第33話 白闇のワイルドハント

 雲と霧をかいくぐり太陽が光をもたらす。

 ゆえに視界が灰色と己に識別させる。

 だがしかし、それはまごうことなき闇だった。無垢むくなる白によって生まれた白闇はくあんだ。

 カダイル・イドリスの山中にて、アルールは迷霧にとらわれた。


「エルスカ! ヴェルナ!」


 何も見えない奥へと向かって呼びかける。


「ここよ!」

「今そちらに向かいます!」


 すぐに声が返ってきて安堵あんどする。

 しかし直前に聞こえたうなり声はいったい……。


 不意に上空を影が横切った。すかさず手のひらを向けて唱える。


「【心眼シガット・メデュル】!」


 熱を感知して生体の位置を見極める。

 前方にふたりのシルエットが浮かぶが、方々ほうぼうを探してもそれ以外をとらえることはできない。


「……気のせいか? とにかくいちど集まろう。こっちだ、早く!」


 伸ばした左右の手に、それぞれ何か硬いものと柔らかいものが当たった。


「うん?」

「ん?」

「きゃああ!?」


 目と鼻の先に来てようやく見えた、唖然とするふたつの顔。

 視線を落とせば、自身の手はとんでもない場所をわしづかみにしていた。


「どさくさにまぎれて何すんのよ!」


 怒りの形相を浮かべたヴェルナは、一瞬にしてアルールの腕をひねり上げた。


「ぎゃああー! ゆるして! 不可抗力だって!」


「呼んでおいてそんな言い訳が通るか!」


「手が触れると思ったんだよ! というか、君はよろいを着ているだろうが!」


 遠い昔にも似たような出来事があったのを思い出す。

 直前の緊張感も忘れて騒いでいると、冷静なエルスカが止めに入った。


「おふたりとも落ち着いてください。何も見えませんが、わたくしは道を把握しております。ガレ場を抜けたので、もうしばらくすれば湖に出るはずです。そこまで行ってみますか?」


