第3話 世界の全てに憎まれた少女
今年の秋はやけに寒くて、最高気温が一桁な今日みたいな日も多い。リビングのテーブルの上に転がっているリモコンに手を伸ばして、暖房をつける。
部屋の間取りは1LDKだ。たまたま格安で借りられたから借りただけで、一人で暮らすには広く感じる。無駄に広い空間というのは寂しさが際立つから、今も少し後悔している。
「座れば? そこ寒いでしょ」
白い靴下でふくらはぎはほとんど隠れているけれど、ひざ下までのスカートとの間からわずかに肌が覗いている。
見るだけで寒くなるほどに白くて細い。五十嵐は棒立ちしたまま、リビングの入り口で警戒心をむき出しにしていた。
それでも小さく頷いてからソファに腰かける。
その瞬間、地獄の悪魔みたいな音がお腹から聞こえてきた。どうしようもない生理現象に五十嵐は顔を赤くしている。
人間離れした美貌の五十嵐には似合わない。でも不意に感じる人間味に、むしろ好感を抱く。
「ちょっと待ってて。ご飯作って来るから」
「……え、料理できるんですか」
さっきまでの警戒と恥じらいはどこへやら、今や目を見開いて驚愕している。酷い先入観だ。
でも第一印象からして私はだめだめOLで、実際料理以外に関してはその印象は限りなく正解に近い。
「社会人になってから練習したから。そこらの居酒屋よりは美味しい自信がある」
「……凄いんですね」
「まぁね」
それだけ話して私たちの間には沈黙が下りる。
「……」
「……」
普段からは想像もできない行動力を発揮して女子高生を連れてきたけど、そもそも私はコミュ力がゼロなのだ。
選択肢は無数にあるけれど何を話すのが正解なのか分からないから、結局どれも選び取ることなく沈黙を貫いてしまう。
静けさで耳が痛いから、リモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。バラエティ番組だった。おしとやかな雰囲気の美人、天宮がひな壇に座っている。自分でも表情が暗くなるのを感じた。
私には友達が天宮しかいない。その天宮も多忙で料理を披露することなんてほとんどないのだ。
絵をやめた空白を埋めようとして料理を始めたけれど、結局はより強く欠如を感じるだけだった。
「今日は唐揚げにするつもりだったんだけど、それでいい?」
「大丈夫です。唐揚げ大好きなので。ありがとうございます」
流石に沈黙が堪えたのか、五十嵐はぎこちないながらも微笑んでくれる。お行儀よく膝の上に手を置いてテレビをみつめている。
私はキッチンで唐揚げとみそ汁、キャベツのみじん切りを作った。ご飯は朝炊いてあるから問題はない。
いつもよりも多い二人分の料理を作って持ってくると、五十嵐はソファから立ち上がっていた。後ろの壁にかけてある絵をじっとみつめている。
故郷の漁師町をモチーフにした絵だ。
木造家屋の並ぶ横を伸びていく堤防。その向こう側にはたくさんの漁船が並んでいて、天宮に比べれば児戯でしかないけれど、輝く夏の海も広がっている。
相変わらず才能の欠片も感じられない駄作だなと心の中で毒づく。
料理をテーブルに運ぶ。気付いているはずなのに、五十嵐は振り返らなかった。こんな駄作をまじまじと見つめられるのは嫌だ。
「つまらない絵でしょ。それ、私が描いたんだ」
「……上手です」
上手だと思う人もいるのだろう。でもある程度努力を重ねて才能の壁を知れば、こんなものはただの駄作にしかみえなくなる。
凡人では決して天才には届かないのだ。天宮が作り上げた天井を破壊するどころか、たどり着くことすらもできない。
「全然だめだよ。それを飾ってるのはもう二度と絵を描かないため。自分が凡人だっていう戒めだよ。……無駄に頑張って惨めになんてなりたくないんだ。もう誰かを憎みたくなんてない」
五十嵐はぎゅっとこぶしを握り締めた。でも何か言葉を発するわけでもない。感情的な仕草とは正反対な冷たい無表情で振り返り、そのまま椅子に腰かけた。唐揚げをみつめながら、静かに手を合わせる。
「いただきます」
今どき珍しい子だ。私が最後に「いただきます」なんて言ったのはかなり前だと思う。
気を遣っているのか、あるいは妙なものが混入している可能性を警戒しているのか、私が料理に箸を伸ばすのをみてから、自分も唐揚げを口に運ぶ。
「どう? おいしい?」
「サクサクしててとてもおいしいです」
