弐 その姫、鬼と近付かまほしければ

 空が漸く白み始めてきたころ。皐月と菊丸は目を覚ました。


「おはようございます、皐月様。相変わらずお早いですね」


「おはよう、菊丸。そういうあなたもね。いつもの習慣が抜けないのよ」


 皐月がうーん、と伸びをする。毎朝早起きをして、身支度をして、朝餉を作って。それが皐月の朝であった。一方の菊丸も、家人であるため晶子の身辺の安全を確保せねばならないのだ。


「……今は誰もいないし、昔みたいに呼んでくれてもいいのよ?」


「あはは。あれは子供だから許されていたのですよ。同年齢であろうと、我々はもう大人ですから」


 照れ臭そうにこめかみを掻く菊丸。その返答に、皐月は少し不満げだった。


「……もう」


「……もしかして、呼んでほしいのですか?」


「べ、別にそんなんじゃありません」


 僅かに頬を赤く染めてそっぽを向く皐月に、菊丸はくすりと微笑んだ。

 厨の方の灯りが点いている。二人はそちらの方へ向かった。





 晶子は小鳥のさえずる声で目を覚ました。そして、何かに袿が引っ張られている。

 未だ微睡みの中の晶子は、ぎゅーと袿を引っ張り返した。


「おきぬー、朝だぞー」


「早くしないと朝餉が冷めちゃうぞー」


 草鬼と羊鬼がゆさゆさと晶子を起こす。


「んー?……そうき?ようき?」


「お、起きた」


「おはよう、おきぬ」


 晶子が寝ぼけ眼で二人を見る。どうして鬼がいるのだろう、などという思考すらままならない。


「鈴もお前の連れも待ってるぞ!」


「早く早く~」


 晶子の手を掴んで二人が何とか布団から引きずり出す。とろけた猫のようにずるずると這い出てきた晶子は、ようやく立ち上がった。


「おはよう、二人とも。顔洗ってくるって伝えておいてくれる?」


「勿論!鈴に伝えてくるぜー」


 鬼たちは廊下を駆けて行く。晶子は大きなあくびをしながら外に出た。都よりも幾分か涼しい。草木の匂いが澄んだ風に乗って流れてくる。自宅では感じられない異境の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 井戸水で鬼たちが顔を洗い、手を洗っている。


「おはよう、みんな」


「おきぬだ!おはよー」


 友好的な鬼たちは笑顔で手を振る。一方で、まだ人間が珍しいのか、そわそわしたり、ちらちらと様子を伺っている鬼も数人いる。客人扱いであるからかもしれないが。

 水をすくい、顔を洗う。


「冷たっ」


 この季節にはまだ水は冷たすぎる。冷水から逃れるように、晶子は素早く水気をふき取った。だが冷水のおかげで眠気は綺麗さっぱりなくなった。


『今日は、ちゃんと話せると良いな』


 晶子は昨夜の出来事を思い出す。断たれた首から吹き上がる血、無残にも切られた肉塊。そんな凄惨な光景よりも、幽鬼のような鬼の男が脳裏に焼き付いて離れない。昏い金色の瞳に、靡く黒髪、血が滴る白銀の刃。あれを、晶子は美しいと、悲しいと思ってしまったのだ。酒呑童子はどうしているだろうか。彼は一体どんな鬼なのだろうか。

