第30話 オールイズロスト

 家出少女を三日もかくまい、その上、天宮からも積極的に隠そうとしたのだ。親愛の情で隠していた不信が、ついにはストレートに表情へと現れる。


「ねぇ、瑞希って大人でしょ? 絵を諦めて平凡な大人として生きることを選んだんでしょ? これがいけないことだってのは分かってるよね? 警察に届けるなりするべきだったって分かってるよね?」

「……」

「ううん。分かってないのか。……昔から瑞希ってそうだったもんね」


 まるで出来の悪い子供に言い聞かせるみたいに笑う。自分の言葉が間違っていないと信じ切っているようだった。女でも男でも未成年を家に泊めるのは、法的なリスクが付きまとう。そんなこと知らないわけがない。


 でも挫折を知らない天宮は自分を疑わない。進む道全てで成功を収めたのだ。


 今や人気タレントで天才画家。絵を描けば描くだけ評価され、かつても私が絵に悩んでいれば的確なアドバイスを与えてくれた。一緒に悩んで真剣に芸術に向き合った仲だけれど、今はもう違う。なのに「親友」だなんて評する。天宮に会うたびに、私は惨めな気持ちにさせられる。


 悪意なんてない笑顔。誰だって虜にしてしまうんだろう。けど昔からそのまぶしさが辛かった。自らの進む道全てを問答無用で正解にしてしまうその生きざまが、どうしようもなく羨ましくて。でも羨ましく思うだけならまだましだったのだ。


 五年前、私は天宮に心を折られた。それからは極力天宮とは接触しないようにしていた。たまに会うだけでも辛かったのだ。天宮という人間を身近に感じるほどに、焼けるような苦しみを味わう。


 私は影の中でしか生きられないから、天宮と自分を対比するたびに焼き殺されてしまう。本当はすぐにでも死んでしまいたかった。でも悲しんでくれるみんなのために死ぬわけにはいかなくて、だからこそ必死で耐えるしかなくて。


 確かに昔は私も「親友」だって思ってたよ。でもまるで地獄のような毎日を過ごしている間に、荒んだ自分もまぶしい天宮も、気付けば全てを嫌いになっていた。


「……分かってるよ」

「だったら彩佳さんは家に帰るべきだって分かってくれるよね?」


 相変わらずの柔らかい笑顔。私の何十倍も幸せな人生を送っているから私なんかにも優しくできるのだ。私は十歳も年下の女の子に縋らないと幸せになれないのに。その幸せだっていつか消えていくものだっていうのに。


 そう考えると、なんだか無性に腹が立ってきた。誰よりも幸せな癖に私の大切なものを奪おうとしているのだ。


 感情をぶちまけたってなんにもいいことなんてない。だからずっと必死で我慢してきたんだ。会社の同僚にも上司にも、……自分にだって。けど五十嵐に出会って私は変わってしまった。心にかけた錠前は五十嵐が解いてしまった。


「彩佳さんのこと、家に帰してくれるよね?」


 天宮の視線が首筋のキスマークを焼く。分かっている癖に奪おうとするのか。ささやかな幸せすらも、許してくれないのか。頭が締め付けられるみたいに痛い。胸の奥でマグマのような感情が爆発する。もう我慢の限界だった。

 

「そんなの言われなくても分かってるよ」


 自分でも驚くくらい低い声だった。大声を出したわけでもないのに、天宮は体をびくりと震わせて目を見開いていた。そりゃそうだ。私が敵意を剥き出しにするなんてここ五年はなかったのだから。

 

「天宮は私のことなんだって思ってるの? 頑張って頑張って社会に適応しようとしてるのにそんな当たり前のこと知らないわけないでしょ? 無意識に見下してるからそんなこと言うんだよ」

「ちが……」

「昔からそうだった。あんたは天才で私は凡人。それが周りからの評価。これのどこが親友なんだよっ! こんなの主人と下僕でしかない!」


 感情の乱れは止まらない。天宮が怯え切ったように肩をすくめているのが、気持ち良くて苦しかった。抑えきれない。これまで散々、才能という暴力で殴られてきたのだ。心に溢れ出してくる黒く淀んだ感情のなすがままに怒鳴りつける。


「ずっとずっと恵まれた人生ばかり送ってきて、何様のつもりで私の前に現れたんだよ。なんでいつだって私の大切なもの奪おうとするんだよっ! あんたはたくさん持ってるんだから、私の終わった人生に首突っ込まないでよ!」

「……私は」

「黙れ。黙れっ……!」


 天宮はただただ悲しそうにするだけだった。散々に見下して軽蔑してくれたのなら、どれほど幸せだっただろうか。でも私たちは中学の頃からのつき合い。今の天宮に悪意なんて微塵もないんだって分かってしまう。


 五十嵐を家に帰そうとするのも私が無駄なリスクを背負わないため。


 だからこそ、なおさら受け入れられない。


 天宮はこの期に及んでまだ私にをしようと企んでいるのだ。もういっそ人間はやめて慈愛の女神にでもなったほうがいい。同じ人間じゃなくなったのなら醜い嫉妬なんてせずに済む。


「……牧野さん」


 怯えたような声が後ろから聞こえてくる。背筋が冷たくなった。もう手遅れなのだと悟った。気付いてしまったはずだ。私はどうしようもない人間で、五十嵐が縋るべき相手じゃない。振り向きもせず震える声で告げる。


「五十嵐は私のこと随分好いてくれてたみたいだけど、これで分かったでしょ。天宮と一緒に帰りなよ。お父さんのとこ。今なら仲直りだってできるかも。心配してくれてるみたいだし」


 私は本質的には五十嵐のお父さんと変わらないのだ。五十嵐を救えたのは五十嵐が辛い境遇だから。才能を打ち消して余りあるほどに恵まれていない。自分と同じだと思ったから優しくできた。ただ、それだけの話。


 恵まれている天宮にはありったけの憎しみをぶつけてしまえるのだ。


 通路を抜けてたった一人で人ごみに紛れた。天宮も五十嵐も二人ともまぶしすぎるんだよ。もう二度と私の視界に入らないで欲しい。身の丈に合わない幸せに恋焦がれたくないんだよ。


 視界が歪む。拭っても拭っても止まってくれない。私と二人の生きる世界は違う。二人のそばにいれば辛くなるだけだって分かってるのに、嫌というほど涙があふれてくる。


 かつての私は天宮という天才にすら立ち向かっていた。まだ子供な私なら例え五十嵐の圧倒的な才能を目にしたって、真っすぐ馬鹿正直に立ち向かえたのだろう。でも大人になるにつれて自分の可能性の限界に気付いてしまった。


「……なのになんで忘れられないんだよ」


 天宮と二人で青春の全てを絵に捧げた記憶。五十嵐と少しずつ心を通わせた記憶。その全てが太陽よりもまぶしく心の中で輝いている。理解できなくて、それでも心は張り裂けてしまいそうなほどに辛くて。


 今すぐにでも叫んでしまいそうなほどに、かつての眩しい人生を求めていた。けどそれがもう叶わない願いだってことは知ってる。私はもう子供ではない。全てを諦めた大人で、もう一度夢をみるには年を取り過ぎたのだ。

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