳴らせば恥ずかしがって、美味しいものを食べれば我慢できずに笑ってしまう。辛いなら涙だって流す。規格外の天才で常軌を逸した努力家だけれど本質はただのか弱い女の子。
そんな子が親にすら死を望まれて、不幸のどん底で命を落とすなんて絶対にだめだ。
私はこれまで、才能がない故にたくさんの理不尽に襲われてきた。けれど全てを失ってしまった原因はたった一つ。天宮の才能に屈してしまったからだ。根本的な非は私にある。
でもこの子は違う。五十嵐は何も悪くない。周りが勝手にこの子に嫉妬しただけなのだ。
なのに五十嵐は悲痛なほどの美しさで微笑むだけだった。
「……ありがとうございました。ごはん、美味しかったです」
椅子から立ち上がり、背を向けて玄関に歩いていく。思わず手を伸ばした。
「待って。五十嵐」
「待ちません。……死を望まれたくないので。私を助けてくれたあなたにまで、これ以上嫌われたくなんてないんです」
切なげな笑顔でそれだけ言い残すと、玄関の扉を開いて外に出ていく。ばたんと勢いよく扉が閉まる。脱ぎっぱなしのパンプスを履き外へと出た。五十嵐の姿はもう廊下にはなかった。小走りで後を追いかけてエレベーターホールに向かう。
エレベーターが来るのを待てなかったのか、階段から足音が聞こえてくる。タイミングよく扉が開くからそれに乗る。一階に出ると、ちょうど五十嵐が自動ドアを抜けてマンションを出ていくところだった。
夜闇の中で振り返った五十嵐と目が合う。涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
「追いかけないでください。あんな嫉妬むき出しの顔してたんですから」
「助けたいんだよ」
「信じられません」
気持ちは分かる。逃げたいって気持ちも分かる。死んでしまえばあらゆるしがらみから解放されて楽になれるのだから。
でも、本当にそれでいいの?
私は確かに五十嵐に嫉妬してる。けど憧れる気持ちだってあるんだよ。その才能と努力を振り回して、私がたどり着けなかった世界で大活躍して欲しい。五十嵐の描く最高の絵画で、世界を射抜いて欲しい。
五十嵐が振りまくのは決して呪いだけじゃないんだって、教えてあげたいんだよ。幸せになって欲しいんだよ。私みたいな人もいるってこと、分かって欲しい。
けど思いを伝える暇もなく、五十嵐は走ってマンションを飛び出してしまった。少しだけためらってから私も後を追う。肌を切るような冷気が全身に吹き付けた。パンプスとスーツが窮屈で上手く走れない。
橋を抜けて繁華街に近づくにつれ人が多くなってくる。まともな大人は終電に乗り遅れそうになってるわけでもないのに、走ったりなんてしないのだ。怪訝な目を向けられる。有酸素運動の熱との相乗効果で、全身が焼けそうなほど熱くなる。
馬鹿みたいだ。この年齢で街中を走るなんて。
でも五十嵐はまだ若い。どれだけがむしゃらに走ってもいい年齢なんだよ。生きるのを諦めるには早すぎる。もう少しくらい頑張って欲しい。たくさんの人に否定されるかもしれない。でも全員がそうだってわけじゃないんだよ。
少なくとも私は違う。汗をぬぐうのも忘れて、恥ずかしさだってこらえて必死で追いかける。足はもう既にだるい。肺なんてもう死んでしまいそうなほどに苦しい。それでも強い願いを込めて、荒い息のままに叫ぶ。
「五十嵐! 止まって!」
繁華街の人混みがざわめく。なんだなんだと酔っ払いたちがにやける。ぎょっとした顔で振り返ったかと思うと、これまでは手を抜いていたのか五十嵐はますます速く走った。
パンプスなんかじゃとても追いつけない。小さな背中が遠ざかっていく。
「なんでそんなに速く走れるんだよっ……!」
叫んだせいで体力に限界が来て、荒い息で立ち止まってしまう。窮屈なパンプスをみつめながら、奥歯を噛みしめる。このままだと五十嵐は絶望のままに死んでしまう。
体力もそうだけど、そもそも速度が足りないのだ。五十嵐が履いてるのは運動靴で、私はパンプス。もしも本気で追いつきたいのなら、何をすべきかなんて分かってる。
「……はぁ。くそっ」
でもこれは私にとっての大人の象徴で、まともな人間に擬態するための防具。脱ぎ捨てるのは怖い。だっていよいよ狂人になってしまうということなのだ。街中で走るだけでもおかしいのに靴下で走ったりなんてしたら、それはもうただの頭のおかしな人だ。
でも昔の私はきっと周りからすれば、狂人だった。勉強をするでもなく、遊ぶでもなく、ただただ狂ったように絵だけを描いていた。理解できないと陰口をたたかれることも多かった。