 そう思いながら階を上がり、廊を歩いて朝餉の場へ向かう。ふと、視界の隅に人影を見つけた。


「……!」


 酒呑童子だ。甕を持って井戸水の方へ歩いていく。こちらには気付いているのか、気付いていないのか。


『……?何をしに行くのかしら?』


 もうすぐ朝餉だ。もしかすると朝餉用の水でも汲みに行ったのだろうか。そんなことを考えながら、晶子はこれ以上待たせるわけにはいかないと、足早にその場を後にした。





 温かい雑穀の粥、二種類の焼き魚、茹でた青菜にひしおを和えた筍、そして季節の果物。簡素ではあるが量は多い。いつもとは違う食事に、人間の三人は興味津々だった。


「これは……美味しそうですね」


「いつもは種類は多く、量は少なく、ですからね」


「これなら朝に弱い皐月でも食べれるね!」


 思わぬ暴露をされた皐月は、恥ずかしそうにこほん、と咳払いをする。


「鬼たちがよく食べるから白米なんて高価なもの買ってられないのよ。おかゆで十分持つし、ここには山の幸、川の幸があるから」


「醤も高価なものだと思うのですが……」


 菊丸が朝餉の料理人である鈴に視線を向ける。醤は東の市に行かなければ手に入らず、そこそこの高級調味料である。よく切らしては皐月が買いに走っているのを見ているのだ。


「ん?うちで作ってるのよ。買うの面倒くさいから」


 間。


「作れるものなんですか!?」


「材料と感覚さえあればね」


 皐月は鈴の手を握りしめた。


「鈴。ぜひその作り方をご教授願いたいのですが」


「構わないわよ。……なるほど、皐月が橘家の包丁人、ってわけね」


 鈴が少し思案する。子供が悪戯を考えるが如くどこか楽しげなのは何故だろう。


「貴族の生活に合うかどうかわからないけど、私の手ほどき、受けてみる?」


「はい。是非」


「獣も捌くわよ?」


「え」


 皐月は最後の言葉を聞いて思わず固まった。魚を捌くことはあるが、獣は一度もない。獣ということは猪や鹿を捌くのだろうが、あの巨体を捌ける自信はない。


「あははは!流石にそれは冗談よ。ちゃんと貴族の屋敷でも作れるようなもの教えるから」


「お、お願いします」


 皐月は顔を引きつらせる。だが、鈴はどうやら人間の扱いになれているようだ。他の鬼たちに比べて寄り添ってくれている気がする。それも人間の夫を持っていたころの名残だろうか。


「あ、あの。良ければ鈴と田村様の馴れ初めなど、聞かせてはくれませんか」


「あら。なんて積極的なのかしらこの子」


「ちょ、ちょっと気になっただけです!」


 皐月をからかう鈴。昨日の今日でここまで仲良くなっている二人に、晶子と菊丸は微笑を浮かべる。


「はいはーい。私も二人の話聞きたいです!」


「実は私も」


 晶子と菊丸が手を挙げる。全く人間たちは、と鈴が苦笑を浮かべた。そして、むかしむかし、とまるで絵巻物を読むように語り始めた。


 昔々、天女と呼ばれ、鬼女と呼ばれた鬼がいました。名を鈴鹿御前。女でありながら三振りの太刀を振るい、神通力を使いこなしていた不思議な不思議な鬼の女。鈴鹿山で鬼たちをまとめていた鈴鹿御前は、付近を通り過ぎる人間たちが嫌いで仕方がなかったの。

 でも殺すのは好きじゃなかったから、ちょっと貢物を奪ったりしててね。所謂嫌がらせ。その不良行為が朝廷に見つかって、討伐されることになっちゃった。でも私鬼だし、負ける気しないし、当時の将軍とやらをぼっこぼこにしてやろうと企んだわけ。それで、討伐隊がやってきて、いざその将軍と顔を合わせたら……


「すっっっっっっごく好みの人だったの!」


 当時を思い出したのか、徐々に口調がくだける鈴。


「つまり……一目惚れ?」


「そう、一目惚れ」


 鈴は懐かしむように目を閉じる。


「一目惚れしちゃったけど、一応向こうは殺しに来てるし?戦いはしたけど敢えて負けて、殺すなり妻にするなり自由にしてください、ってお願いしたのよねー。あの時の田村様かっこよかったのよ!?『そなたは強いうえに麗しい。故に殺してしまうのは忍びない』って、きゃー!」


