第32話 逃げる凡人と追う天才
白い息がガラスの壁を曇らせる。涙はもう止んでいた。なんてことはない。また同じ毎日を繰り返すだけなのだ。家と会社を行き来して、興味もない飲み会や合コンに足を運ぶ。五年も耐えてきたのだ。大丈夫だ。
たまには五十嵐と出会った橋で自殺願望に襲われるかもしれないけれど、夢を応援してくれた献身的な両親のためにも死ねない。天宮と五十嵐は私を嫌いになっただろうけど、それでも私を大切に思ってくれる人はいるのだ。
屋上は寒い。手をこすり合わせながら自動ドアを抜けて、エスカレーターで下る。人混みの中を抜けて、立体駐車場に戻る。五十嵐は家に帰れるだろうか。大丈夫か。天宮がそばにいるんだから。
天宮はいい奴だ。五十嵐が苦しんでいれば助けてくれるはずだ。それも私なんかよりもずっと上手く。車のエンジンをかけて、冷たいハンドルを握る。助手席に目を向けるけれど、もう誰もいない。
街中ですれ違ったって、二度と言葉を交わすことはないのだろう。私の人生と五十嵐たちの人生は決して交わらない。努力も情熱も無意味で結局は才能が全てなのだ。
薄暗い立体駐車場で車を走らせる。すぐに聞き覚えのある声が聞こえてきた。五十嵐は私を嫌っているはずなのだ。だからこの声は私が都合よく生み出した幻聴に過ぎない。
「牧野さんっ! 牧野さん!」
なのにどうしてバックミラーには五十嵐が映っているのだろう。涙で顔をくしゃくしゃにして私を追いかけてきている。相変わらず意味不明だ。目頭が熱くなるからラジオの音を最大にする。
追いつけないと悟ったのか、五十嵐は道路の真ん中に立ち尽くした。
「牧野さんの絵、故郷の絵、私は大好きですからっ!」
ラジオ越しにすら聞こえてきた叫び声に耳を疑う。あんな絵のなにがいいんだよ。嘘つくなよ。今すぐにでも戻って文句を言いたい気分だった。でももう戻らない。
五十嵐と過ごした時間はたったの三日間だった。けどこれまでの人生を合わせても勝てないくらいに、幸せな時間だった。それを失ってしまった私がどうなるかなんて、今は気付いて欲しくない。
両親には申し訳ないけど、私はもうだめみたいだ。立体駐車場を出て暗い夜道を走る。五十嵐の姿が消えた瞬間に涙が溢れ出してくる。嗚咽も止まってくれそうになかった。本当はずっと五十嵐のそばにいたいのだ。
きっと五十嵐だって同じなんだろう。もしもこれから私がすることを知ってしまえば、絵だってお父さんのことだって全て諦めて、私と一緒に堕ちてしまうに違いないのだ。
私は自分のことが大嫌いで、人の好意なんて信じられなかった。
けど五十嵐は私に信じさせてくれたんだよ。慣れない壁ドンをしてくれて、腕を組んだり恋人つなぎだってしてくれて。抱きしめてくれて膝枕もしてくれて。試着室でのあれは本当に凄かった。死ぬまで忘れられそうにない。
でももう、限界なんだよ。どうしようもないくらいに自分が嫌いなんだ。ろくでなしなのに、生きていてもいいなんて思えない。人を傷付けることしかできないんだから、大切な人たちだって幸せにできないんだから死んだほうがいい。
夢にも向き合えない。天宮も五十嵐も傷つけた。
死んだほうがましなくらいに辛いのに、生きてる意味が分かんないんだよ。
でも最期、余生みたいな人生の終わりに、五十嵐と恋ができて幸せだった。一つ心残りがあるとすればそれは……。そこまで考えて首を横に振る。五十嵐のファーストキスは私のものじゃない。それは流石に求めすぎというものだ。
車を運転していると涙は止んだ。ラジオから流れていたのはかの有名な音楽家の最後の作品、「レクイエム」だった。五十嵐と二人でみた映画を思い出して、因果なものだと笑いながらマンションの駐車場に車を止める。
そのまま歩いていつもの橋に向かう。川の河口付近に架けられた橋だ。
もう生きていけるほど自分を大切には思えない。でも五十嵐を悲しませたくはないから、気休めでしかないけれどせめて最期は笑って死のうと思う。だけど水死体って醜くなっちゃうんだっけ。ちょっとだけ嫌だな、なんて欄干に寄りかかりながら思う。
『牧野さんの絵、故郷の絵、私は大好きですからっ!』
不意に五十嵐の声が蘇るから、小さく笑う。
「……私じゃなくて絵なのかよ」
お世辞だとしても嬉しいのだ。
かつて人生の全てをかけて向き合った絵を褒めてもらえたのだから。
「……そろそろ終わらせないと」
凍えるような風が背中から吹き付けてくる。見下ろした川面はいつも通り墨みたいに真っ黒だった。靴を脱ぐだけで体が震える。恐怖に負けてしまいそうだった。
でも私は私が大嫌いなのだ。親友に憎しみをぶちまけて、信じてくれた五十嵐のことだって裏切った。誰かに好いてもらう資格なんて、これっぽっちもない。
強張る口元を無理やりに歪ませて、欄干に足をかける。誰も幸せにできない人生だった。夢だって叶えられない人生だった。それでも五十嵐に会えただけで、そんなに悪くなかったと思えてしまう。
どれだけ五十嵐のことが好きなんだよ、なんて考えて自然と口元が緩む。静かに目を閉じると、脳裏に浮かぶのは五十嵐と一緒に歩む笑顔の絶えない人生だった。幸せな夢と一緒に死なせてくれるのか。神様もたまには粋なことをしてくれる。
重心を傾けようとしたその時、凍えるような空気の中を澄んだ声が響いてきた。
「牧野さんが思うほど、世の中悪くないですよっ!」
その声の正体が誰かなんて分かってる。足を下ろして声の方を振り向くと、五十嵐が息を切らせながら、白い息を吐きながら私をみつめていた。
遠くには走り去っていくタクシーがみえた。手には私の財布が握られている。お金を払った後、そのまま衣服の袋に放り込んでいたのを思い出す。
「もしも牧野さんがいなくなるのなら、私だってすぐに後を追いますからっ!」
たった三日の相手にどうしてそこまで。けどよくよく考えてみれば私だって似たようなものなのだ。五十嵐は今にも泣きそうな顔で真っすぐに歩いてきた。そのままの勢いで私の唇を奪う。あまりに突然で理解が追い付かなかった。
「……こんなのがファーストキスなんて最悪ですよ。本当にっ」
強引に胸元に抱き寄せられた。優しい温もりに包まれる。
涙が溢れ出して止まらなくなった。
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