第35話 三日と五年
「お、襲うわけないでしょっ!?」
胸がドキドキして全身が熱い。滅茶苦茶に襲って欲しいって、いきなり何を言い出すんだこの子は。橋の上を吹く風は冷たいはずなのに、体は熱される一方だった。
見つめ合うのに耐えきれず背中を向けると、すぐに正面に回り込んできて不機嫌そうにジト目でみつめてくる。
「……年下の私が勇気出したのに、牧野さんはまたそうやって逃げるんですね。絵に向き合うことを決めたのなら、性欲にも向き合うべきですよ」
「絵と性欲は別物でしょっ! そもそも私の欲で五十嵐を汚したくない。もしも一度手を出せば薄汚れた目でしか見れなくなる。そんなの嫌なんだよ。五十嵐はきっとこの世界の誰よりも綺麗だから」
性欲も芸術なのかもしれない。でも私は少女漫画を嗜むような大人なのだ。五十嵐の美しさを純粋に楽しめなくなる。邪な気持ちを隠せなくなる。そんなのは嫌だ。
「なるほど。つまり私が牧野さんの体をあれこれするのは自由なんですね」
五十嵐の視線が腰や胸を舐めた。触れられたわけでもないのに、こそばゆくなる。見た目の純粋さとは対極の妖艶な雰囲気に体の芯がぞくぞくした。って違うっ! 私は絶対に流されない。五十嵐とはそんな、えっちなことはしない。
ベッドの中でなし崩し的にそういうことになったら、どうしようもなかったかもしれない。でも冷静に考えれば出会って三日でそういうことするのはおかしいのだ。
「私は五十嵐を大切にしたいの」
「私も牧野さんをベッドで大切に愛してあげたいです」
「そ、そういうことじゃなくって。……とにかくっ、外でこんな話しないで」
「だったらすぐに帰りましょう」
息が荒い。熱を帯びた瞳が私を射抜いている。わけわからないよ。最初の清純な五十嵐はどこにいったんだよっ! まさか五十嵐がこんなにえっちな子だったなんて。試着室で薄々察してはいたけれど……。
ぐいぐい手を引っ張られるままにマンションに向かう。自分の家に帰ろうとしているだけなはずなのに、どうしてかお持ち帰りされているみたいな気分になる。五十嵐は恥ずかしくないの? 肩をすくめながら後姿をみつめると、耳が真っ赤になっていた。
鍵を開けて扉を開く。二人で手を繋いだままリビングに入る。
「お腹もすきましたけど、まずは牧野さんを食べたいです」
相変わらず五十嵐の顔は真っ赤だ。なのにベッドに腰かけて誘うみたいに微笑む。
「恥ずかしいんでしょ? なんでここまで……。もしかしてまだ私を疑ってるの? 私、本気で五十嵐のこと好きだよ? 情けない所見せちゃったわけだから信じられないかもしれないけど、絶対に離れない。ずっとそばにいるつもりだよ」
「……天宮さんの思いを知った今でもですか?」
なんで天宮の名前が? 首をかしげていると、突然手を引っ張られた。体が倒れて、ベッドの上で五十嵐に覆いかぶさるような形になってしまう。天使みたいな顔がすぐ近くにあって、熱い吐息が吹きかかって来る。お互いの呼吸だけが部屋には響いていた。
慌てて飛びのこうとするけれど、背中に手を回されてむしろ抱き寄せられる。器用に回転して立ち位置を入れ替えられて、気付けば私がベッドの上で五十嵐に見下ろされていた。
「……だめだよ」
見つめることもできず、影の下で視線をそらす。すぐそばからごくりとつばを飲む音が聞こえた。手のひらが優しく胸に触れる。
誰かに触れられるなんて初めてで、心臓が壊れてしまいそうだった。
「……五年もかけて牧野さんを救おうとしたんです。本当に友情だけなんですか」
仄暗い炎を声の向こうにみた。五十嵐の行動は好意だけで説明するにはあまりにも突飛だった。けれどその理由の一端がつかめたような気がする。
「本当に私でいいんですか。……出会ってたったの三日の私で」
胸に触れた手が離れていく。私の顔にかかった髪を、指先ではらう。
「話を聞いたんですよ。天宮さんのあなたへの感情はとても重いです。テレビで嘘の自分を演出するのは、画家としてありのままを表現するのとは正反対じゃないですか。あの人は牧野さんのために必死で頑張ったんです」
頬に触れようとして、指先が迷う。自分を蔑むみたいな笑みを浮かべていた。
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