 鈴は赤く染まった頬を両手で抑える。のぼせてしまうのではなかろうか、と皐月は少し心配した。


「二人は凄く仲が良いのね!」


「当たり前よ。お互いにずっと恋していたもの。きっときぬにも分かる日が来るわ」


 晶子の白い髪を愛おしそうに一撫でする。その仕草ですら人外の妖艶さを惹きたてている。


「身分とか、恋愛でそういうものを気にしちゃだめよ?私も田村様とは結婚できる身分じゃないもの。そもそも鬼だし。でも、愛の前では関係ないのよ?」


「身分……」


 皐月が呟く。晶子はうん、と頷いた。


「でも、結婚許してくれるかしら」


 そういうと、晶子はじ、と過保護な二人を見た。皐月と菊丸は同時に咳払いをする。


「ちゃんとお付き合いしても良い殿方かどうかは、私たちも判断させていただきます」


「我々にとって姫様は命よりも大切なお方ですので」


「もう、二人とも本当に過保護なんだから……」


 そう言って晶子は頬を膨らませた。




 鈴は皆が食べ終えた食器を厨で洗っていた。そこに、皐月がやってきた。


「あら、手伝ってくれるの?」


「ええ。お世話になっていますし、これくらいはしないと」


 袖をたすきで結い、長い髪も邪魔にならないように紐で結っている。この人間は臆病ではあるけれど、礼節と恩を忘れない強い人間であるのだと、鈴は思う。

 あれだけ昨日は鬼を怖がっていたというのに、この順応性。主である晶子に似たというべきか。


「……鈴、今も田村様に会いたいと思っていますか?」


 鈴はその問いに軽く目を見張る。すぐに柔らかな、穏やかな表情を浮かべた。


「会いたいに決まっているわ。……でも、今は田村様と過ごすことじゃなくて、娘を育てることが大事。……それが、の生を受けた私の使命」


「?二度目とはどういう……」


 鈴は口元に人差し指を当て、内緒、と答えた。








 朝餉を終え、やることが無くなった晶子は邸の中を探索していた。

 ひょこ、と柱の影から様子を伺う晶子。酒呑童子は部屋にはいなかった。

 庭に目をやると、何やら草木に向かっている彼の姿があった。よく目を凝らせば、柄杓か何かで水をかけている。


「……水やり?」


 晶子が呟く。葉にかからないように丁寧に水を根元の方に注いでいた。鮮やかな紫色の躑躅つつじが花を咲かせている。


「……なんか、意外……」


 冷酷無慈悲に刃を振る姿からは想像もつかない。晶子の興味は増々酒呑童子とやらに向くことになる。

 黙々と水やりをしていた酒呑童子は、一つ嘆息すると柱に視線を向けた。


「隠れているつもりなのだろうが、見えているぞ。髪と衣が」


 はた、と晶子は自分の衣を確認する。確かに隠しきれていない。だが、完全に隠すつもりもないのだ。


「こそこそと見られていると気が散る」


 晶子は目をぱちくりとさせ、にやりと口端を吊り上げた。階から庭に降り、駆け足で酒呑童子の元まで寄る。


「つまり、近くで見た方が良いということですね!」


「……」


 酒呑童子は絶句する。何をどうしたらそういう解釈になるのだろうか。きらきらと子供のように目を輝かせる晶子に、酒呑童子はどこか納得のいっていない表情を浮かべる。


「……勝手にしろ」


 酒呑童子は晶子を気にせず、隣の花の元へ移る。晶子はその後をついて行く。しばらくそれが続き、庭をもうすぐ一周するという頃だった。


「この花、見たことないです……百合ですか?」


「これは堅香子かたかごだ。都でも見たことが無いから、おそらく山でしか見られない花だろう」


 紫色の花が二輪、俯くように咲いている。酒呑童子は花に当たらないように、そっと水をやった。


「お花に詳しいんですね」


「花は元々見るのが好きだからな。野生もいいが、手入れをすればより愛着が湧くというものだ」


 晶子は青年を見上げた。普段の威圧するような雰囲気が柔らかくなっている。おそらく花がよほど好きなのだろう。だが、晶子はそれ以外の理由がある気がしてならない。

 もっと、彼の本質にかかわるような。


「……いつか、貴方の本当のお名前が知りたいです」


「……酒呑童子、だと言っただろう」


 青年の声に棘が戻る。晶子はしゃがんで、そっと堅香子の花に触れた。


「嘘つき」


「……お前、何を知っている」


「何も知りません」


