第33話 暗闇を照らす光

「幸せな未来を約束してくれたじゃないですか。牧野さんの嘘つき。ひどすぎます」


 震える声に顔をあげると、五十嵐もぼろぼろと涙を流していた。


「私はこんなに牧野さんのこと願ってるのに、それでも諦めちゃうんですか?」


 自分がどうしようもないくらい嫌いだ。今だって五十嵐を悲しませている。夢も叶えられず変わろうともせず淀んだ水の中で窒息しそうになって、挙句の果てには八つ当たり。信じられない。諦められるのなら諦めたいよ。なにもかも。


「……でも五十嵐は許してくれないんでしょ?」

「許すわけないです。私の自殺を止めておいて、一人だけ死ぬとか絶対許さないです。無責任ですよ。世の中は悪いものじゃないんでしょう? だったらまた笑ってみせてくださいよ。また立ち上がってくださいよっ!」


 おでことおでこが触れ合って、間近から五十嵐の瞳が覗き込んでくる。きっと天宮から詳しい事情を聞いたのだろう。あれだけ大々的に未練を叫んで追及されないわけがない。


「心を折ってくれるんじゃなかったんですか? 私を孤独から救ってくれるんじゃなかったんですかっ? 才能なんて呪いは存在しないんだって証明してくださいよ。狂人みたいな努力さえあれば乗り越えられるんだって……」


 好きな人にこんな顔されたら、無視なんてできない。今の私にとって夢はトラウマ。自己嫌悪の塊な私を突き動かすものは、五十嵐や幼い私への贖罪だけだ。頷けば地獄のような毎日が戻って来るんだって分かってる。


 才能がないと自覚しながら身の丈に合わない夢を抱いて。重すぎるんだよ。だから溺れて死んでいく。でもそれが五十嵐の願いだというのなら、……私のような終わった人間の死に物狂いの自傷で救われるというのなら。


 例えまた粉々に砕けてしまうのだとしても、止まるわけにはいかないのだろう。まるで呪いみたいだ。今すぐにでも死んでしまいたい衝動に襲われる。もう戦いたくなんてない。逃げたいんだ。全てから。でも。


「……それが、五十嵐の望みなら」


 自嘲的に笑って五十嵐から離れる。冷たい欄干に寄りかかって、真っ暗な水面を見下ろす。主人と下僕ってのはあながち的外れでもない。主人のためなら下僕は傷だらけにならなければならない。才能がないのだから当然だ。


 価値があるのは五十嵐のような天才たち。使ってもらえるだけ幸せに思うべきなのだろう。……なんて自虐ばかりな自分に反吐が出る。昔の私はどうだった? ただひたむきに可能性を信じていた。本当にこのままでいいの? 幼い私の幻影が問いかけてくる。


「瑞希さんはどうしたいんですか。考えてください」


 両手で包み込むように私の手を握る。怖くて目を向けることはできなかった。うつむいたまま、時間が止まったみたいに滑らかな川面をみつめる。


「……また昔みたいになりたいに決まってるよ。でもあのがむしゃらな努力は、強い信念が折れたときの反動を知らないからだった。色々なことを知り過ぎたんだよ。私はもう夢なんて目指せない」

「そうですか。分かりました」


 五十嵐はどこか嬉しそうな声で横から私に抱き着いてきた。予想外の反応だから思わず目を向ける。涙を流しながらも、幸せそうな笑みを浮かべていた。矛盾する表情に心が締め付けられる。


「だったら私も、もうお父さんには向き合いません。絵だって諦めます。二人で一緒に嫌なことから逃げてしまいましょうよ。完璧な幸せじゃないかもしれませんけど、それでも幸せは幸せです」


 結局私は五十嵐を自分と同じ場所に堕としてしまうのか。もう否定する気力も湧かない。暗い夜のような幸せが私たちには相応しいのかもしれない。


 五十嵐にはお父さんと仲直りして欲しかった。絵だってやめて欲しくはなかった。けど五十嵐本人はその両方から逃げ出すことを望んでいたのだ。私も夢から目を背けている。


 対極なのに、私たちはどこまでも似ていた。


 そっと五十嵐を抱きしめ返す。寂しいけど辛いけど、冷たいけど。それでも幸せで。もう完全に私の人生は余生になってしまったのだなと思う。


 夢のためだけに生きた人生だった。それが完全に失われるのなら、物語のエンディングの後みたいな平坦な毎日が続くだけ。


 でも、それも悪くはない。五十嵐を強く抱きしめて、嗚咽を漏らす。頭を優しく撫でてくれるから、なおさら涙は止まりそうにはない。


 人生の墓場にたどり着いたのだ。五十嵐のまばゆさも諦めて、子供の頃の夢だって捨てて、二人で余生を生きていく。


 また不意に幼い私が問いかけてくる。「本当にそれでいいの?」と。大人になった私は「これでいいんだよ」って必死で言い聞かせる。幼い私は不服そうに頬を膨らませて消えようとしていた。寂しいけど、これでようやく楽になれるのだ。


 でもそれを望まない人が、まだ一人だけいた。


「諦めるなんて絶対に許さないからっ!」


 寒い空気を貫いて鼓膜を揺らす声に目を見開く。五十嵐の肩越しに天宮がみえた。涙を流しながらも私を睨みつけていた。五十嵐から体を離して唇をかみしめる。


「五年越しの挑戦状だよ。正月の番組の話、覚えてるでしょ。全国から挑戦者を募集してライブペインティングで対決するんだって。断ったら許さないから。受け入れるまで付きまとうから!」


