第36話 自己否定の螺旋
「絵を描く時間が削られて、とても辛かったみたいですよ。引っ張りだこなせいで番組の収録とかが頻繁にあって。ここ五年間はずっと学生に戻りたいとばかり思っていたみたいです。あなたとライバルでいられたあの頃に」
天宮の思いの強さは今日知った。でもまさかそれほどまでに自分を犠牲にしていたなんて。胸が痛くなる。五十嵐が私に覆いかぶさるのをやめてすぐ隣に腰かけるから、私も体を起こして五十嵐の声に耳を傾ける。
「追い詰められていたみたいで。最近は絵も描けなくなってるみたいです」
「……えっ?」
言葉を理解するまで時間がかかった。あの絵を描くためだけに生まれてきたような女が? 信じられない。信じたくない。
「自分を偽って芸能活動にばかり取り組んで、表現したいものが分からなくなってしまったみたいで。……でも牧野さんには絶対に伝えないで欲しいって笑ってました」
「……あいつ」
拳を握り締めていた。私のためにそこまで自分を犠牲にするのは違う。私に与えるために自分の翼をもぎ取ってしまってどうするんだよ。
「それでもあの人は牧野さんを諦めるつもりはなかったみたいですよ。画家としての道も永遠に閉ざす覚悟で、牧野さんをまた羽ばたかせるために頑張ってたんです」
なんだか泣いてしまいそうになる。嬉しいけど悲しくて。全ての元凶は私なのだ。私が心を折られなければ天宮は何にも縛られずに自由に羽ばたけていたはずなのだ。
もう逃げるわけにはいかない。傷だらけになってでも救おうとしてくれた天宮のために、私も全てを賭けなければならない。またかつてのような輝かしい毎日を一緒に過ごしたいんだよ。ひたむきに絵だけに向き合える幸せな毎日を。
正月の番組の大舞台で絵を描いて終わり、なんてのはだめだ。これから先の人生は絵で生きていかなければならない。夢を叶えるためにも、天宮を救うためにもだ。
「……やっぱり牧野さんに相応しいのは天宮さんなんじゃないですか?」
うつむいた五十嵐の横顔は髪で隠れていてみえない。ふさぎ込んでしまうのも分かる。天宮はもしかすると、この世界で一番私を大切に思っているのかもしれない。
私だって今はあいつのことを大切に思ってる。けどそれは五十嵐が自己否定する理由にはならない。天宮は代わりのいない親友だけど、五十嵐もまたかけがえのない恋人なのだ。
「急にえっちになったのはそのせいだったんだね」
「……関係を持ってしまえば、牧野さんの性格的に不義理は通せなくなる。そう思ったんです。もちろんえっちなことをしたい気持ちもたくさんありますよ? ……でも私たちはまだ出会って三日。付き合ったばかりです。本心では早すぎるって思ってます」
五十嵐は顔をあげて、自己嫌悪をむき出しにするみたいに、苦々しく笑う。
「こんなこと口にしちゃったら、嘘をつかせてしまうのは分かってるんです。でも私には牧野さんしかいないんです。私が生きてるのは、牧野さんのためだけなんです。牧野さんがいなくなるかもしれないのは、……怖いです」
「いなくなんてならないよ」
「でも天宮さんも綺麗じゃないですか。胸も大きくてスタイルが良くて顔だって整ってます。月日の積み重ねもある。思いの強さだって私では勝てない。……だから、私とえっちして欲しいんです。私たちだけの何かが欲しいんです」
少し前までの私は五十嵐に相応しくないからって卑下していた。でも今は天宮のおかげでまた夢に向き合う覚悟を固めることができた。いつか五十嵐に相応しい人になるんだって頑張ろうとする自分を、少しは肯定できている。
でも考えてみれば五十嵐は、周りの人に見捨てられてばかりなのだ。お父さんにもお母さんにもおじいちゃんにもおばあちゃんにも。だから死を考える程度には追い詰められていた。そんな状況で同じく孤独な私に出会った。
唯一頼れる相手である私に、凄まじく強い思いをぶつけてくる天宮が現れたのだ。強大なライバルだと感じているのだろう。私たちには恋愛感情なんてないのに、五十嵐は私が天宮を選んで見捨てられることを恐れている。
五十嵐は裏切られすぎた。今ではもう誰一人として信じられないのだ。どれほど優しくされようとも、愛の言葉を伝えてもらっても、……恐らくは肉体関係を持っても。
「……えっちしたら安心できるの?」
「ましにはなると思います」
寂しそうな作り笑いに耳鳴りがした。本当に、最悪の気分だった。
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