 青年が警戒しているのが伝わる。やはり彼は何かを隠している。


「何も知らないから、知りたいと思うのはおかしいですか?」


 静かに、優しく言葉を紡ぐ。


「……なーんて、只々仲良くなりたいだけです。私、貴方の事悪い人だとは思っていないので」


 晶子は真っすぐに酒呑童子を見つめる。酒呑童子は何処か困惑しているような、疲弊しているようなそぶりを見せる。


「…………変な姫だな、お前」


「髪が白いのは生まれつきです」


「違う、そうじゃない。鬼や妖に好き好んで関わっていくことだ」


 酒呑童子の言葉に晶子は目を瞬かせる。酒呑童子は再び歩き出す。あと水をやる花は一種類だけ。


「わあ……綺麗な椿……」


 晶子が紅い花に思わず見惚れる。椿の花は貴族の間でも人気なのだ。高貴で、気品のあるその姿に惹かれる人も多いのだそう。

 花びらを散らさず、花の姿のまま落花するのだ。


「……昔は好きだったがな。今はどうも気に入らない」


「……?そうなんですか?」


 見ろ、と酒呑童子は落ちた花を指す。


「まるで落とされた首のようだ」


 晶子は酒呑童子の過去を思い出す。彼の最後は首を切られて死んだのだ。晶子は落ちた花を両手で拾い上げた。


「でも、私は好きです。落ちてしまっても、まだこうやって残っています。落ちてなお、人々の心に残るんですよ?素敵な花だと思います」


 晶子は楽しそうに花を髪にあてた。


「見てください。私の髪は椿が一番映えるんですよ!あとは水に浮かべても綺麗かもしれませんね。机の上とか、文箱の上に乗せておくのもいいかも……」


 酒呑童子はふと思った。まるで雪の上に落ちた椿のようだな、と。

 そう思えば、この花も悪くないかもしれない。


「……お前は花が良く似合うな」


 ぼそりと、晶子には聞こえない声で呟く。


「?何ですか?」


「何でもない」


 何でもないと言われれば言われるほど、気になるではないか。

 晶子は意地の悪い酒呑童子にぶー、と頬を膨らませる。酒呑童子はそんな晶子を気にも留めず、甕と柄杓を片付けに踵を返した。

 晶子は再び酒呑童子の後を追う。井戸の隣に甕と柄杓を置いたその時、何やら邸の方が騒がしくなった。


「どうしたのかしら……」


「……」


 酒呑童子の表情が明らかに険しくなる。二人は少しだけ足早にその場を去った。





 晶子と酒呑童子が騒がしい部屋に着く。鈴が額を抑え、何かに困惑しているような表情を浮かべていた。


「どうした」


「また拾って帰ってきたのよ」


 晶子が顔をのぞかせると、鈴と鬼たちの目の前には涙目になっている少年が座っていた。


「この邸の前で蹲ってたんだ」


「足も引きずってたんだぜ」


 よく見ると足首の部分が腫れている。そこへ皐月と菊丸もやってきた。


「どうしたんですか?」


「……!足を怪我しているようですね」


 晶子と菊丸が少年の前でしゃがみ込んだ。


「大丈夫?転んだの?」


「……うん」


「少し触るよ」


 患部には触れないように、周りを触って確かめる。


「足首以外は痛まないかい?骨に響いたりしてないか?」


「大丈夫……」


 ふむ、と菊丸は少し思案する。


「綺麗な手ぬぐいと水を張った桶をください。後は傷薬もあればお願いします」


「分かったわ」


 鈴が菊丸に言われた品を取りに行く。少年は菊丸をまっすぐに見つめている。


「お兄ちゃん、かっこいい……!」


「え?」


「薬師様みたい!」


 あはは、と菊丸は苦笑した。薬師のような専門的な知識は何もないのだが。


「俺は刀を扱うから、怪我をしたときの対処法になれているだけだよ」


「刀!?かっこいいなあ!」


 まるで足の痛みを忘れたかのように、少年は元気を取り戻した。おそらく一人で怪我をして、心細かったのだろう。


「お兄ちゃん、もしかしてお武士様?」


「いいや、そこのお姫様の従者なんだ」


 菊丸が晶子の方を見る。少年は晶子をまじまじと見つめた。


「お姉ちゃんの髪、変な色」


 うぐ、と晶子が明らかに精神にダメージを追った声を出した。


「でも、すごく綺麗だね!」


 裏はない。子供ゆえの無邪気な言葉。晶子は少しだけ驚いた様に目を見張ると、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう」


