第26話 いつか終わる時間

 口元にじっとりと湿った息が吹きかかって来る。ごくりと生唾を飲む音が聞こえてきた。まだ幼さを残す顔なのに、瞳には燃え上がるような欲望がたぎっている。恥ずかしくてまともに直視できない。


 五十嵐の熱が近づいてくる。視線をさまよわせながら、狭い試着室で逃げ場を探して後ずさりする。でも出入口は五十嵐の後ろ。間違った方向に逃げたって、冷たい壁にぶつかるだけだ。


「……その、五十嵐。考え直した方が」


 私を壁際まで追いつめた五十嵐は、朝の再現をするみたいに右腕を私の顔の横に突き出した。体を震わせながら五十嵐をみつめる。今は照れなんて少しもなくて、瞳は真っすぐに私を射抜いていた。胸がうるさくて体が熱くて、おかしくなりそうだ。


「考え直しても変わりませんよ。恋って理屈じゃないですよね? 私の理性が及ばないところがそう決めてるんだから、変わるわけないです。牧野さんのことが好きです」

「……そんなに私とキスしたいの?」

「キスもしたいですし、恋人にもなりたいです。牧野さんだって私と付き合いたいんですよね? 膝の上で可愛く微笑んでくれたじゃないですか。対等にならないと付き合えないのなら、全てを捨ててもいいです。絵だって、お父さんとのことだって」


 獲物を前にした獣みたいに息が荒い。普段は現実じゃないみたいに綺麗なのに、好きな人を目の前にしたらこんな風になってしまうんだ。私なんかでこんなに興奮しちゃうんだ。


 正直、凄く嬉しい。けどやっぱり受け入れられない。目をそらして黙り込んでいると、頬に柔らかなものが触れた。それが何なのかは分かっている。顔が燃えるように熱くなる。マシュマロみたいに柔らかなキスが繰り返されて、少しずつ唇に近づいてくる。


 焼かれてしまったみたいに頭が働かない。ただただその瞬間を待つことしか私にはできなかった。ぼんやりと五十嵐をみつめていると、不意に耳元に唇を寄せてきた。本能を刺激するような甘い声でささやいてくる。


「……キスしたくなったら言ってくださいね。無理やりには奪いませんから」


 足元がおぼつかない。体がふわふわと浮いてしまったみたいだ。


 覆いかぶさるみたいな姿勢で、焦らすみたいに唇の近くにキスを落とす。かと思えば不意に私の唇を指先でなぞってくる。目をぎゅっと閉じて必死で耐えようとしても、視界が消えるとますます感覚は鋭敏になってしまう。


 肌を吸い上げられて、リップ音が鳴る。体が小さく跳ねた。


 嫌というほど焦らされて、本能をむき出しにさせられる。五十嵐のキスが欲しい。五十嵐を私のものにしてしまいたい。嘘なんてつけない。10歳も年が離れた女子高生に恋するとかどうなんだとは思う。


 それでも私は五十嵐が好きなのだ。だからこそ迷う。


 五十嵐の言う通り、全てを捨てさせてしまえば私も受け入れられるのだろう。絵を描く才能を奪って、父親とも仲たがいさせたままで、私だけにどこまでも依存させればいいのだ。そうすれば五十嵐は私だけの五十嵐になる。もう二度と離れられなくなる。


 醜悪な関係だ。でもそれはおぞましいほどに理想的なのだ。きっと五十嵐にとっても。嫌なことを全て忘れて、胸焼けするほどに初めての恋に燃え上がれるのだから。


 でも。私は目を伏せたまま五十嵐の髪に触れた。さらさらでつやつやで、触れているだけで申し訳なくなってくる。髪だけでない。全てが美しい。天使みたいに綺麗で、描く絵だって人の心を撃ち抜く。やっぱり五十嵐には醜悪な未来は相応しくない。


 生粋の芸術家だなんていうつもりはない。でも今の私は確かに芸術家で、五十嵐という美しさが、輝きがこの世界から損なわれることを誰よりも恐れている。


 五十嵐には私と同じになって欲しくない。大切なものを諦めて欲しくない。画家になるのを諦めた私みたいに、長い長い人生を余生だなんて思って欲しくないのだ。


「……五十嵐」

「キスして欲しくなりましたか?」


 五十嵐はどこか色っぽい汗を流しながら、火照った顔で微笑んだ。


「違う」


 否定すると五十嵐は間もおかず、首筋に顔を寄せてじっとりと湿った熱い舌を這わせた。知らない感覚に体が震えて湿っぽい声が漏れる。五十嵐の執拗な愛撫に、頭がおかしくなってしまいそうだった。