「……でも、昔の私は自分が好きだったんだよ。今の私なんかよりも、ずっと」
大好きなものを大好きだと叫んで、夢を叶えるために必死で努力する。人と違うことを恐れずただただひたむきに前だけ向いている。本当に昔の私は天才だった。五十嵐が絵の天才なら、私は夢をみる天才だったんだ。
大人になった今また昔みたいに戻れるかって? そんなわけはない。辛いことをたくさん知ってしまって、諦めることも覚えてしまったのだ。けれどそれでも。恥も外聞も全てをかなぐり捨てたならば、たった一人の女の子くらい救えてもいいはずだ。
全身に力を籠める。パンプスを脱ぎ捨てて、両手に掴む。周囲の奇異の視線はますます強くなる。もう何もかも全てなるようになってしまえばいい。狂人と呼べばいい。嘲り笑えばいい。
靴下でむしゃらに足を動かす。地面が冷たい。でこぼこしててちょっと痛い。でも速度は確かに速くなっている。
大人になった私は代り映えのしない毎日に絶望して、死を考えて。何にも本気で取り組むことなんてできなかった。けど今の私は本気で五十嵐を追いかけている。
距離は遠い。でも知っているのだ。努力さえすれば、根性で踏ん張れば大抵のことはどうにかなると。学生時代、才能がないと罵倒してきた予備校の生徒たちも、一年も経てば私の絵に文句なんて付けられなくなっていた。
私が追い抜けなかったのは、天宮ただ一人だった。「はじまりの群青」は努力ではどうにもならない高すぎる壁だった。抗うこともできずに、心を折られてしまった。
でももうこれ以上、諦めたくなんてないんだよ。描きたい絵を描けなくなって、救いたい人も救えない。そんな人生に意味なんてない。もしも今五十嵐を諦めれば今度こそ私は生きていられなくなる。
不意に涙がぼろぼろと流れ出してくる。これまでずっとこらえていたものが溢れるみたいだった。歪んだ視界でも死に物狂いで足を動かす。あんなにも遠かった五十嵐の背中がすぐそこまで近づいている。振り返った五十嵐は、目を見開いた。
「……なんでそこまで」
「お願いだからっ、止まって! まだ諦めないで。私と一緒に頑張って!」
失いたくないもののために全力で叫ぶ。肺が焼けてちぎれてしまいそうだ。思いが届いたのか、あるいは私という狂人に追いかけられるのが恥ずかしくなったのか、五十嵐は少しずつ速度を落としてゆく。
薄汚れたネオンが輝く繁華街の真ん中で、ついに五十嵐の手を掴んだ。もう逃げてしまわないように、強く握りしめる。
もはや体力は限界だった。言葉も話せないほど息が苦しくて、左腕に抱えたパンプスが地面に転がり落ちる。手を膝について全身で呼吸する。
五十嵐は悲しみとも喜びとも分からない顔で私をみつめていた。もう、涙は流していなかった。私という狂人に追いかけられて、泣くどころではなくなってしまったのだろう。
「……大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶっ。おえっ」
お酒を飲み唐揚げを食べたあと、十年ぶりに全力で走るとろくなことにはならないのだと身をもって知った。
女子高生に背中を撫でられながら号泣するOL。そんな珍獣に好奇の視線が突き刺さる。呼吸が落ち着いてくると、流石に恥ずかしさが戻ってくる。
「もう死なない? 死のうだなんて考えない?」
涙と汗を拭いながら問いかけると、五十嵐は呆れたみたいにため息をついた。
「……ここまでされたら無理ですよ。もう。なんなんですか」
理解できないものをみるみたいな冷たい目。私だって自分のことが分からないよ。五年間ずっとまともな人間のふりをしてたのに、出会ったばかりの女の子のためにここまで狂えるなんて。
でもそんなに悪い気分ではなかったのだ。
だけどこれだけでは五十嵐は何も救われていない。助けるために必要なことは分かっている。例えば挫折した私が五十嵐に触発されて、また立ち上がればどうだろう。
今さらプロを目指すというのは流石に無理がある。並みいる天才たちに挑むのに、アラサーの凡人ではあまりに力不足だ。でも折った筆をまた握れば、多少は五十嵐も自分を肯定してくれるのではないか。あきれ果てた表情の五十嵐をみつめる。
脳裏によみがえるのは、天宮の「はじまりの群青」に心を折られたあの瞬間。恐ろしいに決まっている。でも五十嵐を放っておくわけにはいかないのだ。
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