絵画の神様に愛された彼女は、世界の全てに憎まれていた

壊滅的な扇子

第一章 夜明け前でも月は輝く

日常の終わりと非日常の始まり

第1話 芸術みたいな少女

 気の重くなるような薄暗い照明の中に、ビールの入ったジョッキと料理が並んでいる。向かいに座る男性たちと極力目が合わないように、私はうつむいて静かに唐揚げに箸を伸ばした。口の中に運び咀嚼するも油でぎとぎとしていて、顔をしかめる。


 集まった男女は食べ物の味なんて大して気にしていないみたいで、テーブルを挟んでわいわいと楽しそうに話している。同僚が言うには出身や趣味、特に会社での地位、収入。それをいかにさりげなく聞き出せるかが合コンにおいては重要らしい。


「すみません。牧野まきのさん、もしかして絵を描いてました?」


 食べ物がおいしくないからちびちびとビールだけ飲んでいると、突然正面の男性が声をかけてくる。どちらかと言えば暗い雰囲気を纏った中肉中背の男性だ。


「……描いてましたけど、どうして分かったんですか?」


 顔をあげて愛想笑いをする。するとその人は、合コンには相応しくない無精ひげを掻きながら口元を緩めた。私と同じで欠席者の穴埋めとして急遽呼ばれたのだろう。


「俺の地元でちょっとしたコンクールがあったんですよ。俺も学生時代は絵を描いていて、そこで受賞した牧野さんの名前を憶えていて」

「……随分記憶力がいいんですね」


 あまり触れられたくない過去だから、ついつい声に刺々しさが混じってしまう。


「牧野さんの絵がとても綺麗だったもので。海に対する愛が溢れていたというか、こういう人が真に才能を持っている人なんだって思ったんですよ」


 手元のジョッキに落しかけていた視線を戻して、思わず男性を二度見する。私に才能があるって、この人は本気で言ってるの? 表情をみるにどうやら真剣みたいだ。すぐに口元だけ緩めて「ありがとうございます」と適当な相づちをうつ。


 学生時代の私は眠るとき以外はほとんどずっと絵を描いていた。寝食を忘れて絵に没頭することも少なくはなかった。そんな人格破綻者だから友人もたった一人を除いていなかった。文字通り青春の全てを絵に費やした。


 でも27歳の私は画家になっていない。自分の理想の美を全力で表現するどころか、憂鬱な気持ちを我慢して作り笑いするばかりだ。過程なんていらない。結果だけみれば容易に分かる。


 私には才能なんて、これっぽっちもなかった。



 合コンが終わって店を出ると、突き刺すような冷気に全身を包まれる。まだ十一月の上旬なのに真冬のようだ。


「牧野さん。ありがとう。急な誘いなのに乗ってくれて」

「気にしないでください」


 垢ぬけた同僚の一人が頭をさげるから、作り笑いを浮かべて手のひらと首を横に振った。たった一人私を残して、仲がいいのだろう他の同僚たちと一緒に人ごみに消えていく。


 ネオンの看板がそこらじゅうで輝いていて目が痛い。繁華街はまだ木曜日なのに賑わっていて、人々のざわめきが至る所から聞こえてくる。まだ酒に酔い潰れた人はいないけれど、もう少しでそこら中が胡乱な雰囲気になるのだろう。


 体も心も寒い。私も早く家に帰ってお風呂に入ろう。スーツは窮屈だしパンプスだって早く脱いでしまいたい。手をこすり合わせながら居酒屋の前を立ち去ろうとすると、不意に背後から呼び止められた。


「すみません。牧野さん、俺と連絡先を交換してくれませんか」


 すっかり素に戻っていた表情と声色を仕事モードに戻してから振り返る。早く帰りたいけれど、ここで適当な対応をするのなら大人として失格だ。


「牧野さんと仲良くなれたらいいなと。昔は俺と同じで絵を描いていたみたいだから、話しやすかったので」

「ごめんなさい。そもそも数合わせとして呼ばれたので。今は恋愛とか考えたくないんです」

「あ、……そうでしたか」

「ごめんなさい。恋愛する気もないのに、こんな場所に顔出してしまって」


 小さく頭をさげてから、凍り付いたみたいに冷たい繁華街の明かりの中を一人で帰る。


 申し訳ないとは思う。でも恋愛をするためだけに設けられた場で成就する恋愛なんて、気持ち悪いものだとしか思えないのだ。ふとした日常で出会った人に、自分でも気付かないうちに恋をする。それが私の理想だ。


 これほどまでに幼稚な恋愛観なのも、学生時代に絵ばかり描いてまともに人付き合いをしてこなかったせいなのだろう。これで27歳なんだから、あまりにも悲惨だ。努力は重ねたけれど、失うばかりで何も得られなかった。


 車が通るたび凍えるような風が吹いてくる。繁華街の正面の大きな交差点で体を庇いながら、信号が青になるのを待った。寒い。今すぐに帰りたい。けどこのまま帰っていいのか気がかりだった。悩みばかりが浮かんできて、明日まで響いてしまいそうだ。


 ため息をついてから、また人ごみの中を戻って天宮あまみやのギャラリーに向かう。


 天宮あまみや花蓮かれんは学生時代からの友達でテレビにも出るような有名タレント。そして画家でもある。しかも百年に一度の天才と呼ばれる程には才能があるのだ。


 素晴らしい絵を描いてみんなから評価されて。挫折も知らず好きなことだけして幸せに生きていく。そんな理想の生き方が羨ましくて仕方がない。どうして私には天宮みたいな才能がなかったのだろう。


