第32話 霊峰カダイル・イドリス

 真夜中に情報屋の竜人ディブラスがやってきて、アタリアなる魔竜の存在を聞かされた翌朝。

 目覚めたアルールが曇り空の下でまきを割っていると、妹のティルトがやってきた。


「兄さま、おはよう。今日は天気が荒れるみたいだから、私とカティナは先に出発するね」


「おはよう、ティルト。どうもそうみたいだな。月蝕まで時間はあるが、何が起きるかはわからない。余裕は欲しいから、こちらも早めに出るつもりだ。兄上によろしく頼むよ」


「くれぐれも気をつけてね。兄さまたちはみな、守護竜を打ち負かすことで民に認められたの。加護を受けた者はオーラが違うから、会えばすぐにわかるのよ」


「ふうん。それじゃあカッコよくなって帰ってくるとしよう」


 兄がおどけてみせると妹はくすくすと笑う。

 とそこへ、朝の散策に出掛けていたディブラスが戻ってきた。


「やあ、精が出るね。私もティルトと共に行くと決めたんだ。グリフィズ王にはエルスカの姉が仕えている。長らく会っていないから不安だが、どんな人々がいるか見ておきたくてね」


「人間観察が趣味ですものね。もうお別れとは残念です。それにしても、あなたはいったい何者なんですか? 自ら『つまらぬものディブラス』を名乗るなんて、おそらくは偽名なのでしょうが」


「なんてことはない。我々の名は鉱物から来ているのだが、私は華やかさとは無縁の石ころなのだよ。わが母は竜王グリシアルの妻となるはずだったが、別の男と結ばれたのだ。おかげで好きにやらせてもらっているがね」


「そういえばエルスカの本当の名はサフィル――つまりはサファイアでしたね。あなたも素顔を晒せば、とんでもない宝石が現れるかもしれません」


「ふふふ、褒め言葉として受け取っておこう。短いあいだではあったが、興味深い人となりを見せてもらった。君が無事にアタリアの加護を授かるよう祈っているよ」


 ごく普通に接したつもりだったが、さまざまな人間を見てきた人物にそう言われて悪い気はしない。

 だが、目深にかぶったフードの中身をのぞく機会は次回にお預けとなった。


 やがて、ティルトとカティナはメステン・メリンにまたがり、ディブラスは徒歩で、山小屋を去っていった。

 しばらく同じ時を過ごした妹たちとの別れに寂しさが込み上げる。

 またすぐ会うことになろうが、伝説の竜と戦って生きて帰ればの話だ。


「やれやれ、人生ってこんなに大変だったかな……」


 幽閉から脱出してはや一週間。転生でつちかった知識でなんとか乗りきれたが、息つく暇がないとはこのことだ。


 旅支度を終えて灰色の空を眺めていると、フウィートルがセレン・セイティを伴って、竜の姿でやってきた。


〝準備は整ったようじゃな。エルスカから話は聞いている。アタリアに会いにカダイル・イドリスまで行くらしいのう。蝕竜など、わらわですらお目にかかったことはないぞ〟


「そうなんです。天気が悪くならないうちに頂上へ登り、そこで夜まで過ごして月蝕を待とうかと。というわけでよろしく頼むよ、セレン・セイティ。山頂までひとっ飛びだ」


 そう言って黒竜の頭をなでようとすると、白竜はあきれたように言った。


〝何を勘違いしておるんじゃ、おぬしは。霊峰れいほうとは、自らの足で登ることで、ようやく精霊との交信が可能となるのだ。送り届けるのはふもとまでに決まっておろう〟


「えぇ!? 一昨日の筋肉痛がまだ残っていますよ。それなのにまた山登り? そんなご無体むたいな……」


〝この日を見越して体力づくりをしてこなかった己が悪いのだ。諦めて運命を受け入れよ〟


「幽閉中は空腹で死にかけていたというのに、あんまりだ。なんとか言ってくれ、セレン・セイティ」


〝悪いな、アルール。古代竜がそう言うのならそうなのだろう。伝説の魔竜が横着者に手を貸すとも思えない。力を示すのに、我らの翼を借りてどうする〟


〝なんなら今までのお返しに、わらわがおぶられてやってもよいぞ。そうだ、それがいい〟


「くぅ、薄情者め……」


 従順な竜を求めてさまよったのに、なんと皮肉なことか。タルイス・テーグにたまわった足輪を今更ながら取り付けたくなってくる。


 結局、試練やら体力づくりを理由に、魔法で飛んで行くのも禁じられてしまった。

 細身の少年はうなだれながら黒竜の背にまたがる。少女らを乗せた白竜を追い、一路、霊峰カダイル・イドリスへと飛びたった。


〝そうしょぼくれるな、アルール。お前の父や兄たちもたどってきた道だ。お前もやってできないことはない〟


「励ましてくれてありがとう。心配なのは山登りよりも、夜は晴れるか、無事に幽体離脱できるか、肝心のアタリアに出会えるかどうかだな。大事の前の小事。下ばかり見ていないで前を向くとしよう」


