蝸牛
柿
蝸牛
「蝸牛の中には、人が住んでいるのよ」
女は言った。
「え?」
女と俺は、少しだけ高いフランス料理屋に来ていた。
「それって、エスカルゴを食べる前にする話か?」
女はこの店の、特にエスカルゴが美味しいと言った。俺は蝸牛に抵抗感があったが、女が何度も熱弁するので、やむなく来ることにしたのだった。
「あなたはもっと知るべきなのよ、蝸牛について。きっとその方が美味しいはず」
女はそう言った。不思議な顔をしていた。何か、俺に対する優越感の様なものが垣間見える、そんな顔だった。
「蝸牛には人が住んでいるって?」
女は俺を見つめていた。鋭く、伸びやかな目だ。
「蝸牛の角は、何であるのか分かる?」
俺は、「いや」と返した。
「角は、アンテナなのよ。目の他に、舌の役割もある。ただ、目とはいっても人間の様に見えるわけじゃない。明るいか、暗いかくらいのことしか分からない」
女は水を少しだけ飲んだ。俺は、「それで」と聞いた。
「本題はここから。何で蝸牛は、こんなに面倒なアンテナを持ってるのか」
そして、エスカルゴが来た。ウェイターが皿を二つ、銀のトレーから、白のテーブルクロスの上に置いた。やはり蝸牛だった。「ありがとう」と女は言った。
「それは、蝸牛の中には、人間が住んでいるからよ」
フォークで殻から身をすくい取った。
「何だって?」
俺は聞いた。女の言うことが、全く理解できなかった。
「蝸牛の中は、あなたが思っているよりずっと広いの」
広い。俺は一軒家を想像した。殻の中に入り込むそれに、人間の姿を重ねたのだ。
「蝸牛の中には、宇宙が広がっている」
宇宙だった。あまりに予想外だったので、少し笑ってしまった。女は一つ口に入れる。ぬちゃ、という音がした。そこに宇宙があるとは、到底信じられなかった。
「宇宙を噛むのよ。宇宙を果てから、内側に噛み潰していくの。そこには、十億人か、八十億人か分からないけど、沢山の人間がいるの」
「それと『アンテナ』に、どんな関係があるんだ?」
女は俺を小馬鹿にする様に笑った。
「精密な『アンテナ』なんて、必要ないのよ。宇宙の外のことなんか、知れるほど人間は優れていないってこと」
参った。俺への、当てつけの様だった。
「もう帰るよ、研究があるからね」
そういう気なら、こっちだって無理に食べたくもない蝸牛を食べる必要なんてない。
「いいわ」
女は蝸牛をまた一つ噛み潰した。いつもならこういう時、はっきりと怒るのに。珍しい、と俺は思った。
研究は今日も進まなかった。正直なところ、もう研究成果が出ないことは分かっていた。十年間、生活苦に瀕しながら、必死に研究だけを行ってきた。朝起きて大学に行き、夜遅く帰り、寝て、大学に行く。日々何度も実験と考察を繰り返し、そしてその終点にたどり着いた。俺の学説では、宇宙の果ては観測できなかった。今の俺は、惰性で研究室に残っているだけの存在だった。認めたくない真実だった。雨だった。大学の近くのコンビニでビニール傘を買い、帰路に着いた。
道中、蝸牛を見た。ゆっくりと、ブロック塀を登っている。蝸牛はどんな気持ちだろうか。暗く、よく見えない中、ただ慎重に、粘液をだらだらと垂れ流し、登る。その足跡も雨に流されていく。後戻りはできない。蝸牛は、やがて塀の頂上に着いた。そこには葉っぱ一つない。虚しい石ころが、張り巡らされた世界があるのみだ。蝸牛は殻に入り込んだ。俺の様だった。そこに、宇宙などあるはずがなかった。
家と言っても、それは所詮安アパートの一室。入り口には、傘立て一つすら置けない。ボイラーの管に、花柄の傘が一本かけられていた。ビニール傘をその横にかけた。
玄関に入ると、電気がついていた。
「おかえり」
女は言った。
「ビール飲む?」
女はいつも通りだった。
「怒ってないの」
「いいのよ」
ソファに腰かける。
「ありがとう」
女が横に座る。俺は今日、大学から出ることを女に言おうと思った。就職して、将来を考える時が来たのだ。しかし、言葉が出ない。小学校の五年、本で宇宙の果てについて初めて知ってから、今の今まで追い続けてきた。それは俺を構成するアイデンティティの、最たるものだった。口に出すと、自我が壊れてしまいそうだった。
「テレビ見る?」
女は笑っていた。俺は苦しくなって、缶ビールを一気に飲み干した。すると、全てがどうでも良くなった。女の肩に触れた。女は困惑して、苦い顔をした。
「何」
女は気づいた。
俺はコンクリートの地面を這いずっていた。すると目の前からは、もう一匹やってきた。なんとなく、そういう感じがした。暗い中、姿を探る。いた。体から、白い槍が出てくる。すると、もう一匹のどこかに刺さった。相手からも、槍が刺さる。槍から注ぎ、注がれる。角が揺れて、快感が広がる。殻が振られる。粘液の苦く酸っぱい味がする。
起きると、布団の上だった。時計は三時を指していた。横には女がいた。口にはまだ、ビールの味が残っていた。目を閉じると、夢の中と同じ感じがした。
外に出て、蝸牛を見た。その蝸牛は、「アンテナ」の先が緑の、グラデーションのついた奇妙な色をしていた。雑草の細い茎を登り、晴天の中、空を目指していた。寄生虫に侵された、蝸牛の末路があった。俺はもう手遅れなのかもしれない。そう思った。
部屋に戻ると、女は俺に言った。
「宇宙の果てが見られたら、どうする?」
思い出して、憂鬱になった。大学を出ることを、言わなくては。
「見たら、終わりだよ」
また、機会を逃してしまった。女は笑った。
「見られるって言ったら?」
いつもの妄言だと思った。馬鹿馬鹿しい。でも、この際いいのかもしれない。もうやらなければならないこともない。全て、どうでもいいのだ。
女はキッチンに向かい、虫籠を持って俺の前に戻ってきた。
「蝸牛」
籠には蝸牛が一匹だけいた。角をぴしっと伸ばした、綺麗なクリーム色をした蝸牛。
「これが宇宙の果て?」.
