第2話 巨匠の娘

 滔々と流れる川の穏やかなさざめきが、耳鳴りみたいに聞こえた。


 人を助けることに理由なんていらないとはよく言う。でも自殺を止めることは決して人を救うということではない。


 私自身、死んで楽になりたいという気持ちがあるのだ。だからこの天使みたいな少女の気持ちだって分かってしまう。


 一ミリも知らない他人に軽薄な善意を押し付けられること。これからの人生の責任を取ってくれるわけじゃないのに、決死の覚悟で踏み出したその一歩を妨げられること。


 それがどれほど残酷で腹立たしいことか、知っているのだ。


 そのはずなのに大声で叫んでいた。


「だめっ! 戻って!」


 この世から美しいものが失われるのが恐ろしい。「はじまりの群青」は私の挫折の象徴だけれど、消えて欲しいだなんて思わない。この美しい少女にだって生きていて欲しいのだ。


 少女は振り向くこともせず欄干にかけた足を戻した。スカートを揺らしながら一目散に逃げていく。白い運動靴を履いたその足は想像よりもずっとしなやかで、あっという間に距離が離れてしまう。


 少女の逃げる先には、街灯もない真っ暗な闇が広がっていた。嫌な汗が額ににじむ。


「君が思うほど世の中悪くないよっ!」


 人生に絶望している私が謳う希望なんて、子供が道端に落としたビー玉よりも安っぽい。でもそんなことを知らない少女は、耳障りのいい言葉に心を打たれたのだろうか。静かに足を止めた。


 長い黒髪を陸風になびかせながら振り返る。まるで堕天使の翼だった。


 見惚れて何の反応も出来ずにいると、そのまますたすたと歩み寄ってくる。目の前までやって来ると、大きな瞳でまじまじと私をみつめた。


 私よりも少し身長が低いみたいで、自然と見上げられるような形になる。絵でも描くのか制服の胸元に赤色の絵具がついていた。


「その顔でいいますか」


 ため息交じりの声は、透き通った水のようだった。


「……その顔?」

「人生に絶望したOL。そういう顔にみえます。人の自殺を止める余裕なんてあなたにはないでしょう? もしも本当に世の中が悪くないのなら、もっと笑ってみせてくださいよ」


 せっかくの覚悟を邪魔されて苛立っているからなのかもしれないけれど、儚い容姿とは裏腹にかなり苛烈な性格をしている気がする。私の苦手なタイプかもしれない。


 でも容姿はやっぱり見惚れてしまうほどで。社会的な常識とか、言葉を交わした人が死んでしまうのが恐ろしいとか、止める理由なんて他にもいろいろとあるけれど、少なくともこの子の自殺を肯定する理由なんて私の中には一つもなかった。


「……でも君も私と同じくらい辛そうな顔してるよ?」

「ですね。疲れ果てたんですよ」


 少女は深いため息をついて、完璧な流し目で私をみつめた。光の加減で姿を変える水みたいに、この子は表情によって大きく印象が変わる。


 なんでこんなに色っぽいんだろう。顔つきにはまだ幼さも残っているのに。


「まだ高校生でしょ?」 


 ステレオタイプ的な思い込みはかつての私が一番嫌ったものだった。でも今の私には何もない。何も知らないのだから、ありふれた言葉しか伝えられない。


「若いから何なんですか。死にたいって気持ちに年齢制限ありますか?」


 吸い込まれるような大きな瞳の向こう側に、夜の海みたいな深い絶望がみえた。


 私と少女の共通項を一つだけみつけた。溺れたみたいに胸の奥が苦しくなる。


「……もしかして君も何かを失ったの?」


 思春期ゆえの不安定さとかではなくて、大切な何かを失ったから死を考えるほどに苦しんでいるのではないか。毎朝鏡に映る私と同じ目をしているのだ。


「なんであなたに教えないといけないんですか」

「話くらいは聞かせて欲しいよ」


 少女は表情を強張らせて私から目を背ける。肩をすくめて黙り込んだかと思うと、欄干に肘をついて河口の向こうの海をみつめた。


 まだ月は隠れたままで真っ暗だ。陸風のせいで、潮の匂いは届かない。


「だったら今日はあなたの家に泊めてください。あとご飯も食べさせてください。お腹すいてるので。ついでにオレンジジュースもあると嬉しいです。あとプリンも」

「えっ」

「できないのなら飛び降りるのでご心配なく」

「いやご心配なくって」


 少女は表情一つ変えず黒い海をみつめていた。いったい何を考えているのだろう。困惑していると、上司が物分かりの悪い部下に向けるみたいな、苛立たしげな鋭い眼光が私を射抜く。


