白絹姫と大江山の鬼ー平安妖絵巻ー
胡蝶飛鳥
壱 その姫、いとをかし
――――長徳元年。
「いたぞ!全員で押さえ込め!!」
男が吠えた。周りにいた部下たちが駆け抜けていく。あちこちで火が燃え盛り、幾人もの肉塊が重なり、地を赤黒く染め上げる。
数々の屍を踏み越えて、数人が大男を取り押さえた。
「覚悟せよ、酒呑童子!」
そう言い放つと、男は刀を振り下ろした。
◇
美しい
「そんなものお有りにならなくても、姫様は充分美しゅうございます」
髪を梳く女房が不満気に呟く。
「なのに男どもは見るや否や、『あな、妖か』『あないみじや』などと言うではありませんか。全く腹立たしい。この可愛らしい瞳と性格が目に入らないとでも?」
「もう、
「何を仰りますか。姫様はわたくしの妹君のような人です。妙な噂に、なおさら姉が黙っていられるわけありません」
姫、と呼ばれた少女はくすくすと笑う。この女房が過保護なのは昔からだが、その溺愛っぷりはとてもおかしく、とても愛おしい。
「ところで、皐月。いつ髪梳きは終わるの?」
「……また抜け出されるおつもりですね」
少女はうっと肩をすくめた。
「だ、だって、お邸に籠ってるの、つまんないんだもん…」
「
皐月が嗜めるような声で名前を呼ぶ。晶子はその声の静かな気迫に押されて、黙り込んだ。
「もうすぐ出発するのですよ。今日ぐらいは我慢していただかないと」
「で、でも…」
「でも、じゃありません」
ぴしゃりと叱る皐月。晶子は難攻不落の壁を前にして、「はあい」と仕方なく折れた。
そんな中、外の砂利を踏む音が近づく。庭の方に視線をやると、一人の青年が駆けてきた。
「姫様、皐月様、車の用意が出来ました」
「ねえねえ
「私は姫様の美しさを解さない者たちのことが気に食わないだけです。全ての殿方のことを言ったわけではありませんわ」
菊丸は苦笑した。相変わらず仲の良い二人だなあ、とぼやく。
「まあまあ、皐月様もあまり愚痴ばかりをこぼして怖い顔をしていると、皺が増えますよ」
「なっ!?菊丸、貴方ねえ!」
「さあ、晶子様。帰りの支度をしましょう。私も手伝います」
何事もなかったかのように、平然と振る舞う菊丸に、シワが増えるような年齢ではないと憤慨する皐月。
それを笑って見守る、晶子の絹糸のような白い髪が儚げに
既に裳着も終えた成人の姫君である。
白い髪を持ち、その姿から「
「白絹姫」の名付け親である女房の皐月と橘家に仕えている家人の菊丸とは、主従関係でありながら幼馴染でもある。
さて、この晶子。皐月も手に余るお転婆姫である。貴族の姫と言えばおしとやかに、麗しく、華やかな所作が求められるというものだ。しかし彼女は木にも登るし、塀も登るし、犬と追いかけっこをするなど、少女時代の名残というには元気があり余り過ぎている。
そんな彼女がついこの間提案したのが、「桜を見に行こう」。具体的には吉野に二泊と三日。気分転換の小旅行である。
それを終え、吉野を出立して都に帰ってきたのは黄昏時と呼ばれる時間だった。
「皐月?」
晶子は皐月の顔を覗き込んだ。長旅とおてんば姫の相手で疲れたのか、うたた寝をしている。
「来年も行こうね」
くすりと笑い、誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
その時だった。
牛車が突然歩みを止めた。その振動で皐月が起きる。物見から外の様子を伺う。
「菊丸、どうしたのですか?」
菊丸は後ろへ周り、簾を跳ね上げた。
「失礼します!二人とも、早くお降りになってください!何者かが牛車を止めているようです!」
「どういうことですか!?」
晶子は慌てている二人をよそに、前簾の方を少しだけ上げた。そして、はっと息を呑む。
「……っ!」
