第36話 アストラル旅行

 その夜、いつの間にか寝入っていたアルールは、エルスカによって揺り起こされた。

 ここは霊峰カダイル・イドリスの山頂ペニーゲイター。交霊を求める先人がのこしていった石の小屋は、旅人に束の間の安らぎを与えてくれた。


 寝ぼけまなこをこすっていると、かたわらのフウィートルは笑いながら尋ねる。


「どうじゃ。伝承どおりに詩の才能が得られたか? それとも気がふれてしまったか?」


「あばばばば」


「ああ、なんてことだ。可哀想にアルール……」


 狂人と化した第七王子の旅は終わった。


「なにふざけてるの、月蝕げっしょくはもうすぐなのよ。ここはてっぺんじゃないんだから、急いで支度しなさいよ」


「はっ! そうだった。急ごう!」


 幼馴染に呆れられてすぐさま外へ出ると、空には煌々こうこうとした満月が昇り始めていた。

 のっぺりと広がる淡い紺色に浮かぶ白い円は、疲れた心を無にさせる。いつまでも眺めていたい気持ちを抑え、最頂部を目指す。


 月光が照らす山道はあかりの必要がないほどだ。

 いよいよこれ以上は登れない場所にまでやってくると、薄闇に潜んでいた影が話しかけてきた。


「ようやく起きたか。晴れて良かったな。頂上からの眺めは最高だぞ。さあ、そこに寝そべって空を見上げるといい」


「セレン・セイティ。ほほう、そういう姿をしていたのか」


「ば、バカ、まじまじと見るな!」


 すこしねた感じの、まだ幼さが残る少女だった。人間でいえば若干年下であったようだ。

 暗闇に浮かぶ赤い瞳が逃げるさまは、まさしくその名どおり〝流星セレン・セイティ〟であった。


 彼女が指し示した場所には大きな布が敷かれている。仰向けになって空を見上げると、星々はみな舞台裏に引っ込み、主役だけが壇上に立っていた。


 皆は頭を突き合わせ、放射状に横たわる。穏やかな風の中、遠慮しがちに遠くを漂う雲を眺めながら、その時が来るのをじっと待った。


 至福の時間。苦労が報われる素晴らしい光景だ。誰ひとり口を開かず、ただ静寂だけが流れている。

 薄暗い地下室でやや悪くなった目も、ここにいれば良くなることだろう。


 やがて満月の左側が赤く染まり始めると、アルールは思わず嬉々ききとして叫んだ。


「始まった!」


 天に向けて指し示すと、周囲の者たちは驚いて口々にまくしたてる。


「アルールさま!? まだ始めていらっしゃらなかったのですか?」

「何をしてるんじゃ、早く行ってまいれ!」

「まったくのんきなんだから。月蝕中じゃないと交霊できないんでしょ?」

「あきれた。これを逃したら次はいつだと思ってるんだ」


「しゅ、集中するから静かに!」


 大慌てで魔術の構成を始める。夜空に圧倒されて完全に油断していた。

 だが心配する必要はない。神秘的な状況とそれまでの静けさが、集中力を極限にまで高めていた。

 幽体離脱は極めて危険で高度な技だが、今なら労せずに発動させられるはずだ。


たっとき魂の自由。百骸九竅ひゃくがいきゅうきょう解き放ち、わが前へだつは何も無し。空を果てなく飛びまわれ。【幽体投射アサン・オル・コルフ】!」


 アルールの意識が一気に上方へ三メートルほど浮き上がった。

 たちまち視界は急変し、闇と光が織りなす幻想的なものとなる。

 と同時に音が完全に消え去った。


 中空で立ち上がり、半透明になった己の手を見つめる。

 懐かしいわが身。鏡で確認するまでもなく、これは始まりの人生と同じ姿だ。

 無事、魂が住まう次元――アストラル界の移動が可能となるアストラル体へとなることができた。


(よし、成功だ。久しぶりで緊張したが、うまくいったな。わたしだってやる時はやるのだ)


