第29話 はさみと細い糸

 「……なんで私のこと知ってるんですか?」 


 五十嵐は状況を掴めていないみたいで、不思議そうに首をかしげていた。


 天宮が非難を込めたような視線を向けてくる。どうして隠したの? とでも言いたげだ。冷や汗が流れる。けどひとまずは五十嵐の警戒心をほぐすことを選んだようで、朗らかな笑顔を浮かべながら帽子と眼鏡を外した。


「私だよ私。知らない?」 


 五十嵐は呼吸も忘れて息をのんでいた。


「……え? もしかして芸能人の天宮花蓮さん……?」 

「画家じゃなくて芸能人かぁ。前にコンクールで会ったでしょ。覚えてない?」

「会いましたけど、やっぱり芸能人って印象の方が強くて」


 天宮は寂しそうな笑みを浮かべて、肩をすくめた。


「そっか。私も随分有名になったもんだ。ねー? 瑞希」


 いつも通り天宮は私に抱き着いてくる。相変わらず犬にじゃれつかれているみたいだ。笑顔ですりすりと頬ずりしてくる。私への疑念はあるのだろうけれど、久しぶりに会えてうれしいという気持ちもあるのだろう。


 いつもなら笑って受け止めてあげるところだけれど、今は強張った笑顔しか返せなかった。抱きしめられたままでいると、天宮は不満げな目を向けてくる。


 いたずらに不信感を与えるのは良くない。いつも通りを偽って、大型犬に対するそれと同じ感覚で抱きしめ返してあげる。


「相変わらず天宮はスキンシップが激しいね。ファンとか大丈夫?」


 テレビでの天宮はおしとやかなキャラだ。ここまで激しいスキンシップをする人だとは誰も知らない。天宮が言うには抱き着くのは私だけらしい。


「大丈夫だよ。みんなには見せないようにしてる。イメージが崩れて悪影響がでると嫌だからね。瑞希の前だけ」


 よほど私が恋しかったのか、なかなか抱きしめるのをやめてくれない。抱きしめ合ったままでいると、つんつんと背中をつつかれる。顔を向けると五十嵐が不愉快そうに顔をしかめていた。


「浮気ですか?」とでも言いたげだ。首を横に振るもぷいとよそを向いてしまった。ついつい違うんだって声をかけたくなる。私が恋愛的な意味で好きなのは五十嵐だけだって。


 けれど、もしも天宮が私と五十嵐との関係を知ったらどう思うだろう。


 天宮は人懐っこい犬みたいだけど常識はあるのだ。27歳の私と17歳の五十嵐が付き合ってる、なんて常識から大きく外れている。伝えるわけにはいかない。


 やがて満足したのか、天宮は私に頬ずりするのをやめた。


「……ふぅ。久しぶりに瑞希成分も摂取したし、これでまた頑張れそうだ」


 満足げに笑う天宮だけど、五十嵐は刺々しさを隠さない声で問いかけてきた。


「二人ってどういう関係ですか」

「友達だよ。ね? 天宮」


 冷や汗を流しながら同意を求めるも、天宮は首を横に振った。五十嵐の視線はますます険しくなる。それどころか今にも泣きそうな顔になってしまっているのだ。


 私たちに恋愛的な関係なんて一切ない。天宮は何を考えているのだろう。焦りながら視線を戻すと、満面の笑みを浮かべていた。


「友達じゃない。親友だよ」

「……え?」


 五十嵐はキツネにつままれたみたいな声を出した。表情からは不安が抜けている。ほっと息を吐いて、胸をなでおろしていた。


「友達と親友って全然違うでしょ。私と瑞希は青春の全てを絵に捧げた同志。戦友って表現もできるかもしれないね」 


 自慢げに胸を張る天宮とは反対に、五十嵐は切なげな笑みを浮かべていた。


「天宮さんは、きっとたくさんの牧野さんを知ってるんでしょうね。私が知らない牧野さんだってたくさん……。羨ましいです」


 その意味深な発言に、天宮はますます訝し気に私をみつめる。五十嵐は私たちの関係を隠すべきものだとは思っていないのかもしれない。


 真摯に向き合うのなら私もそうするべきなのだろう。でも私と五十嵐は対等じゃない。現実には五十嵐の方がずっと優れていて、私たちを繋ぐ糸は簡単に切れてしまうほど細いのだ。誰にもこの糸に触れさせたくなんてない。


「……ねぇ瑞希。さっき電話で話したことなんだけど、今ここで聞いてもいい?」


 もしもお父さんが心配しているのだと知れば、家に帰りたいと思ってしまうかもしれない。それが悪いことじゃないってことは分かってる。大人げないってのもよく分かってる。それでも知って欲しくないのだ。


 黙り込んでいると、天宮は気遣うみたいに笑ってくれた。


「もしもダメなら二人で話そう。瑞希が何かしらの悪意で誤魔化しただなんて思ってない。きっと事情があったんだよね。聞かせてくれないかな?」


 天宮は優しい。五年前、理不尽な憎しみをぶつけてしまった時だって、優しく抱きしめてくれた。でも今の私は天宮とはひどく距離を感じている。


 悪いのは折れた自分だって分かってる。それでももしも天宮に出会わなければ。天宮に心を折られていなければ、なんて思う自分もいるのだ。


「……特別な事情なんてないよ。家に帰りたくないっていうから」

「つまり瑞希は大した理由もないのに、家出した女の子を三日間も家に泊めてたんだ?」


 信じられない、とでも言いたげなため息が聞こえてきた。

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