 それでも私の意志は変わらない。


「私なんかに依存して欲しくない」


 首筋に顔を落とした五十嵐を強く抱きしめる。快楽とも捉えられるような曖昧な痺れが舌が触れるたびに走るから、小さく体が跳ねてしまう。


 五十嵐は恋も知らない女の子だった。壁ドンするだけで照れて動けなくなってしまう女の子なのだ。なのにこんなことをしてしまうくらいには、現実に向き合うことを恐れている。


 当たり前だと思う。お母さんは自殺してしまって、お父さんにだって死を望まれたのだから。でも希望を捨てて欲しくはない。


「辛いとは思う。でもやっぱり五十嵐はお父さんに向き合うべきだよ。絵を描くことにだって。全てを解決して完全無欠な幸せな人生を送って欲しいんだ」

 

 それが私の願いなのだ。五十嵐は私の首元から顔を離して、口元を拭った。じっと私をみつめてくる。不安と期待を足して半分で割ったみたいな顔だった。


「……その幸せな人生に牧野さんはいるんですか?」


 やっぱり自分を信じることはできない。完璧な五十嵐の隣で笑う自分は想像できない。けど今は優しい嘘でもなんでもいいから、五十嵐に明るい未来を夢見て欲しい。


「いるよ。きっと」


 恥ずかしいけど言葉だけでは信じてくれない。微笑んで頬にキスを落とすと、五十嵐は恥ずかしそうに俯いてしまった。


「ほ、ほっぺにキス……」


 もじもじしながら真っ赤な頬を両手で押さえているのだ。さっきまでとのギャップで緊張の糸が切れた。思わず笑ってしまう。


「今さら? 自分がしたこと思い出してみなよ」

 

 五十嵐は顔をあげて、唾液でべたべたな私の首筋をみつめた。鏡に映る私の首にはキスマークだってついてしまっている。とても隠せない位置だった。さっきまでの五十嵐はまるで野獣だ。


「……ご、ごめんなさいっ。理性を失っていたというか……。でも、その、ほっぺだけじゃだめです。唇にしてください。牧野さんの初めてを私にください」


 恥ずかしそうに唇に目を向けていた。私は優しく五十嵐の頭を撫でる。


「まだだめだよ。私と一緒に全てにけりをつけた後ならいい」


 五十嵐は肩をすくめて私の手を握った。


「……もしもお父さんと仲直りできなくても、もう二度と絵を描けなくなっても、それでもキスをしてくれますか?」


 五十嵐が自分の才能を恐れるようになったのは、家族にすらも拒絶されてしまったからだ。お母さんの命を奪ってしまったという自責の念ゆえだ。お父さんという唯一の希望だって消えてしまったのなら、五十嵐はきっと画家としての命も失う。


 頑張っても頑張っても、もうどうしようもなくなってしまったのなら、全てに絶望してしまったというのなら。……それでも頑張れなんて私は言わない。悲しいけれど、せめて幸せな余生を過ごしてほしいと思う。


 終わってしまった私たち二人だけで。


「そんな可能性は考えたくないけど、でもその時はずぶずぶに私に依存すればいい。キスでもなんでも望むなら何だってしてあげるから」


 微笑むと耳まで真っ赤にしてしまった。一体どんな妄想をしているのだろう。呆れてしまうほどに分かりやすい。ジト目で五十嵐をみつめる。


「今更だけど五十嵐ってえっちだよね。いきなり試着室に連れ込んで、キスの雨を浴びせてきてさ。しかも私を使ったいやらしい妄想までする」

「な、何でもとかいうからじゃないですかっ!」 

「もっと清楚な女の子なのかと思ってたよ」

「勘違いしないでください。牧野さんだから、こうなってしまうだけで。幻滅なんてして欲しくないです。私がこんな風になるのは、あなたの前でだけです」


 上目遣いで甘い声でささやかれて、ようやく落ち着いてきた心臓がまた騒ぎ出しそうになる。本当にこの子は小悪魔だ。意識的であれ無意識であれ、どちらにせよ恐ろしい。


「はいはい。分かってるよ」


 平静を装って軽く流す。五十嵐の手を引いて試着室を出た。


 ほどよくドキドキするのは良いけれど、五十嵐と二人でいるのはあまりにも刺激が強すぎる。狭い密室ともなればなおさらだ。


 この子と二人で過ごす未来なんてあり得ないって分かってる。なのに五十嵐は本当に魅力的で、末永い幸せを願ってしまいそうになるのだ。


 それは無理でも、せめて今くらいは恋人みたいに振る舞っていたい。勇気を出して自分から恋人つなぎをすると、五十嵐はびっくりしたみたいに目を見開く。けどすぐに嬉しそうに微笑んで、また肩を寄せてくれた。


 いつか終わる時間だとしても今は幸せだった。

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