 直前までただボンヤリしていたわけではない。

 これまで何度も修羅場を切り抜けてきたが、自ら死地に飛び込むにはただならぬ勇気が必要だ。不安がふくらまぬように、あえて無意識でいたのである。


 大地を見下ろせば、四つの魂がふわふわと漂っていた。

 それらは自分が元いた場所に集まり、なにやら気にかけている様子が見てとれる。


 アルールはほくそ笑んだ。呆気あっけにとられた皆の顔を確認すべく、目に映るものを調整してみる。

 すると、もぬけの殻となった体を少女たちが取り囲んでいるのが見えた。


 自分、いや、イェイアン王子はうっかり目を見開いたままで、口も半開き。

 色男も台無しの間抜け面で、無詠唱にしなかったことを後悔する。


 エルスカがそっと閉じてくれたが、死んだ己を見ているようで複雑な気分だ。

 彼女たちが何か話し合っているのが気になり、下に降りて読唇占いラビオマンシーを使ってみることにした。


〝――まあ、それはどういう意味なの?〟


〝ちょっと確認するだけじゃ。ちゃんと成長しているのかをな〟


〝やめといたほうがいいわよ。本人が知ったらきっと泣いちゃうって。そういうところは繊細なんだから〟


〝そそそ、そうだぞ、やめたまえ。いくらなんでもイタズラが過ぎる!〟


〝でもおぬしだって気になるじゃろ?〟


〝うっ……。で、でも、やっぱりいけないと思うのだ……〟


 顔を赤らめたセレン・セイティがフウィートルの手を押さえている。知らぬ間にだいぶ親しくなっているようだ。


(いったい何の話をしてるんだ?)


 最初を聞き逃したせいで、意味がまったくわからない。

 やがて白竜は黒竜を振り払い、眠る王子のズボンに手を掛けてこう言った。


〝ちょっとめくって確かめるだけじゃって〟


(こらー! 何してくれとんじゃー!!)


 すかさず念話を送ると、古代竜はいきどおるように背後を指差した。

 慌てて空を見上げれば、蝕はゆっくりと、だが着実に進みつつある。


 さすがにもう遊んでいる暇はない。アルールはようやく空へと飛び立った。

 物理法則の影響を受けないアストラル体では、通常の飛行とは段違いの速度が出る。脇目も振らず、ぐんぐんと高度を上げていく。


 出遅れを取り戻すべく一直線に月を目指すと、気づけば宇宙空間に飛び出ていた。

 闇に星々が浮かぶ不思議な空間。魂だけとはいえ、の身のままで存在できるのは奇妙というほかなかった。


 振り返って出発地点を見下ろす。

 アルビオン島はまるで咆哮ほうこうする竜のような形をしており、カダイル・イドリスはその腰あたりに位置していた。


(どこか見覚えがある。やはりここは別次元の地球なのだ。巡り巡って戻ってきたが、表に行くにはどうすればよいのだろう……?)


 アルールは再び月に向かって動き始める。

 地球の影で赤黒くなった場所を目指しながら周囲をうかがうも、肝心の月をらう魔竜などまるで見当たらない。


 やはり伝説は伝説。

 月蝕とは、太陽・地球・月が一直線に並んで起きるもの。

 転生者ゆえに仕組みを知るアルールは、少しガッカリしながらもどこか違和感を覚えていた。


 以前にこの呪文を使った際と何かが違う。

 悩んだ末に視界であると思い当たる。アストラル界は現実と異なる光景が広がっているはずであり、いま見ているのは肉体で見えるものと同じだった。


 ふと違和感の正体に気づく。どうして仲間の姿が見えていたのか。

 魂が誰かを確かめようと、無意識に異なる呪文を使っていたのだ。


 慣れていないとはいえ、なんとおっちょこちょいなのか。

 自分の不完全さに苦笑し、術を解いてアストラル界のあるがままを受け入れた。


 するとどうだろう。これまでの視界は一変し、今まで見えなかったものがえてくる。

 天体は巨大な気の塊となり、それらのあいだに黄金の道が果てなく続いていた。


(はて、あれは何だろう?)


