第2話 脱出
生まれてから十四年ものあいだ幽閉されていたアルールのもとへ、謎の人物が誕生祝いにやって来た。
情報を処理しきれずに唖然とするも、いちど
「君はいったい何者で、どこから入ったんだ? 物を出し入れするあの小さな扉を除いて、ここは完全に隔離された空間だったはず」
「わたくしの名はエルスカ。本当の名は異なりますが、わけあってそうお呼びいただけると幸いです。あちらの隠し通路を抜けてまいりました」
そう言って彼女が指し示した壁を見やれば、これまで密着していた石材の一部に、人ひとりがようやく通れるほどの穴が空いていた。
「『
「この地下室は内側からでは絶対に開かない構造となっています。食事が届けられることはもうありません。陛下に絶食の命が下されたからです。申し訳ありませんが、話している時間はございません。今すぐここから脱出いたしましょう」
「なんだって? 脱出……??」
頭に栄養が行き届いていないためか、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
やがて事情をのみ込んでうなずくと、積んである書物を眺めながら答える。
「わかった。だが少し待ってくれないか。荷物をまとめねば。まだ読みかけのものがあるんだ」
「いいえ、事は一刻を争います。一番大切な物だけでお願いします」
「ならば、あの鏡を持っていこう。幼いころに世話をしてくれた女性が置いていったんだ。おそらく母だと思うが……」
「残念ながら、陛下の母君ローナさまは、出産後すぐに亡くなられております。その方がどなたかは存じ上げません」
「……そうか、急ごう」
器に宿った魂がいつ目覚めたかは定かでないが、気づけば若い女性とここにいた。
共に過ごして三年ほど過ぎたころ、眠っている間に消えてしまった。
彼女から言語を習ったものの、名前を呼ばれた記憶は一度もない。いつも悲しい顔をしていた思い出だけが残っている。
赤子が尋ねるわけにもいかず、すべてが
長い転生の旅で、生物学上の母と会えなかったのは初めてだ。
これまで早死に続きで恵まれないと思っていたが、それでも幸せだったのかもしれない。
かぶりを振り、今は複雑な感情を捨て置いた。
古びた手鏡を懐にしまうと、差し伸べられた手をつかんでなんとか立ち上がる。
エルスカを名乗る少女はやや小柄で、成長の足りない自覚があった少年は内心ほっとした。
ランタンを提げて
入る直前、十四年もの日々を奪った
最低限の清潔を保てる場所ではあった。
ときおり差し入れられる書物は子供向けのおとぎ話だったが、退屈しのぎにはなってくれた。
貧相な毛布しか与えられず、寒かった寝床。孤独を紛らわせる話し相手だった
「世話になったな、お前たち。もう二度とここへ戻ることはないだろう。では、さらばだ」
アルールは狭い穴へと入り込み、
中は想像よりもきれいで、完全に密閉されていたか、事前に手入れがされたようだ。
物音など聞かなかったし、近ごろ作られたとは考えにくい。
すぐ眼前を揺れ動くものを見て、目のやり場に困る。
歳の近い娘とこのような行動をするのはいつ以来かと考え、ふと最初の人生で
「あいつはこんなお
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、なんでもない」
逆に想い人ならばと考えるも、このように大胆なことをする少女ではなかったと思い直す。
とにかく、すべてはここからだ。どうやら命を狙われているようなので、今は目の前の現実に集中せねばなるまい。
瞳を閉じて気持ちを切り替える。
直後、何か柔らかいものに顔をうずめてしまった。
「きゃっ!」
「うわっ! ご、ごめん、わざとじゃないんだ!」
「お静かに。そろそろ出口でございます。
真っ暗闇の中を進んでいくと、やがてエルスカは静かな声で止まるように指示する。
しばらくすると何かをいじる音がして、ぼんやりとした光が差し込んできた。
胸の鼓動が高まる。
だが、ここはまだ地下のはず。体を自由に動かせない赤子のとき、乳母が確かにそう言っていた記憶があった。
少女は穴から抜け出すと、こちらにはまだ
そしてようやくその時が訪れる。ついに
アルールが顔を出すと、そこはまだ建物の内部だった。石造りで、おそらくは城か
壁に等間隔で灯火が並び、決して人の来ない安全な場所ではないことがうかがえる。
「急ぎましょう。なるべく足音をたてぬようお願いします」
どこへ行くのか、信じていいのかと疑念をいだくが、選択肢など存在しない。今は黙って従うほかなかった。
少女は間取りを完璧に把握しているようで、迷うことなく歩を進める。
体力の尽きかけたアルールは息を切らしながら、彼女の早足になんとか付いていく。
長く続く
ふと空気の流れが変わるのを感じた。
外だ。
天を見上げれば、雲の
現世で初めて見る美しい光景。
思わず足を止めて
「陛下、申し訳ございませんが余裕がありません。予定よりも時間がかかっています。じきに見回りがやって……」
そう言い終わらないうちに足音が聞こえてきた。それも二人だ。
靴音に混じって何かを床に突く音――おそらくは槍を
エルスカは突然、持っていたランタンを
ほんのわずかな間をおいて、ガラスの砕け散る音が辺りに響きわたる。