 言葉どおりに顔を上げると、ヴェルナとエルスカが白竜の背で語り合うのが見えた。


「あのふたり、いつも何かおしゃべりをしているな。女子というのはよく話題が尽きないものだ。君たち竜も、外でどんな話をしていたのかな」


〝べつに。私はひとりのほうが好きだからな。あのふたりが一緒に寝ているそばで、少し離れて寝ていただけだ〟


 三色の竜が寝そべる光景を想像して、ほほ笑ましく思った。

 仲間をうしなったばかりで疑心暗鬼なところはあろうが、どうやら仲良くやっていけそうだ。


〝それにしてもカダイル・イドリスとは、随分と危険な山に行くな。悪しき魂が出没するといわれ、我らですら近づかない場所だぞ〟


「ワイルドハントというやつか? たしかグウィン・アプ・ニーズという名前だったな。この地の妖精たちを統べる存在らしいが、そんなに危険なのか」


〝とても話の通じる相手ではない。我ら竜にもさらわれた者がいるそうだ。ただ殺し、その魂を連れまわす。あれは亡者の狩人だ〟


「神ともされる者が直々にお出ましになるとも思えんが、貴族の遊びみたいな感覚なのだろうか。襲われる側からすればたまったものではないな」


 快調に山々を飛び越えながら語り合う。

 このところ晴天が続いていたが、本来は雨の多い地域。怪しい曇り空は不吉な出来事が起きる前触れのようにも思われた。


 やがて前方に目的の地が姿を現し始める。

 巨人の哲学者イドリスが腰掛けた椅子いすとの由来をもつ、霊峰カダイル・イドリス。

 草に覆われた斜面はなだらかだが、岩肌がむき出しになった場所はかなり険しいのが見てとれた。


「ううむ、何か特別な気配を感じるな。神話の巨人が星を観察した場所とあらば、最強の魔竜アタリアとの交信にふさわしいだろう」


 気分を盛り上げるために腕を組んでつぶやくと、水を差すようにとうとう霧雨きりさめが舞い始めた。

 竜たちは急速に高度を落とし、山裾やますその手前に着地する。やたらと手前で降ろされてしまった。


「もうちょっとオマケしてくれてもいいのに」


 アルールが口をとがらせると、エルスカが雨合羽あまがっぱを取り出しながら答えた。


「風邪をひかぬようにこちらを着用ください。ここで降りたのは、ご自身で道のりを選んでいただこうかと思いまして。なだらかですが長い『小馬の道』と、険しいけれど短い『きつねの道』がございます。どちらがいいですか?」


「どっちのが楽なんだ?」


「下りが急だと危険ですので、行きは『狐の道』がよろしいかもしれません」


「帰りは乗せてもらうぞ、遠足じゃないんだから。どうせクタクタになるに決まってる。でもまあ、たぶん短いほうが楽だろう。とっとと登って、ゆっくり月蝕を待つとしよう」


 もちろんこの選択はすぐに後悔することになる。

 山頂へ飛んでいった竜たちを見送ると、アルール、エルスカ、ヴェルナの三人は、ひんやりとして気持ちのいい空気を吸いながら山を登り始めた。


「こんな石だらけの道を通るなんて聞いていない。だまされた。誰だこの道に決めたのは」


 程なくして出くわした、ごろごろと転がる火成岩の上をいつくばって進む。

 〝狐の道〟は、ところどころ手を使わなければならないほど急な道のりだったのだ。


「うるさいわよ、自分で決めたんでしょうが。もっときびきび歩きなさい」


「アルールさま、険しい道のりを経てこそ達成感は得られるのです。さあ、一歩ずつ頑張りましょう」


 丸々十四年間も地下室に閉じ込められていた少年にはあまりにも過酷だ。

 軽々と登っていくふたりの少女に遅れをとりながら、アルールは苦言をていす。


「君たち、わたしにちょっと厳しすぎやしないかね。もっと甘やかしてくれてもいいんだぞ」


「あのねえ、あなたはもうかわいい男の子じゃないの。誰も同情なんてしないわよ」


「始めたばかりですが、休憩いたしますか?」


「いい、馬鹿にするな。くぅ、わたしは最強の魔術師だ。なぜこんなことをしているんだ……」


 不平も言い終わるとしゃべるだけ疲れてくる。

 それからアルールは、少女たちに負けぬよう必死に足を動かした。

 火照ほてる体はすぐさま霧雨に冷やされ、心に降り積もった暗い感情が徐々に洗い流されていく。


 なんと自分は愚かでちっぽけな存在なのだ。

 山に登るとはなんと気高き行為なのか。

 このまま登りきれば、自分は聖人になってしまうのではないか。


 歯を食いしばりながら岩場を超え、ほっと一息ついたとき、周囲はすっかり濃霧に包まれていた。


 ずっと這いつくばっていたので気づかなかったようだ。足を止め、唖然としながら辺りを見まわす。

 すぐそばにいたふたりの姿もまるで無い。まさか置いていかれたのだろうか。焦り始めたちょうどその時。


 ――ガルル。


 どこからか獣のうなり声が聞こえた。

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