言葉は嘘ではないのだろう。口に含んだ瞬間に目元も口元も緩んでいた。
さっきまでのハリネズミみたいな雰囲気は消えて、毛を逆立てた猫程度には笑ってくれている。褒めてもらえて胸の奥がじんわりと温かくなる。
だけど五十嵐はすぐに現実に引き戻されたみたいに、表情を暗くさせた。
「……迷惑をかけてしまってごめんなさい。なにかお礼をしたいのですが」
「お礼なんていらないよ。何があったのか話してくれればそれでいい」
うつむいたまま無言で五十嵐は唐揚げを食べていく。料理を全て食べ終えると、五十嵐は私に了承を得てから食器をキッチンに持っていく。
警戒しているとはいえ、何もしないというのは耐えられないのだろう。
「私が全部洗うので牧野さんはリビングにいてください」
どことなく手つきがたどたどしいから不安だけれど、ここは任せてみることにしよう。
でもリビングでソファに座っていると、すぐにぱりんとお皿の割れる音が聞こえてきた。
「大丈夫?」
「……ごめんなさい」
キッチンにやってくると、しゃがみ込んで涙を流していた。幸いにもけがはしていないみたいだ。
事情はまだ分からないけれど、お皿一枚で泣き崩れてしまうほどには追い詰められていたのだろう。
励ますために肩に触れようとして、どことなく後ろめたくなる。代わりにお皿を片付けようとしゃがみ込むと、震える声で五十嵐はつげた。
「お願いです。私に絵を描かせてください。牧野さんなら自ずと分かるはずです。私が死のうとした理由が」
やっぱり私と同じく才能がないから挫折してしまったのだろうか。でもそれならますます伝えてあげなければならない。夢破れた先に待つのが私のような人生だってことを。
進むのも退くのも地獄かもしれない。けれどまだ進む方がましだ。生き地獄を経験している私は心からそう思うのだ。
例え才能がなくても、五十嵐は絵を描くのをやめてはいけない。絶対にやめてはいけない。
「分かった。私が片付けるからそのあとで画材持ってくるね」
「ごめんなさい」
五十嵐は小さく肩をすくめてリビングに戻っていった。
寝室になるはずだった部屋には画材が埃をかぶって眠っている。もう五年放置されているけれど、まだ使えるはずだ。
割れた食器を片付けてからそこに向かう。画材は私にとって挫折の象徴なのだ。目にするだけでもきゅっと心臓を掴まれてしまったみたいになる。それでもこらえながらリビングに運ぶ。
戻ってくると、五十嵐は薄暗い自嘲的な笑みを浮かべていた。
「きっと私のこと、見捨ててくれると思いますよ」
「そこまで薄情じゃないよ」
「薄情にもなりますよ。私の才能をみれば、きっと」
あまりにも頑なな声色だった。見ていて辛くなるほど表情に陰りがある。赤の他人な私の励ましなんて不穏なだけかもしれないけれど、それでも放っておくわけにはいかなかった。
優しくその華奢な肩を叩く。
「大丈夫だから。他の人がどうとか知らないけど、私は五十嵐のこと絶対に嫌いにならない」
「……絶対、ですか?」
目を潤ませている。ガラス細工みたいに脆くて、ちょっとした衝撃を与えるだけで壊れてしまいそうだった。ほんのわずかに不安がよぎる。でも私は首を縦に振った。
「うん。絶対だよ」
過去の私をみているみたいなのだ。私も凡人の苦しみを嫌というほど知っている。どれほど才能がなくとも軽蔑もしないし、見下しもしない。
私の瞳の奥を覗き込んでから、五十嵐は瞼を閉じて目元を指先で拭った。
「……よく見ておいてください。私の呪われた才能を」
ぱちんとスイッチが切り替わったみたいだった。警戒心も不安も悲しみも絵を描くには全てが不要だと言わんばかりに真剣な瞳で、木製のイーゼルに掛けられたキャンバスをみつめる。
その横顔は、百年に一人の天才と呼ばれる天宮に重なってみえた。
いや、それ以上にみえる。この子はただものではない。私の直感はそう告げていた。
けれど信じたくなかった。だって私はこの子を自分と同類だと思っていた。なのにもしも違うというのなら……。
不安に襲われていると、五十嵐の手に握られた筆は清流のような迷いのない軌跡を描く。
触れるたびこの世のものとは思えない美を描き出す。雑念だらけの私の脳内は、吐き気を催すほどにはぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
