フォールダウン

第31話 心の暗闇

 エスカレーターに乗って屋上にたどり着く。寒い夜空には月が浮かんでいて、端を囲う透明なガラス壁の向こうにはイルミネーションがまぶしく輝いていた。


 豪華絢爛な城壁みたいな輝きが夜の街を貫くように伸びていく。巨大な門の形をした光のアーチの下をたくさんの人影が進んでいるのがみえた。さっきまでここにいた人たちもあそこに向かったのだろう。屋上に人はあまりいない。


 ガラスの壁に両手をついて、うなだれる。


 遠くには月の光で輝く海がみえた。唇を噛みしめる。


 きっかけなんて些細なものだった。漁師町だからこそ当たり前に感じていた海。それが存在しない国があるんだって、小学校の授業で知った。その日の帰り道の見慣れた海は、いつもの何倍も輝かしいものにみえた。


 衝動に突き動かされて、学校の絵具セットで絵を描いた。興味なんてなかったのに、魅入られてしまったみたいに毎日毎日絵を描き続けた。気付けば小学校で一番絵が上手くなっていた。人に褒められるのは嬉しかった。


 けど私が求めているのは賞賛ではないと思った。満たされないような感覚に漠然と付きまとわれていたのだ。その正体をようやく理解したのは、小学六年生の冬の日だった。


 雪の降る冬は視界が悪いから、漁師のお父さんは休業期間に入っていた。私も冬休みだから毎日のように雪景色の海を家の二階から描いていた。きっと退屈していないか心配してくれたのだろう。「美術館に行かないか」とお父さんが声をかけてくれたのだ。


 絵を描くことは好きだった。でも芸術なんてものはさっぱり分からなかった。テレビで歴史に名を残した天才の絵をみても、私の方がずっと上手いと思うことすらあった。


 だからその誘いに乗ってあげたのは、たまには親孝行してやるか、なんていう生意気な理由だった。お父さんは車で一時間くらいかけて都市部の美術館まで連れて行ってくれた。もっともそれは美術館ではなくて、本当のところは展覧会だったんだけど。


 でもとにかく、私にとってはまごうことない劇薬だった。


 なにせテーマが海だったのだ。

 

 子供らしい万能感が徹底的に打ち砕かれると同時に、パズルのピースがはまるような感覚を覚えた。将来の夢をテーマに作文を書いてください、と言われれば「なにもないです」と一言で終わらせようとする。そんな生意気な子供だったのに。


 あの日から、私は人生を絵画に乗っ取られてしまった。小学校の卒業文集では画家になるという夢を暑苦しいほどに語った。中学に入っても変わらず、高校に入っても。予備校に通うようになっても、ひたむきに前だけみていた。


 このためだけに生まれたのだとすら思った。美大や芸大を目指すだけあって予備校の生徒達は曲者ぞろいだった。私に才能がないことを一目で見抜いて、諦めるように促してくるような人もいた。そのたびに寝る間も惜しんで人一倍の努力を重ねた。いつか吠え面かかせてやるんだって逆境すらも糧にした。


 気付けば私は天宮を除く予備校の誰よりも、人の心を動かせる絵を描けるようになっていた。芸術というのは情熱の強さが影響してくるものなのだ。技術が拙ければすべては伝わらない。けれど技量を高めていけばいくほど、劣った才能だって全力で情熱をぶつければ秀才たちに肉薄できる。


 二十倍近い倍率を乗り越えて、私と天宮は藝大に入学した。奇人変人の巣窟だと聞いていたけれど、本当にその通りだった。才能だってまぶしすぎて、不安になることが何度もあった。それでも夢は消えなかった。あるいは消せなかったのかもしれない。


 日本全国から集まってきた生まれついての画家なのだ。優れた環境だから天宮もますます天才として覚醒しつつあった。高校までとは比べ物にならないほどに美しい絵を描くようになっていた。私では届かないのではないか。悪夢をみることが増えた。


 でも小学生のころからの夢なのだ。私の人生は全て画家という夢のために存在していた。諦めるわけにはいかなかった。もはや妄執にも近かった。


 もしも藝大でなければ。もしも天宮の隣でなければ。


 考えるだけ無駄だけれど、今ではなおさらそう思う。天宮を憎みたくなんてなかった。自分だって嫌いになりたくなかった。これまで愛してきた絵を失いたくはなかった。


 でもついにはその日が訪れた。大学四年の卒業制作を終えたあとだ。私は院に進学することを当然のものと考えていた。天宮だって変わらなかった。私たちは相変わらず絵に向き合っていて、そんな毎日がこれからも続くのだと信じていた。


 でも本当に何でもない日。気を抜かなくても忘れてしまいそうな穏やかな日に、天宮は「はじまりの群青」を描き上げた。口をついて出た言葉は憎しみだった。私は大学院に進むのをやめて、適当な企業に就職した。なんの因果か、海に面した街の企業だった。


 そうしてあっけなく、私の画家としての人生は幕を閉じた。

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