 皐月と菊丸はその様子に微笑を浮かべる。晶子と菊丸は少年の看病を続けたが、ふと、皐月は周りの鬼たちに視線をやった。鬼たちがどこか心配そうに酒呑童子に視線をちらちらと送っている。酒呑童子は表情一つ変えず、淡々と事の成り行きを見守っていた。

 その光景に、皐月が首を傾げる。一体どうしたというのだろうか。


「そんなに神経質になりなさんな。子供が怯えるでしょ」


「鈴鹿御前様」


 手に桶と手ぬぐいを持った鈴が鬼たちを嗜める。そして、菊丸の横に道具を置いた。


「はい。残念ながら傷薬は持ってないのよ」


「いえ。助かります」


 菊丸は冷水に手ぬぐいを浸すとそれを絞り、そっと少年の足首に当てた。


「君、これを暫く足首に当てていなさい。痛みが引いたら、ゆっくり歩いて家に帰ると良いよ。でも、帰ってもなるべく安静にね」


「うん、わかった」


 よし、と菊丸は頷くと、少年の擦り傷をもう一枚の手ぬぐいを濡らして丁寧に洗っていく。

 その様子を暫く見ていた酒呑童子だったが、興味を無くしたように踵を返した。


「その子供お前に任せる」


「あ、はい」


 酒呑童子が鬼たちに目配せをする。この場から去れという合図だ。鬼たちもわらわらとそれぞれの部屋、居場所に戻っていく。

 皐月は晶子の隣に腰を下ろした。菊丸と打ち解ける少年を微笑ましそうに眺めている。

 

「手、すごい肉刺だな。痛くないか?」


「うん。昔はすごく剥けたけど、もう固くなったよ。でも農作業面白くないし、飽きちゃった」


 菊丸はよしよし、と少年の頭を撫でる。


「昔は俺もそうだったなー。畑ばっか耕して、面白くなくなって武士の真似事してたんだ」


「……お兄ちゃん、身分の高い人じゃないの?」


「全然?今も庶民。ただ、たまたま通りかかった貴族の人に見つかって、勧誘されたってだけ」


 少年の目がますます輝く。貴族に憧れるのは当たり前だ。煌びやかな衣、楽しい遊び、美しい管絃に囲まれた生活に少しでも近づきたいと思うのは庶民ならなおさらだ。


「でも、農作業も悪くないぞ?体力はつくし、体は鍛えられるし、作物が育った時は嬉しいし。あと、肉も魚も自由に食べられるんだからな」


 なにそれー。と少年は笑う。


「夢は大きく、でも、今の時間も大切にすること。これ、お兄ちゃんからの助言」


「うん!」


 菊丸は満足そうに頷くと、少年の足首を確認した。大分腫れが収まってきた。そろそろ立っても問題ないだろう。


「痛みはどうだ?」


「もう大丈夫!歩けるよ!」


「走っちゃだめだからな?」


 少年はその場で軽く足踏みをする。あまり無茶は良くないのだが。


「その手ぬぐいで痛くなったら冷やすこと。鈴には俺から言っとくよ」


「うん。ありがとう!かっこいいお兄ちゃん!」


 菊丸は少年を見送りに庭に降りる。晶子と皐月は少年に手を振って送り出した。


「……なんか、あの子を見ていると昔の菊丸を思い出しますね」


「うん。あの子よりももっと生意気だったけどね」


 皐月は苦笑する。確かに昔の菊丸は皐月とよく口喧嘩するほど気が強かった。だが、そういう素直でまっすぐなところが良いのだ。


「あら、もうあの子帰ったの?」


「ええ。菊丸がそこまで見送りに行ってます」


 鈴が自室から様子を見に出てきたようだ。


「そう、元気になったのね。貴方達に任せて良かったわ」


「菊丸がほとんど面倒を見てたけど」


「ま、今回は大丈夫だと信じたいのだけれど……」


「?」


 皐月と晶子が鈴の言葉に首を傾げる。今回は大丈夫、とはどういうことだろう。


「今夜、来客があっても貴方たちは顔を出さない方が良いわ。気にせず休んでいなさい」






 険しい山道をゆっくりと歩く。また転んで悪化してしまっては本末転倒だ。だが、もう一度あの青年に会えるのならそれでもいいかもしれない、なんて考えてしまう。だが、やはり悲しい顔をされるのは嫌だな、ということで慎重に慎重に足を運ぶ。