「……分からないんですか? あなたが罪悪感を背負わなくてもいいように、私を嫌いにさせてあげてるんですよ。おとなしく私のことなんて諦めてください。人生がもったいないです」


 鈍い私にしびれを切らしたのかもしれないけれど、そんなの「助けてくれ」と言っているようなものだ。


 本当に死にたいのなら隠してればよかったのに。なおさら放っておけるわけがない。歩み寄ると少女は眉をひそめて後ずさりした。


「お酒臭いです」

「合コンの数合わせとして呼ばれてたんだ。お金はきちんと取られるのに、料理はまずかった」

「断ればいいのに」

「……私もそうしたいよ。でもそれで同僚と仲悪くなったらどうするの。今でさえあまり職場に馴染めてないのに。君も高校生なら分かるでしょ?」


 人間関係にあまりいい記憶がないのか、どんよりと表情が曇る。


「さっき君が話した要望、私が全部叶える。後ろめたさとか感じなくていいよ。大したことじゃないし。ただ君が何に追い詰められていたのかは教えて欲しい」


 諦める気がないと分かったのか、少女は苦々しく顔を歪めてため息をついた。


「全然面白くないですよ。お酒のつまみにもならないです」

「死ぬ理由が面白いわけない。というか私ってそんな悪人にみえる?」

「鬱陶しいくらいにお人好しにみえます」

「正しくはないけどその認識でもいい」


 少女に歩み寄ると風に乗ってふわりと甘い匂いがした。後ずさりはしなかったけれど、その場から動こうともしないからそっと手を伸ばす。


 温かさがじんわりと伝わってきた。自分から人の手を握ったのなんて、いつ以来だろうか。


「……本気で、私なんかを助けるつもりなんですか。時間の無駄なのに」


 少女の手は小さく震えていた。


「無駄だなんて思ってない。なにか大切なものを失ったのなら、そのままにしちゃだめ。頑張って取り戻さないと私みたいになる。君にはこうなって欲しくない」


 天使のような顔立ちが私をまじまじとみつめてくる。


 変り映えしない毎日に疲れ果てたOL、その張本人が口にするのだから説得力の塊だ。


 しつこく妨害されたことで、死を選ぶほどの激情も薄れてしまったのだろう。少女はうつむいて黙り込んだ。


 やがてため息をついてから顔をあげて、ぼそりとつぶやく。


「……五十嵐いがらしです。名前」

「五十嵐……」


 思わぬ苗字に目を見開く。もしかしてこの子、あの巨匠の娘なのだろうか? 五十嵐というのはこの近くに住む著名な画家の苗字だ。


 五十嵐いがらし匠一しょういち、彼は現代の巨匠と称されるほどの天才で、学生時代は私の憧れの画家の一人だった。


「もしかして君も絵を描くの?」


 問いかけると五十嵐の表情が酷く曇る。聞かれたくないことだったのだろうか。でも苗字が五十嵐で制服を絵具で汚しているのだから、嫌でも関係を連想してしまう。


「知ってるんですか。お父さんのこと」

「有名だからね。昔は私も憧れてた」


 天宮がみずみずしい若葉のような才能だとするのなら、彼は枝葉というよりは大木そのものに例えるのが正しい。天宮は確かに百年に一人の天才だけど、総合力ではまだ及ばないのだ。


 それにしてもこの子も絵を描いているのか。巨匠と呼ばれる画家を親にもつってどんな感じなんだろう。


 親と同じくらいの才能があるならともかく、そうでないのならプレッシャーは凄まじいはずだ。何をするにも比較されてしまう。


 もしかしてこの子が死のうとしていたのは、そのせいなのではないか。 


 考え込んでいると腕を指先でつつかれる。


「あなたのことは何と呼べば?」

「私は牧野。別に呼び捨てでもいいよ」

「分かりました。あの、牧野さん。今日だけでいいですから泊めてください。あなたが自殺を止めたんですから、この程度の責任は取ってもらわないと困ります」


 最初の苛烈さはなりを潜めていた。声と表情は頼りない。それでも私への警戒心は消えるどころかむしろ強まっているようで、顔が強張っている。


 当然だ。自殺を止めるという目的がなければ、言葉を交わすのも不自然なほどの他人。私だって五十嵐の立場なら、なにか別に薄汚い意図があるのではないかと思う。それでもこの子はそんな赤の他人の家で一晩過ごそうとしているのだ。


「……分かった。こっちだよ」


 手を引くと五十嵐は大人しくついてきてくれた。未成年を警察ではなく自分の家に連れていくのは、大人としてどうなんだろうとは思う。でも絵で悩んでいるのならなおさら見捨てるわけにはいかない。


 五十嵐の悩む姿が、どうしようもなく私と重なってしまうのだ。

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