ここは塔のテラスであるとアルールが考えたと同時に、兵士たちが騒ぎ出す。
「何だ、今の音は!?」
「下だ! 急いで向かうぞ!」
気配が遠ざかっていくと、大胆な行動をとった少女に尋ねる。
「行ったようだな。しかしこれからどうする気だ? 逃げるのにどうしてこんな高い場所まで登ってきた?」
「わたくしの竜を呼びます」
「なんだって?? 竜だと!?」
「戦うことはできませんが、彼女を呼べば逃げるのは難しくありません。さあ陛下、この上へ――」
その時、背後から新たな兵士の声がした。
「おい、そこで何をしている! 貴様ら、何者だ!」
「くっ、まだいたか」
「や、や……お前はまさか『名もなき
兵士は叫ぶとともに剣を引き抜く。
その瞬間、胸元に刻まれた紋章が見えた。
左を向いて右前足を上げた、
アルールはとっさに動く。手のひらを天に伸ばし、唱える。
「万物に潜む
少年の内に眠っていた何かが目覚めた。
大気に混じる微少な魔力が、己の体内に取り込まれていくのを感じる。
乾いて干からびた細胞たちが急激に活性化していく。
目を丸くした兵士が動きを止めた
「砂の
「うっ……!?」
兵士の振り上げた手から剣がすり抜け、がらがらと音をたてた。
ひざから崩れ落ち、前のめりに倒れ込む。そのまますやすやと眠り始めた。
するとエルスカは、目を丸くしてアルールに詰め寄った。
「な……!! どうして、どうして魔法をお使えになるのです!?魔封じの空間に閉じ込められ、『エッセンス』のない食事で魔力は得られなかったはずなのに! そもそもその知識をいったいどこで!」
「話はあとだ。今すぐ竜とやらを呼んでくれ!」
アルールは片ひざをついて胸に手を当てた。初めて取り込んだ元素に体が
急激に魔力を回復したせいで、心臓がバクバクと悲鳴をあげていた。
たとえ魔力が完全に
問題はこの世界でそれが発現するかだが、どうやらこれまでどおり、前世から
これならば、失った十四年間を取り戻すのも不可能ではないだろう。
美しい音色に顔を上げると、エルスカが欄干の上に立って笛を吹き鳴らしていた。
するとたちまち星空から異質な気配が漂い始め、羽ばたく音とともに強烈な風が吹きつけてくる。
竜だ。
それも神秘的なオーラを放つ純白の個体。
自然と目が奪われる。初めてこの世界の生物を見たが、それが特別な存在であるのは肌で感じとれた。
巨大な白竜は欄干に降り立つや、動きを止めてエルスカが乗り込むのを受け入れる。
だがアルールも続こうとすると、翼を上げていやがった。
「お願い、フウィートル。イェイアンさまを乗せてあげて」
少女が優しく
〝信用はできるのかね、エルスカ? もし本物の王子ならば、わが声が
「竜がしゃべった!?」
その言葉は鼓膜を震わせる響きに過ぎなかったが、アルールにはなぜか人語となって理解できた。
竜も己も魔術を使ったわけではないにもかかわらず。
「ほら、言ったでしょう? この方は正真正銘のイェイアンさまよ」
〝おや……、これは失礼。それでは本当に、この小僧が『七番目の息子の七番目の息子』というわけか〟
「それはいったい何なんだ? わたしは自分について何も知らされていないのだ」
その時、階下から複数の兵士たちが駆け上がってくる足音が聞こえてきた。
「――どこだ!」
「こちらです、早く!」
「急げ、絶対に逃すな! 我らの首が飛ぶぞ!」
おそらく最初の二人に加え、上官やほかの仲間まで連れてきたようだ。
白竜は首をもたげると、翼を大きく開いてアルールに語りかける。
〝乗るがよい、イェイアン。しっかりとつかまっていろ。だが、エルスカに指一本でも触れてみろ。空から振り落としてやる〟
「難しい注文だな。努力はしよう」
アルールは竜の首元から背中に乗り込み、少女の後ろに座った。
美しい
それにどうやらメスのようで、二重に気を使わねばならない。
フウィートルと呼ばれた白竜は、欄干の上で向きを変えて態勢を整えようとした。
しかしとうとう階段を上りきった兵たちが、武器を手に次々と現れる。
その中に弓を持つ者が混じっていた。
あれで翼を狙われたらひとたまりもない。
このような状況ではエルスカもただではすむまい。
アルールは即座に両手を向けて、残されたすべての魔力を解き放った。
「【
放たれた矢が眼前に到達するまさに直前、突如として凄まじい暴風が巻き起こり、兵士をまとめて奥へと吹き飛ばす。
憐れな一団は悲鳴をあげながら階段から転げ落ちていく。
渦巻いた風はそれにとどまらず、塔の上部を破壊し、床をも崩してしまう。
と同時に、後方からあおりを受けた竜は、不自然な態勢のまま塔から飛び降りた。
〝グアッ!? おぬし、無茶が過ぎるぞ! しっかりつかまっていろ!〟
「すまんな、力加減を間違えた」
「あれほどの魔法を無詠唱で……? イェイアンさま、あなたはいったい……」
「倒すのと飛ぶので一石二鳥だな。最初の呪文は詠唱し、温存しておいて正解だった。これでまた、魔力は完全に空っぽだ。ハハハハハッ!」
若干十五歳の少年が上げる
転生者アルールはそんなことも気にせずに、これで晴れて自由の身となったと歓喜する。
ふたりを乗せた美しき白竜は、星々が浮かぶ夜空へと飛び立っていった。
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