第19話 人を不幸にする怪物

 五十嵐は下絵を描くこともなく、さっそく筆で彩っていく。


 真剣な目つきは凛々しくて美しい。背筋をまっすぐ伸ばしていて、風が吹くたびに絹のような黒髪が浮き上がってきらめいた。見惚れてぼうっとしてしまいそうになるから、誘惑に抗うために全身に軽く力を込める。集中してキャンバスをみつめた。


 私の目に映る世界と五十嵐の目に映る世界。その違いを少しでもとらえたいのだ。私にはもう追いかけることのできる夢なんてないけれど、それでも美しい絵を描きたいという気持ちはまだある。


「なんだかデートじゃないみたいですね」


 五十嵐は流し目で微笑んだ。私は肩をすくめながらキャンバスをみつめる。


「でも今の凛とした五十嵐も好きだよ」

「普段の私と今の私、どっちの方が好きですか?」


 筆を躍らせながら問いかけてくる。そんなの考えるまでもない。 


「どっちも好きだよ。自分が望むままの自分でいればいい。私が一番好きなのはありのままの五十嵐なんだから」


 五十嵐が五十嵐であるかぎり、嫌いになることなんてきっとない。世界の全てから嫌われたとしても最後まで味方でいる自信がある。


「……ありのままの私。あの、牧野さんは今も画家になりたいんですか?」

「なれるならね。小学生のころからずっと夢見てたんだから」


 でも純粋な画家として生きていける人たちは、正真正銘の化け物ぞろいだ。私のような凡人には難しい。


「だったらたくさん私から学んでくださいね。応援してます」

「……うん。頑張るね」


 別になるつもりではないんだけどな。あくまで今の絵画は趣味みたいなもので。でもそれを口にするのは水をさすみたいで嫌だった。


 心地よい風が頬を撫でていく。沈黙の中、五十嵐は憑りつかれたみたいな集中力で世界を描き上げる。その瞳に映る世界を、天才的な感性というフィルターを通して認識する。キャンバスの上に踊る筆の表現力は圧倒的な努力のたまものだ。


 空に浮かぶ太陽。きらめく街と橙に色づく山、そしてどこまでも広がる青い海。現実の景色を写し取っただけでも、これほどまでに美しくなるのだ。


 もしも五十嵐がその頭の中の理想を表現したのなら、いったいどうなってしまうのだろう? 見てみたいと思うのと同時に心底恐ろしくもある。


 やがて五十嵐は筆を置いてぐっと体を伸ばした。天才画家が消えて17歳の可愛い女の子が戻って来る。

 

「んーっ。これで完成です。なにか掴めましたか?」

「五十嵐の感性がちょっとだけ。本当にちょっとだけど分かった気がする」


 私は丁寧に木炭でキャンバスに下絵を描いていく。その間も五十嵐の繊細な筆先は脳裏にこびりついていて忘れられない。下絵を描き終えるとすぐに筆をとる。


 大きく深呼吸をしてから筆を動かす。凡人の筆はぎこちなく、描かれるものも相変わらず凡庸だ。比べることすらもおこがましい。


 それでも微笑みながら絵を描いてゆく。かつての私からは想像もできない。挫折間際の私からは絵を描くことの楽しさは薄れていた。絵画を完成させたって達成感よりは苦しみを感じることが多くなっていた。


 でも今は絵画が完成した瞬間に、例えようのない高揚感で体が満たされていくのだ。彩られたキャンバスをみつめて、口元を緩める。


 乗り越えるべき天才はいない。プロを目指すわけでもないのだから、ストイックに自分の内面に向き合い続ける必要もない。


 かつての私が大荒れの夏の海ならば、まるで凪いだ秋の海のような芸術。


 恋焦がれるような情熱を絵にぶつけることはもうできないけど、これもまた表現者としての一つの正しい在り方なのだと思う。隣に座る五十嵐の手を握りしめて、心からの気持ちを伝えた。


「ありがとう。また絵を描けるようになったのは五十嵐のおかげだよ」


 でも五十嵐は作り笑いを浮かべて、首を横に振る。


「違いますよ。私のおかげじゃないです。牧野さんが頑張ったからです。そもそも私には感謝してもらえる筋合いなんてないですから。私からはたくさん牧野さんに感謝したいですけどね」


 自分の才能は人を呪うものである。そのスタンスを崩すつもりはないらしい。


「それでも感謝してるよ」

「……ありがとうございます」


 心からの言葉だというのに、五十嵐は目をそらす。不幸にならなければ救われない。感謝なんて受け入れる資格なんてない。なんて考えがぎこちない微笑みから透けてみえる。五十嵐は嫉妬され、憎しまれる。そんな人生を送ってきたのだ。


 五十嵐の手にそっと手を重ねてつぶやく。


「……一つ相談してもいい?」

「いいですよ。なんでも話してください」


 笑顔で頷く五十嵐のお腹から、ケルベロスみたいな唸り声が聞こえてきた。緊張していた心身が一気に弛緩する。思わず口元を緩めると、五十嵐はその綺麗な黒髪を撫でながら、恥ずかしそうに縮こまってしまった。


「お腹すいたんだね。ご飯食べながら話そう」


 画材を片付けてから、持ってきたお弁当を東屋の下の机に広げる。五十嵐の根源的な苦しみについて言葉を交わすのは不安だ。けど一人で抱えさせるわけにはいかないのだ。

 

 幸せそうに唐揚げを頬張る五十嵐に私は問いかけた。


「私と一緒に過ごしてて楽しい?」

「楽しいですよ。唐揚げは美味しいですし、牧野さんは優しい。私のためにデートだってしてくれます。たくさん助けてくれるし、心を折ろうとしてもくれる。そのために絵だって描いてくれてます。申し訳ないくらいですよ」


 五十嵐は肩をすくめて控えめな笑みを浮かべた。


「画家として心を折られる。私がこれまでみんなにしてきたことです。私もみんなと同じように苦しみたい。不幸になりたい。……そういう気持ちもありますけどね」


 酷いことを言うものだから、つい食い気味になる。


「そんなこと言わないで。お父さんはだめだったかもだけど、身近にはそうじゃない人もいるんじゃないの? お母さんとか、おばあちゃんとかおじいちゃんとか。……五十嵐の幸せを願ってる人もいるよ」


 私は温かな家族しか知らない。みんな温厚で優しい人ばかりで、五十嵐のお父さんみたいな人を身内で見たことがない。でも五十嵐の家だってそんな人ばかりではないはずだ。


 でも五十嵐は背筋が凍るほどに冷たい微笑みを浮かべた。


「そんなの、牧野さんだけですよ」

「……なんで。画家なら嫉妬してもおかしくない。でもそうじゃないのなら……」

「私の家系はみんな画家です。おじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんも」


 嫌な想像をしてしまう。でもいくらなんでも、みんながみんな五十嵐に嫉妬しているわけではないはずだ。だって子や孫が素晴らしい才能をもっているのなら、例え他人に憎まれようとも味方でいてあげる。それが家族というもので……。


 でも五十嵐は、ぽつりぽつりと雨が降るみたいにささやいた。


「話してませんでしたっけ。お母さん、自殺したんです」

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