目が離せなくなった。迷いのない完璧な筆遣いもそうだし、鮮やかに描かれていく景色には時間の経過すらも忘れてしまう。
気付けばそこには、私が描いた漁師町と完全に同じ構図の絵が完成していた。けれど何もかもが違う。
色の使い方もデティールの表現も、そこから伝わってくる感情の濃度も。みつめていると潮の匂いだって漂ってくる。
水の表現ですら百年に一度の天才である天宮に負けていないのだ。他の要素なら天宮ですら勝負にもならないだろう。
五十嵐は異次元の天才だった。
でもその美しさを支えるのは才能だけではない。かつて予備校や大学に通っていた頃、才能ある同級生はたくさんいた。
誰もかれも自らの才能を存分に振るって描いていた。描く絵は泥臭さとはかけ離れていた。
彼ら彼女たちの描く絵では、努力よりもセンスや感性みたいな才能の方が目立つ。五十嵐ほどの天賦の才を持つのならなおさら泥臭さとは無縁だと思う。
でも五十嵐にはその常識は通用しなかった。
一見すると天才の描く絵ではないのだ。むしろ無才が魂を削って描き出した、一生に一度の渾身の傑作にみえる。
理解なんてしたくなかった。でも理解してしまう。五十嵐は天賦の才すらも霞む凄まじい努力を重ねている。
もしも五十嵐の絵をみて才能頼りだなんて評する奴がいたら間違いない。
そいつは物の道理も分からない馬鹿だ。
でもきっとこの世は馬鹿ばかりなのだ。ほとんどが、恐らくはプロですらも五十嵐の美を才能頼りの美だと断定したに違いないのだ。
かつて死に物狂いの努力を重ねた私だからこそ、分かってしまう。分かりたくなんてなかったのに。
全てを才能のせいにできれば、どれだけ楽だっただろう。
神に愛されたとしか思えないほどの才能と、私にも引けを取らないだろう後天的な努力。きっとこの子は画家になるためだけに生まれてきたのだ。
爪が食い込むほどに拳を握り締めていた。なんでこんな恵まれてるくせに死のうとしてたの? 辛そうにしてるの? 意味が分からない。今すぐにでも理不尽に怒鳴って家から追い出してしまいたい。
でも怒りが爆発する寸前、五十嵐が暗い声でつぶやいた。
「分かりましたか。私の才能が呪いだってこと」
表情は落胆に染まっていた。その瞳には嫉妬に狂った負け犬が映っていた。情けなさのあまり死にたくなった。
どうにかして醜い感情を押し殺したくて、五十嵐には見えないように腿を指先でつねる。
大丈夫。感情を殺すのには慣れている。
「……呪い?」
五十嵐は自嘲的な笑みを浮かべていた。
「分かりませんか? 私ほどの才能を目にすれば、誰もが自らの絵画に価値を見出せなくなる。絵を描く意味を失ってしまう。全て私でいいんじゃないか、自分が描く意味なんてないんじゃないか。お父さんが私を家から追い出したのも、この才能のせいです」
その投げやりな声と表情に寒気を感じる。嫉妬が急速にしぼんでいった。
「……でも、まさか」
「本当ですよ。『お前なんかに絵を教えなければよかった。お前に才能がなければ今も幸せだったはずなんだよ。お前は俺の娘じゃない。この家から出ていけ。死んでしまえ』。お父さんは散々に私を怒鳴りつけてきました。あれで現代の巨匠なんて言われてるんですから、笑っちゃいますよね。まだ高校生な自分の娘に心を折られるなんて」
五十嵐の引きつった笑顔の上を、涙が落ちていく。疑いは消えうせていく。この子は表情を誤魔化せるようなタイプじゃない。
赤の他人が作った唐揚げなのに、食べたときに素直に微笑んでしまうほどには正直な子なのだ。
私はただ五十嵐の才能がもたらす明るい面にしか目を向けていなかった。けれど行き過ぎた才能は時に不幸をもたらしてしまう。
五十嵐のお父さんは確かに巨匠ではある。でも五十嵐の方がずっと優れている。
才能のない私ですらそんな風に感じてしまうのだ。感覚の研ぎ澄まされた巨匠からすれば、なおさら途方もない差にみえるのだろう。
私とは比べ物にならないほどに動揺し、憤慨したに違いないのだ。
「お父さんだって、私の死を望んでいるんですよ」
五十嵐は震える声でつぶやいた。
「……私は誰にだって生きることを望まれていないんです」
涙でぐしゃぐしゃの五十嵐は今にも潰れてしまいそうだった。
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