 繁華街を抜けて、海沿いを歩く。


 夏になればマリンスポーツが盛んになる場所だけれど、今は晩秋でシャッターを閉じた店舗が多く並んでいる。県内一の都市には見合わない寂れっぷりだけれど、雰囲気が故郷に似ていてむしろ好きだったりする。


 しばらく潮騒を楽しんでいると、西洋の教会に似た白い建物が砂浜の近くに現れた。


 白い光の漏れ出す入口で警備員さんに会釈してから、どこか病院にも似た雰囲気の真っ白な空間に入る。展示されている絵画はどれもこれも美しくて、目を奪われてしまう。


「……凄いな」


 無意識にため息をついてしまうほどだった。でも私がここに来た目的の九割九分は、たった一枚の絵画のためにある。一番奥に大切に展示されている絵画だ。天宮には失礼かもしれないけれど、他の全ては前菜ですらないと私は思っている。


 誘われるように歩いていくと、額縁の向こうに太陽できらめく海がみえた。手前を白い帆を張ったヨットが進み、遠くには陸地が霞んでいる。青空は澄み渡っていた。


 それぞれの要素を取り上げると、なんの変哲もない海の絵にみえる。けれどたった一点、この絵は過去現在未来のいかなる巨匠ですら越えられないであろう美を宿している。


 水の表現がおぞましいほどに洗練されているのだ。それはもう一万年も百万年も先取りしてしまったみたいに。現実の水も確かに美しいけれど、この絵の水は更にその上を行く。


 天宮の水は、美の天井。もはやその先を望めないと感じてしまうほどに洗練されていて、だからこそ私はこの絵に心を折られてしまった。


 絵の下には「はじまりの群青」と書かれたプレートが取り付けられている。


「……どうして私じゃなかったんだろう」


 小学生のころ絵に目覚めてから私はずっと水の表現を突き詰めていた。自分の感じた海の美しさを世界のみんなに知ってもらいたかった。誰よりも美しい海でみんなに感動してもらいたかった。けどそのための才能をもっていたのは、天宮だった。

 

 気付けば手が伸びていた。指先が冷たいプレートの七文字をなぞる。いつの間にか頬を涙が流れていた。今となっては天宮と私とでは生きている世界があまりにも違う。違い過ぎてむしろ笑えてくる。


「……はは」


 頬をこぼれた涙が床に落ちてゆく。いつもなら心はこんなに痛まない。それどころか美しさに癒されるはずなのに、今日はどうにも抑えが効きそうにない。


 会社では表情を作って感情を誤魔化して、仕事が終わっても大人としての正しさのために行きたくもない合コンに向かう。


 それ以外にまともな大人に擬態する方法を私は知らない。夢も叶えられないのならせめてまともに生きなければならない。まともに生きれば少しは幸せになれるのだと思っていた。でも五年経っても傷口は塞がってくれない。


 懐かしい思い出にできるほど弱い夢ではなかったのだ。強い夢はそれ自体が人生を余生にしてしまう凶器だった。心を折られてしまった27歳の私には、また夢のために立ち上がるような勇気は残っていない。


 涙を拭ってから私はギャラリーを後にした。今日も見慣れた景色を歩く。


 海に流れ込む大きな川。その河口付近にかかる橋。ここは余生の象徴だ。渡ればすぐに私の住むマンションに着く。毎日毎日休みの日以外はここを通る。明日の朝もきっとここを通る。何も起こらずただ無為に消費されていく毎日は永遠に続く。


 ――もしも帰らないって選択をしたなら、何か変わるのかな。


 月は雲に隠れてしまった。海側の欄干に寄りかかって、墨汁みたいな川をみつめる。もしもここから飛び降りれば楽になれるのだろうか、なんてふと考える。


 素晴らしい考えに思えた。夢を諦めたあとに待つ無限の余生の輪を、たった一つの行動で断ち切れるのだ。でも私は知ってる。今日が自殺を望んだ最初の日でないってことを。


 いつだってみんなの顔がよぎるのだ。お父さんもお母さんも、天宮だってきっと悲しむだろう。知っていながら無責任に死ねるほど、私は強くない。


「……つまらないこと考えてないで帰るか」


 かじかむ手に白い息を吹きかけてから、冷たい欄干に寄りかかるのをやめる。河口の向こうに広がる真っ暗な海から目をそらして、重い足を踏み出す。不意に指先が痛んだ。窮屈なパンプスで歩きすぎたのだ。


 そんなつまらないことで、また泣いてしまいそうになる。涙がこぼれる前に顔をあげた。辛くても生きなければならないのだ。泣いたってどうにもならない。


 けれど視界の中央にその姿を目撃した瞬間、湧き上がっていた涙が引っ込んだ。これまで感じていたどす黒い闇だって、太陽の光を浴びたみたいに浄化される。


 制服姿だった。橋の真ん中あたりに、天使みたいに綺麗な女子高生がいた。


 艶やかな黒髪が風に吹かれて揺れている。肌は白くて触れれば雪みたいに溶けて消えてしまいそうだ。顔も小さくて手足も長くて腰の位置も高い。起伏に乏しい細い体だけれど、それがむしろスタイルの良さを際立たせている。


 現実に存在していることを信じられないほどだった。もはや芸術だ。見慣れた薄汚れた橋なのに、彼女がいるだけで夢や幻をみているような気分になってくる。本当に全てが理想的なのだ。


 たった一点、欄干に足をかけて川に飛び込もうとしていたこと以外は。

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