 もうそろそろ集落だ。両親がさぞかし心配している頃だろう。日が落ちる前には何とか帰れそうだ。

 松明を掲げた男がこちらに気づく。


「おーい!こっちにいたぞー!」


 その声に両親と集落の住人たちが駆け寄ってくる。


「一体どこにいたの!?心配したのよ!?」


「ごめんなさい。途中でこけて、足を捻っちゃって……」


「無事でよかった……」


 両親と抱擁を交わす。住人達もどこか安堵した様子だった。


「いやー、よかったよかった。鬼にでも攫われていたらどうしようかと」


「この辺は鬼の住処が近いからなあ」


「お役人様、ご協力いただいて本当にありがとうございました」


「構わない。困ったときはお互い様だ」


 そんな会話が聞こえる。ふと、母が手に持っていた手ぬぐいに気が付いた。


「あんた、その手ぬぐいどうしたの」


「山の中で会ったお兄ちゃんに手当してもらったんだ!」


 その言葉に、大人たちが少しざわめく。


「それはどこの誰だ?」


「わかんない。お姫様の従者、って言ってた」


「他に人はいたか?」


 役人の言葉に、少年は思い出す。あの青年と、白い髪の姫と、その女房らしき人物。

あと、他にも。


「見たことない人たちがたくさんいたよ」


 悪意の欠片もない、ただ事実を述べただけ。

 少年は助けられた青年の言葉を思い出しながら、憧れを抱いたまま、その日は眠りについた。






 梟が不気味に鳴いている。晶子と鈴は庭を散歩しながら、今朝の出来事を語っていた。


「ふふ、随分仲良くなったのね」


「そうかなあ?相変わらず何も教えてくれないし、意地悪だし。でも……今日は少しだけ優しかったかも……」


「あら、私に花の話をしたことなんてないのよ?」


「本当?ちょっとは仲良くなれたのかな……」


 うーん、と晶子は悩む。鈴はこれは面白くなりそうだ、とにまにまと口端を吊り上げていた。彼にとって良いかは彼のみぞ知ることだが、周りの鬼たちにとっては良い影響を与えるのではないかと、期待はしている。今の大江山の雰囲気はあまり心地いものではない。

 ふと、晶子の耳に微かな音が聞こえた。それは自然のものではない。


「……?あれ、何か……」


「……ちょっと来るのが早すぎるかしら……」


 鈴が大通連を顕現させる。しかし刃を抜かずに腰に提げた。


「……あれじゃないか?」


「ああ。間違いない。話に出た白い髪の姫だろう」


 晶子は自分が話題に上がっていることを知り、一歩下がる。草むらの影から男が数人出てきた。鬼ではない。普通の人間だ。


「あの邸……ここ、酒呑童子の住処じゃないか!?」


「馬鹿言え。酒呑童子は頼光様によって討ち取られただろ」


「だとしたら、生き残りだ!」


 ああ。面倒なことになった。鈴が晶子を下がらせる。彼女の前で手荒な姿を見せたくはないが、こればかりは仕方ないか。少し痛めつける程度で追い返す。


「下がれ人間。ここはお前たちが来ていい場所ではない」


 鈴の凛と澄んだ声音に、男たちは一歩後退する。

 しかし。彼らはただの農民ではない。武装した役人が数人と、武装した農民が数人。それぞれが身を守ろうと武器を構える。

 

『敵の殺気の有無も分からないくせに、中途半端に戦闘の意思がある。本当に面倒ね』


 ここが鈴鹿山であるならば躊躇いもなく斬り伏せるのだが、此処は酒呑童子不在であるはずの大江山。朝廷に目を付けられれば十年前の戦火が再び起こることになる。

 