 寛容な彼女は先ほどの事故をとがめる気はないようだ。

 制裁から解放されたアルールは、涙目で腕をさすりながら答えた。


「この状況で動くのはさすがに危険じゃなかろうか。それよりも、さっき獣のうなり声が聞こえなかったか? この山には何か変わった生き物がんでいるのかもしれない」


「そんなの聞こえた? 動物調査はまた今度にしてよ。こっちはもう服がずぶ濡れなの。霧がやむまでこんな場所で待ちたくないわ」


 ヴェルナは小雨など気にしないとたかをくくっていたが、体が徐々に冷えてきたようだ。

 野獣がいる気配はないので、三人は寄り添ってゆっくり歩を進めることにした。


 濃霧の中はこごえるように寒く、清々しい空気が神経を研ぎすませる。

 一面灰色の視界が不安をかきたて、異なる次元へ入り込んだ気分がした。


「なんだか死後の世界に来たみたいだな。暗闇が一歩手前だとすれば、ここはその先のもう戻れない場所のようだ」


「あたしたちにとっては、ある意味そうかもしれないわね。死んでさまよい続けているんだから」


「何が潜んでいるかわからない恐怖があります。気をつけて進みましょう」


 景色の代わりに、これまで味わってきたさまざまな死の情景がまぶたの裏によみがえってくる。

 同じあやまちはしないと心に固く決め、結果として同じ死に方はひとつとしてなかった。


 なかでも、人を巻き込んだに対する後悔が、心に暗い影を落とす。

 冷たい気温と物悲しい色は気分を沈ませ、上りながらにして下っているようだった。


 人を苦しませる最大の要因はつらい記憶である。

 転生によって白紙にできるのならよいが、同じてつを踏まないためには、覚えていなくてはならない矛盾があった。


 アルールとおそらくヴェルナは、いばらの道を選んだ。

 絶対に再会するという強い意思があったためだが、それに耐えうる精神力が元々そなわっていたのだろう。

 だがもし忘却できるのならば、その者は幸せなのかもしれない……。


「着きましたよ。すべるので足元にお気をつけください」


 エルスカの声で歩を止めれば、すぐ先に浅瀬があった。

 透きとおった水越しに無数の石が沈んでいるのが見える。

 考え事をしていると時間はあっという間だ。

 泥で汚れた手を洗い、しばし休憩することにした。


「ここはシン・カイと呼ばれ、『閉じた湖』を意味します。おそらくは、三方が急な斜面で囲まれているために、そう名づけられたのでしょう」


「霧で何も見えないわ。もうちょっと景色を楽しめると思ってたんだけど」


「ここからはいったいどこに行けるのだろう。水の底は異なる領域につながっているというこの地の考えは、じつに興味深いものがある」


「また違う妖精の国へ行けるのかしら。興味はあるけど、寄り道する余裕はないわね」


「この山には恐ろしい逸話いつわが数多くあります。魂にえた亡霊が旅人を餌食えじきにするというのです。水に入るのはさすがに気が引けますね」


 急に不安を感じたアルールはふたりの手をとった。

 ヴェルナは一瞬ぽかんとし、小馬鹿にするように笑う。


「ふふ。なによ、怖くなったの?」


「……そうだな、君たちを失うのが怖い。自分のせいで人が死ぬのはもうこりごりなんだ」


「まだあの時のことを言ってるの? あれは事故よ。べつにあなたが悪いわけじゃない。単に経験が足りなかったの」


「今でも思うんだ。いったいどこからが間違いだったのだろう、と。あの浜辺に行くんじゃなかった、大人と行くべきだった、目を離すんじゃなかった……。後悔ばかりだよ。視界が一色に埋め尽くされる恐怖が、魂に刻み込まれているんだ」