俺は少しおどける様にして言った。
「そう」
女は真剣だった。もしかすると、薬でもやっているのかもしれない。籠を開け、女は蝸牛を拾い上げた。丸まって、殻へと入り込む。
「本当にね」
女は蝸牛を戻して、俺を見つめた。
「大学、辞めようと思うんだ」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、あっさりと言えた。
「そう」
女は言った。会話はそこで終わった。
酒を浴びるほど飲んだ。苦しかった。でも、酒を飲まないのはもっと苦しかった。喉が渇き始めて、もう一時間は経過しようとしていた。
キッチンにビールを取りに行く。すると、そこには蝸牛の入った籠があった。宇宙の果て? 俺の人生、こんなものに馬鹿にされて。ふざけている。急に、殺意が湧いた。こんな虫けら一匹、すぐにでも叩き殺せる。蝸牛は、「アンテナ」を張って、するすると、ただプラスチックの上を這いずり回っていた。
虫籠を開け、取り出す。殻は渦巻いて、茶色だった。固い様で脆い鎧を、二つの指でつまむ。そのまま、床の真上に吊るした。指を離せば、落ちる。簡単な物理法則だ。そうすれば、こいつは死ぬ。宇宙が滅びるのか、はたまた、蝸牛が一匹、床に体液を撒き散らすのか。指を開き、床に放った。
その瞬間、全てが収束した。俺に向かって宇宙の全てが押し寄せてくる。女、空のビールの缶、アパートの壁、蝸牛の死骸、フランス料理屋……全てが収束して、渦になった。すると次に渦はその道を辿り、より小さい一点へと集まって、紙粘土の様な一つの塊となった。そして、内側から液体が漏れ出してきた。柑橘類を握りつぶした時の様に、漏れ出した液体は均等に空間で発散した。その時には、宇宙は消え去っていた。真っ白とも、真っ黒とも言えない、微妙な光が漂っている。次に、背中に殻が作られた。塊から、より固いものが集められて、再び渦巻きながら作り上げられていった。
そして蝸牛になった。夢と全く同じだった。地面を這い、目の前にはもう一匹いた。宇宙の果てがこんなにも単純なものだったとは。俺は落胆した。と、共に、絶望した。きっと、この世界にも人間がいて、俺がいる。しかし、そいつらは知り得ない。遠く彼方にあって、それでいて、とても近くにあって、時には踏み潰し、下等な生命だと見下ろしている蝸牛に、その真実があるとは。同時に、感動した。今、自分自身が宇宙であって、それでいて、意志を持つ生命であることに感激した。宇宙の果てには別の宇宙があって、またその果てには別の宇宙があって……永遠に続く宇宙の連続性に、神秘を感じずにはいられなかった。誰も知ることのない、蝸牛だけが持つもの。しかし、それも長くは続かなかった。俺は何も想像できなくなっていた。女の顔も、蝸牛の見た目も、何も思い出せず、見当もつかなかった。思考の袋が端から破れる様になって、粘液として体外へと溶け出していく。そうか、こうして宇宙の謎は永遠に葬り去られるのだ。証人は誰一人おらず、ただ執行者だけが用意されている。神などいなかった。目の前にいる一匹もそれを知らない。あるいは、「知っていた」だけなのだ。交尾が続けられる。新たな宇宙が生み出される。それは、新たな真理の理解者を、一瞬だけ作り出すのだ。
時が来た。これから俺は、宇宙を抱えるにはあまりにも無責任な、軽々しくも壮大な虫けらになる。確かな感覚があった。
その時、殻が掴まれた。それは、その女の手だった。槍が互いの生殖器から剥がされる。俺は虫籠に入れられた。俺は、宇宙はこうして循環するのだと思った。命一つ一つがこうして蝸牛になる時間、それは宇宙の誕生する運命を、その度に決定づけるのだ。
だとすれば、この女は……
「蝸牛の中には、人が住んでいるのよ」
女は言った。
蝸牛 柿 @elfdiskida
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