 今まで存在しなかったものが現れて首をかしげる。

 近づいて触れてみるとなぜか固形のように感じられ、アストラル体でも通り抜けることができない。


 どうやら円筒形えんとうけいになっているようで、地球側から半周すると月の真下に出た。

 外周には等間隔に傾斜した塔が伸びており、明らかに自然のものではない。

 行くあてもないので、とりあえずそれをたどって飛び始めた。


 地球からは細い光がいくつも流れていて、遠くの星に向かって移動している。

 さまざまな色をした小さな球の群体。それが何かはすぐにわかった。


 〝命の潮流ライフ・ストリーム〟だ。

 肉体から解放された魂が群れを成し、別の惑星で生まれ変わるのだろう。


 さしずめアストラル旅団といったところか。

 彼らに意識があるかは不明だが、輪廻転生りんねてんしょう一端いったん垣間見かいまみて、心が打ち震えた。


 ふと興味深い話を思い出す。

 たとえ転生や転移によって新しい命が加わったとしても、その世界における魂の総量は変わらない法則――〝魂の天秤てんびん〟があるというのだ。


 そのため、仮に地球の表裏を自由に行き来する出入り口が開かれたとしても、軍隊を送り込むなどという行為はできない。

 多くの魂が一度に異空間を渡ると調整する摂理がはたらき、どこからともなく現れた黒渦にのみ込まれ、いずこへと消えてしまうのである。


 アルールにこれを教えたのは、タルパマンサーを名乗る夫婦だった。

 異なる自我をもつ分身タルパを生み出し、幽体離脱で旅をする魂操作の専門家だ。


 転生を開始して十三番目の世界で出会い、なんと彼らは地球から来たと語った。

 そんな人物は後にも先にも彼らだけ。

 その技術を教わらなければ、今こうしてアストラル旅行をするのは不可能であった。


(星々で出会った師匠たちは元気にしているだろうか。彼らも転生していれば、いつか再び会える日が訪れるかもしれない)


 頭上には見知った星座が連なっていた。

 どうやらこの黄金の道は、地球から見た太陽の通り道――黄道こうどうに沿っているらしい。

 命の潮流は、そこに並ぶ各星座に向かって飛んでいくのだろう。


 アルールは、地球から始まっていくつもの星々を渡り歩いた。

 自身もあの流れに従って転生をしていたのではないかと思い至り、幻想的な光景を眺めながら、これまでの旅に想いをはせる。


 ひょっとすれば、自分が出発地点と思っている記憶さえ、その途中に過ぎなかったのかもしれない。

 転生とは、必ずしも人間になれるとは限らないのだから。


 かくも不思議な命の輪廻。延々、いや、永遠に続けていたい。

 この宇宙の果て、あらゆる神秘を探り、終わりを見届けたい。

 自らの意思とは別に、魂がそう訴えているようにも感じた。


(ところでいったい何をしてたんだっけ。アタリアよ、いい加減に姿を現してくれないか。わたしにはまだやり残したことがあるのだ。いないなら帰らせてもらうぞ……)


 しばらく無心に黄金の道をゆく。

 それは緩やかな曲線をえがき、地球をぐるりと取り囲んでいるようだ。

 無数の線が折り重なった床はわずかに柔らかいようで、移動するたびに揺れ動く。


 いつの間にか太陽方面を回っていて、このままでは一周しかねない。はたして蝕である必要はあったのだろうか。

 魔竜アタリアが月を覆い隠すほどの大きさならば、いれば必ず見えるはずである。


(おや? 何か出っ張っているぞ)


 まるで高架橋こうかきょうのように浮き上がった黄金の飾りが現れた。道とは素材が異なり、きめ細やかな線が幾重いくえにも入っている。


 柔らかそうな見た目だが、さすがに巨大すぎてびくともしない。

 興味はひかれるものの、悩んでいてもらちが明かないので、諦めて捨て置くことにした。


 そのまま前進を続けると、やがてとうとう月が見えてくる。結局、なんの成果もないまま戻って来てしまった。


(やれやれ、なにが最強の魔竜だ。なにがアタリアだ。でたらめつかまされた。エルスカの無茶振りも困ったものだな)


 急に決まった計画は失敗に終わったようだ。念のため、元の地点まで行ってから帰ることにする。


 もはや淡々と移動するアルールの視界に、前方から何かとがったものが飛び込んできた。

 それらは奥からこちら側に向かって伸びており、道とも高架橋とも異なる素材のようだ。


 ふと妙な違和感をいだく。

 この巨大な黄金の何かはもちろん初めて見るが、知っているもののようにも感じられるのだ。

 それもつい最近、じかに触れた記憶がある。


 高架橋、横に伸びる尖塔せんとう……。

 悩んだ末に思い浮かんできたのは、フウィートルやセレン・セイティを背中から見下ろした姿だった。


 うろここそ見当たらないが、背びれと角によく似ている。

 大きすぎて把握できなかったが、翼らしきものもあったような気がした。


 アルールは嫌な予感がした。慌てて距離をとり、どんどん遠ざかっていく。

 だが逃げるわけではない。確認するためだ。


 虚空で止まり、おそるおそる振り返る。

 案の定、それは巨大な竜の頭だった。


 灯台もと暗し。

 すぐ足元にあったものこそ探していた存在――伝説の魔竜アタリアだったのである。

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