「考えすぎ。ちょっとは忘れなさい。じゃないと大事なことが入らなくなるわよ」


 長き転生を経ても少女に励まされるとは、じつに情けない。

 アルールはそばに幼馴染がいてくれることに感謝した。


 ふと、会話に入ってこないもうひとりの顔が蒼白になっていると気づく。

 うつむいて、肩をわずかに震わせている。


「どうしたエルスカ。具合でも悪いのか?」


「い、いえ、なんでもございません。少々めまいがしただけです」


「体が冷えたのかもな。休まずに歩いたほうがいいのかもしれない」


 いつも気を使われていたが、自分もようやく他者に目を向ける余裕が出てきたのかもしれない。

 アルールが優しく彼女の背中に触れた時、ヴェルナは珍しくおずおずと言葉を切り出した。


「あ、あのさ……。前から言いたかったんだけど……」


「なんだ? やぶから棒に」


「エルスカ、あなた――」


 そう言いかけた瞬間だった。

 ぞくりと寒気がして、全員が異変に気づく。

 見まわせば、無数の赤い光にぐるりと取り囲まれているではないか。


 それらは人型ではなく、地表から一メートル足らずの高さしかない。

 うなり声を上げながら徐々に距離を詰めてくる。


「狐の霊? 『狐の道』とはそういう意味か!」


「いいえ、あれはおそらくクーン・アンヌン。冥界に棲まう恐ろしい妖犬です。いけない、すぐ近くに彼らを率いる者がいるはず」


「ワイルドハントってやつか。冥界の神ってのは白昼堂々と現れるんだな。む、来るぞ!」


 突如、霧を突き破って白犬たちが襲いかかってきた。

 見開いた瞳はらんらんと赤く輝き、鋭い牙をのぞかせるあぎとからは炎とも妖気ともつかない煙があふれ出している。


 三人は背中を合わせて応戦した。

 次々に飛び出してくる魔獣に対し、アルールは魔法で吹き飛ばし、エルスカは障壁で防ぎ、ヴェルナは砲剣で両断する。


 しかしいくら倒しても、敵は一向に数を減らす気配がない。

 まるで霧をつかむように手応えがなく、再生しているかのように無尽蔵むじんぞうだった。


「キリがないわ、いったいどんだけいるのよ! アルール、呪文で一掃できないの!?」


「こんな状況じゃ無理だ! 君らや土地まで巻き込んでしまう!」


 精霊の集う霊峰に損傷を与えれば、たたりが起きかねない。

 防御と索敵さくてきに神経を費やし、地形まで見極めることができなかった。


「おい親玉、どこにいる! 卑怯ひきょうだぞ、姿を現せ!」


 やぶれかぶれでののしるも、当然のように反応は返ってこない。

 このままではジリ貧だ。アルールは巨大な障壁を張って仲間を包み込むと、ふたりの腰に手をまわした。


「ちょっと、何すんのよ! あなたいい加減にしなさいよ!」


「いいから黙ってろ、舌を噛むぞ! いくぞ、【浮遊アルノヴィオ】!」


 障壁を解除すると同時に空へ飛び立つ。

 といっても試練による制約がある以上、このまま逃げるわけにもいかない。


 十数メートル浮かび上がったところで霧を突破することができた。

 下方から犬たちの吠え声が聞こえる。ひとまず窮地きゅうちは脱したようだ。

 しかしアルールは大きく右に傾き、重装備の少女を落としそうになった。


「おっも! 重すぎて腕がちぎれる!」


「武器と鎧のぶんよ! 自分からしといて失礼なやつね!」


「待って、おふたりとも。正面をご覧ください!」


「む? あ、あれは……!?」


 地表に立ち込める濃霧の上空に、白馬にまたがるひとりの人物がたたずんでいた。

 まるで冬の海のように全身が灰色で、長い顎鬚あごひげをたくわえ、頭上には王冠をいただいている。

 うっすらを霧をまとい、陰鬱いんうつな表情はおぼろにかすむ。


 その腕が動いた。

 手綱たづなから離した右手を口元に運び、汽笛きてきのような音を響かせる。


 すると足元の濃霧から白犬が次々と飛び出し、騎馬の周囲に集まった。

 こちらに向き直り、あるじと共に赤く不気味な瞳を輝かせる。


「な、何なんだよ、ありゃ……。まさか冥界の王グウィン・アプ・ニーズ? うわさどおりのお出ましか……!」


 何度もその名を耳にした、カムリの妖精王。

 神々にも列せられるほどの存在だが、強烈な殺気を放つ目の前の人物にそこまでの威厳は感じられない。

 左腕で抱くエルスカは首を横に振って答える。


「いいえ、違います。あれはおそらく『灰色の王』、またの名を『霧の君主』。罪なき魂をも刈りとる凶悪なワイルドハント――ブレニン・シュイド」


「また随分とご大層な二つ名だな。……強いのか?」


「ワイルドハントは集団で悪党の魂を狩るとされますが、かの者は子供すら襲う残忍な性格と聞いています。見る限り、手下はクーン・アンヌン以外にいないようですね」


「なるほど、一匹狼か。冥王の威光を借りて、ここで悪さをしてるってわけだ」


 皮肉を込めて挑発するも、相手は言葉がわからないのか、無表情のままこちらを静かに見つめている。

 亡霊には多少の残留思念ざんりゅうしねんがあるものだが、何を考えているのかまるで読みとることができない。


 ブレニン・シュイドは深く息を吸うようにのけぞり、大きく角笛を吹き鳴らした。

 地面のように下にあった濃霧がたちまち湧き上がり、何かの形を成していく。


 軍馬だ。

 顔のぼやけた騎士たちがまたがり、巨大な盾を携えている。

 それらはあっという間に十数騎を超え、なおも増え続けていく。

 一様に灰色の肌をして、生気のかけらも感じられない。


「おいおいおい、冗談じゃないぞ。もはや魔竜に会うどころではない」


「どこが一匹狼なのよ? 大軍勢じゃないの」


「まあ、どうしましょう……」


 沈黙を保っていたブレニン・シュイドがおもむろに剣を引き抜き、天に掲げる。

 配下の騎士たちはそれに従い、一斉に得物を引き抜いて高々と突き上げた。


 ワイルドハント――それは、荒野や山道をゆく旅人を襲い、魂を狩る亡霊の軍団。

 その目的は謎に包まれ、かろうじて逃げ延びた者の断片的な情報だけが伝わる。


 縁がないと思っていた相手がまさか現れるとは。

 守護竜に先立ち、アルールの前に越えなければならない試練が立ちはだかった。

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