第20話 あなたのために

 思考が停止する。薄暗い影の中で五十嵐が微笑む。

 

「私が中学生の時です。有名なコンクールで一番を取って、世界にも認められる才能だと証明されたんです。その数日後にお母さんは死にました」


 意味が分からない。どうして? 疑問に思っていると、五十嵐はつげた。


「私があっさりと一番をとったあの場所は、お母さんからすると一生をかけても届かない夢だったみたいです。たくさん苦しんで、それでようやく諦めがついたときに、私が夢を奪ってしまったんです。お葬式で泣き崩れるお父さんをみて、本当にお母さんが死んでしまったんだって理解しました。大変なことをしてしまったんだって。中学生の私にとって、あのコンクールは遊び半分だったんです。真剣でもなんでもなかったんです。本当に、私は馬鹿でした」


 途方もなく辛いことを語っているはずなのに、声に感情はなかった。許容できる範囲を超えてしまったからなのか、……あるいは悲しみすらも押しつぶしてしまうほどの自己嫌悪で、胸がいっぱいになっているのか。


「後悔でいっぱいになって、涙も止まらなくなって。それでも絵を描くことをやめられなかったんです。むしろ絵をやめることこそがトラウマになってしまったんです。もう二度とお遊びで絵なんて描かない。全てに真剣に取り組む。そうじゃないと壊れてしまいそうでした。頑張って真人間になろうって思ったのもその時でした」


 もしかすると五十嵐はお母さんすらも見下していたのかもしれない。母親の命まで奪ってしまったのなら、とても取り返しのつく失敗ではない。


「でも死んだお母さんは、私がいくら真人間になっても蘇らない。お父さんだって私に憎しみをぶつけてきました。殺人鬼なんだから、当然ですよね」


 自嘲的に笑うのが嫌だった。五十嵐も、自分の子供が苦しむって知っていながら命を絶ってしまったお母さんも、苦しみを知っていながら家を追い出した父親も。


「……殺人鬼なんかじゃないよ」


 でも五十嵐の考えだって理解できるのだ。自分が存在していなければ両親は幸せだったはずなんだって。


 私も思うよ。感情の重さは全然違う。でも天宮は私の友達で、天宮だってきっと私を友達だと思ってて。なのに私は天宮に心を折られて、憎しみを叫んでしまった。天宮の心を傷付けたのだ。


 当然、心を傷付けるのと、人の命を奪うのとでは全然違う。五十嵐のそれは私の何十倍も辛いことのはずなのだ。真剣でもなんでもないちょっとした子供の遊びなのだから、才能がなければ人の命なんて奪わなかった。


 でも不幸にも五十嵐には才能があった。


 途方もなく辛いはずなのだ。なのに五十嵐は、世界史の授業で学んだ歴史でも思い出すみたいに滔々と語るだけだった。まるで、心が壊れてしまったみたいだった。


「殺人鬼ですよ。だからやっぱり不幸になりたいって思ってしまうんです。自分を産んで育ててくれた両親を不幸にしたんですから。おじいちゃんもおばあちゃんも、口にはしませんでしたけどきっと私のこと恨んでたと思いますよ。もうこの世にはいませんけどね。お母さんを追うみたいに病気で死んでしまったんです」


 なにを言えばいいのか分からなかった。五十嵐は絵画の神様には愛されたけれど、それ以外には嫌われているのだ。だというのに表情はどこまでも穏やかで、まるで全てを諦めてしまったみたいだった。


「でも牧野さんは私に幸せを願ってくれる。牧野さんだけは、……私のために」


 にわかに表情が変わる。笑顔なのに喜びとも悲しみともつかない。


「重いって思われるのは嫌です。けど言わせてください。私が生きているのは、あなたのためですよ。牧野さん。私に幸せを望んでくれるあなたのためだけです」

「……そんなの」


 五十嵐の穏やかな微笑みに、心をぐちゃぐちゃにされてしまう。胸が苦しい。間違ってるなんて言えない。でもそんなのが正しいだなんて認めない。真っすぐな瞳で五十嵐をみつめる。


「五十嵐は世界が広いってことを知らないんだよ。私だけじゃない。もっとたくさんの人が五十嵐を願ってくれてるはず。私のためだけに生きてるなんて思って欲しくない。これから先、長い人生の間にたくさんの人と出会うはずなんだから」

「……私は別に、牧野さんだけでも」

「だめ」


 私だけに寄りかかれば、五十嵐は正しい幸せをつかみ取れなくなる。だってこんなのただの依存だ。五十嵐には才能あふれるたくさんの理解者が必要だ。たくさんの人に愛してもらうべきなのだ。


 太陽で輝く街と、どこまでも広がる美しい海に視線を向ける。この広い世界で五十嵐を肯定するのが私だけだって? そんなの認められない。真っすぐに五十嵐をみつめる。


「五十嵐を大切にしてくれる人はたくさんいるよ」


 手を握ると突き放すみたいに笑った。


「そんなのいませんよ。私の内側に人を不幸にする怪物が眠っている。その事実だけで私は人との交流を受け入れられないんですよ。人と関わるのが、怖いんです」

「……なんで」

「もう。どうして牧野さんが泣きそうになるんですか」

「五十嵐のこと大切に思ってるからだよ」


 五十嵐は顔をほのかに赤らめて私をみつめた。


「私のことを思ってくれるのなら、キスしてください。私と付き合ってください」


 急な告白に言葉が詰まった。

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