 大きく身振り手振りしながら歩いてくる。退くつもりはないのだとでも言わんばかりに、私の手首を力強く握りしめた。うるんだ瞳の眼光は恐怖すらも感じるほどに鋭くて、こんな天宮をみたのは人生で初めてだった。


「知らないのなら教えてあげるよ。絵ばかり描いてた私が院にも進まず芸能人になったのは、もう一度瑞希を羽ばたかせるため。瑞希に私の知名度を利用させて、踏み台にさせて絵だけで生きていけるようにする。それが私の目的。この五年間は全部瑞希のためなんだよ。私、今だって瑞希のこと、本気で親友だって思ってるから!」


 思わず声を失った。信じられなかったし信じたくもなかった。でも言葉も表情もどこまでも正直で、嘘なんかじゃないってすぐに分かってしまう。テレビの向こう側の人に媚びたような笑顔は自分の成功のためではなくて、全て私のためだった。


 天宮は色々なものに縛られた私とは正反対に、自由に生きているはずだった。天宮ほど自由を愛している人間を私は知らなかった。かつての私も天宮の同類だった。けれどいつしかついていけなくなった。


 そのせいで天宮は私のために、自分自身から自由を奪うことを選んだ。認めたくはないけれど思い返すほどに天宮の発言には筋が通る。はっきりとまた絵を描いて欲しい、なんて伝えてくれることはほとんどなかった。でもそういうそぶりをみせることは多々あった。


 きっと、自分の「はじまりの群青」が私の心を折ったのだという罪悪感ゆえなのだろう。だからこそひそかに画策していたのだ。私にも秘密で誰にも話すことなくたった一人で、孤独に。諦めてしまった私を、また立ち上がらせるためだけに五年間も。


 涙が溢れ出してくる。理解できない。訳が分からない。天宮ほどの天才が、どうして。私はずっと天宮を憎んでいたのに、なんで私みたいな凡人を天宮は大切に思ってくれるの? 


「瑞希から夢を奪ったのが私なら返してあげる責任がある。そのためなら手段はいとわない。プロデューサーに直談判だってするし仕事を放棄するって脅してでも瑞希を出演させる。信用とか好感度とか関係ないよ。十五年も付き合ってきたんだから私のこと分かってるでしょ? 私は私の願いのためなら。瑞希とまた親友に戻るためなら何だってする。十五年のつながり、こんなに簡単に断ち切れるなんて思わないで!」


 天宮はやると言ったらやるのだ。例えそれが自分の身を滅ぼすとしても、今の天宮には退くなんて選択肢はないのだろう。


「その子と二人で落ちていくだけで救われるのなら、私はそれでもいいって思ってる。けどそうじゃないはずだよ。翼をもいでしまったのが私なら、また翼を与えるのも私。受け入れて欲しい。普通の幸せはこの先にはないのかもしれない。でも私たちに普通は相応しくない。そうでしょ? だって私たちは芸術家なんだから」


 唇をかみしめた歪な笑顔で、握手を求めるみたいに腕を差し出してくる。


 五十嵐に目を向けると、心から嬉しそうに泣きながら笑っていた。その瞬間、迷いは完全に消えてしまう。幼いころの私がもう一度現れて、今度は笑顔で問いかけてくる。「本当にそれでいいの?」と。大人の私はため息交じりに答える。「今はこれでいいんだよ」と。


 前に進むのは怖い。また挫折してしまうかもしれないのだ。ましてや今の私は学生時代とは違う。心は擦り切れて、感性も荒んでしまっている。みずみずしい若さもない。


 でもそれでも絵を描くことは楽しいのだ。楽しいからこそ、かつての私はキャンバスの向こうに夢をみた。夢を叶えられない未来なんて考えずに、闇雲に絵を描き続けた。


 そんな私から楽しさを奪ったのは、自分の可能性に見切りを付けた自分自身だった。才能がない自分を一番嫌っているのは、私だった。だからこそ、誰かに私自身を信じさせてもらいたかった。


 自覚なんてしていなかった。でもずっと願っていたのだ。天宮は五年もかけて、私に信じさせようとしてくれた。五十嵐だって泣いてしまうほどに、私がまた立ち上がることを望んでくれている。

 

 それなら今度は私がこの手で、価値の証明をするのだ。才能をもたずして生まれ、身の丈に合わない夢を抱いてしまった私は、決して無価値なんかじゃない。自分も世界の全てすらも射抜いてみせる。私はここにいるんだよ。

 

 芸術家としての私は、確かにここに。


「分かったよ。またあんたに付き合ってあげる」


 一生をかけて、心の底から叫び声をあげるのだ。キャンバスに筆を走らせ、魂を削り世界を描き出す。例え、その先に待つのが途方もない挫折だとしてもそれでも目をそらすつもりはない。


 もう、逃げたくはないんだよ。こんなに私を願ってくれる人がいるのだから。


 涙をぬぐいながら笑顔で手を伸ばすと、固く握りしめられる。天宮が浮かべたのは、何者にも囚われていなかった学生時代を彷彿とさせる満面の笑みだった。


 意志を固めたのなら目的が達せられるまで決して折れない。光の届かない陰ですら強引に照らしてしまう、そんな太陽みたいな女。それが天宮の本質だった。私は天宮という人間を完璧には理解できていなかったのだ。


「……ありがとう。また信じさせてくれて」


 感謝の言葉と共に強く天宮を抱擁した。

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