「鈴、何を躊躇っている」


 鈴と晶子は声の主の方を振り返った。鬼の面を付けた、酒呑童子だった。


「躊躇って、って……ちょ、まさか貴方……!」


 鈴の声に、酒呑童子は答えることなく男たちの目の前に立ちはだかった。


「問う。ここで見たことは他言無用だ。それを前提で逃げるか、ここで死ぬか」


 農民の男たちは酒呑童子の刺すような気迫に最早逃げ腰だ。だが問題は役人達の方。どうやら一応護身術くらいは体得しているようだった。


「情に免じてそこの農民どもは見逃してやる。去れ」


 農民の男たちは腰を抜かしながら、這う這うの体で逃げ出した。仲間が減った役人たちも少しは怖気づいたのか、僅かに後退した。

 さて、と酒呑童子は刃の切っ先を役人たちに向ける。


「貴様らは死を選んだわけだな」


「酒呑童子は死んだんだ!我らががその首を取られた!一度勝利を収めた我々が、鬼に負けるわけなどない!」


 ほう、と酒呑童子の声音が一掃冷たさを帯びる。声だけで凍てついてしまうような、そんな鋭さが耳朶を刺す。役人たちはなりふり構わず刀を振り上げ酒呑童子めがけて駆け出す。


「頼光の部下か」


「お前さては鬼ではないな?その面を外してみろ!どんな面か拝んでやる!」


 酒呑童子は造作もなく役人たちの剣を捌く。そして、一人の剣戟を敢えて面の紐が外れるように躱した。

 からん、と音を立てて鬼の面が転がる。月光が照らしたその面差しに、役人たちが硬直した。


「なっ……お前は、いや、貴方は……!」


「馬鹿な!この世にもういないはずでは……」


「いや、これはまやかしだ!」


 役人たちの声に、酒呑童子は淡々と、しかし昏いものを滲ませて言葉を紡いだ。


「この恨みはらさでおくべきか」


 晶子は役人たちが狼狽えている理由が分からずに困惑する。不意に、鈴が晶子の視界を遮った。


「ここからは見ちゃだめ」


 視界を遮られた途端、斬撃の鈍い音と役人たちの悲鳴が響く。それは現代でいう僅か十秒ほどの出来事だった。


「騒ぎにならなければいいんだけど」


「悪いが、朝廷側の人間にからな。やむなく斬り捨てたまでだ」


「まったく、狡賢いというかなんというか」


「山の中にでも捨て置けば事故だと思うだろう」


 二人の物騒な会話に、晶子は息を呑む。彼らは人間たちから襲撃を受けるたびにこのようなやりとりをしているのだろうか。


「今でも、人間を恨んでいるんですか……?」


 目を塞がれたまま問う晶子に、酒呑童子は冷たく答えた。


「人間、というより都の人間をだ。特に朝廷、そして……源氏」


 酒呑童子はその場から立ち去る。刃に付いた血を払い、刀を鞘に収めた。まるでそれが合図かのように、屈強な鬼たちが役人の亡骸をどこかへ運んでいった。

 晶子は鈴に導かれるまま、自室に着くまで視界を遮られたままだった。


「はい、もう大丈夫」


「ありがとう、鈴」


 鈴は晶子の髪を愛おしそうに撫でた。


「今日はもう寝なさい。怖い思いさせてごめんね」


「大丈夫。鈴のおかげで何も分からなかった」


 分からないはずは無いのだが、そのごまかし方が幼い子供の様で、鈴は思わず失笑した。


「そう。それなら良かったわ。おやすみなさい」


「鈴もおやすみなさい」


 晶子はひらひらと手を振って部屋を出ていく鈴を見送った。






 憎い。いや、憎いというよりも失望に近い。人間とはこんな生き物だったのか。

 嗚呼、信用ならない。

 嘘、虚言、騙し、罠、裏切り。

 疑え。奴らはすぐに嘘をつく。すぐに欺き、だまし討ちをする。

 疑え。奴らはきれいごとを並べた後、裏切る。


「嘘つき」


 ……そうだ、これは嘘であって嘘ではない。

 あの少女の言葉は真実を突いているが、それはあの時のみの事。あの時間のみの事。間違いなく、朝の時は嘘になっていた。

 だが、あの言葉を役人を斬り捨てたときに言っていたら、それは間違いだったのだ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白絹姫と大江山の鬼ー平安妖絵巻ー 胡蝶飛鳥 @kotyou_asuka1231

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