晶子は思わず息を呑んだ。見れば額から角を生やし、醜い顔をした生き物が牛と車の車輪を止めている。
「あれは……鬼……?」
鬼。その単語を聞いた皐月と菊丸は晶子を守る体勢に入った。皐月は晶子を抱きしめ、菊丸は腰の刀に手を掛ける。しかし、二人には何も視えていない。視えない敵に警戒を強める。どれほど時間が経過しただろうか。先に動いたのは、視えない妖だった。
ぐらり、と屋形が傾いた。
「え」
三人が同時に呟く。ふわふわと宙に浮いている感触がある。
「菊丸!」
「ぐえっ」
皐月は咄嗟に落ちそうな菊丸を、襟首を掴んで引き入れた。ごうごう、と風が唸るような音が聞こえる。
そして妖に操作を乗っ取られた牛車は。
「きゃあああああああああああ!!!!!」
皐月の悲鳴と共に、速度を上げた。
「ん…」
晶子が目を開けると、辺りは驚くほどに静かだった。隣を見ると、気を失った菊丸の上に、同じく気を失った皐月が重なっている。
晶子はそっと前簾を掲げた。もうほとんど日は沈みかかっている。赤い日の光に照らされたその目の前の光景に、唖然とする。
「わあ……」
築地塀はなく、色鮮やかな草木花に囲まれ、優々と邸が構えられているそれは、都では見ることのできない景色だった。
「うんしょ」と屋形から降りる。牛車だったはずの乗り物は、車輪もなく、ただの籠と化していた。
歩くたびにずるずると袿を擦ってしまい、晶子は渋い顔をした。これではせっかくの袿が汚れてしまう。
「邪魔だから…今なら脱いでもいいかな」
綺麗に着飾るのは女としての嗜みです、と耳にたこができるほど聞かされた言葉が脳裏を過ぎる。皐月の様子を伺うが、まだ目が覚めていないようだ。梅重ねの袿何枚かを脱ぐと、無造作に中に置く。一枚だけ薄紅の袿を羽織り、身軽になった晶子は邸に向かって歩き出した。
背丈より長い髪も擦らないように腕に巻きつける。いっそのこと切ってしまおうか、とも考えるが、これまた皐月にこっぴどく叱られそうなので止めておいた。
「誰が住んでるのかしら?あの鬼たちはどこにいっちゃったのかしら?」
幼子のように、未知なる土地に恐怖より好奇心を抱きながら、軽い足取りであたりを歩く。
ててて、と小走りで
「どういうことか説明しなさい!」
「うう…だってよお…」
「…………」
何かに怒っているような女性、沈黙して座っている青年、そして、先程の鬼達が縮こまっている。
「私はあんなものを持って帰って来いとは言ってません!ただただ大根を買ってきて欲しかっただけよ!」
「う…ごめんなさい…
鈴鹿御前と呼ばれた女は腰に手を当て、仁王立ちになる。二十代くらいだろうか、美しい黒髪を一つに結い上げ、珠の付いた簪を挿している。麗しい顔立ちは人間のものではない。
「全く…どうしてくれるのよ……」
「今すぐ返して来い」
冷たい声音にひゃあと鬼達が震え上がる。青年から逃げるようにして、晶子が隠れている柱まで転がってきた。青年は鬼達を一瞥すると、視線を上げた。その先にいる晶子が鬼たちを心配そうに見ている。
「ええと…大丈夫…?」
カタカタと震えている鬼達に晶子は手を差し伸べる。そんな晶子の行動が意外だったのか、鈴鹿御前が目を見張った。鬼たちも目を瞬かせる。
「お前、オイラ達が怖くないのか…?」
「?昔から妖怪は見慣れてるもの」
晶子が首を傾ける。お互いに目をぱちくりとさせ、不思議そうに見ている。
すると晶子は鬼達を抱き上げ、青年の方を見た。
「ダメですよ。こんな小さい子たちを怯えさせたら」
「……そいつらが勝手に怯えてるだけだ」
青年は呆れたように息を吐き出す。その様子を見た鬼達がにんまりと笑みを浮かべて、ここぞとばかりに弁明を始めた。
「俺たちは大将が退屈しないように、この子を連れてきたんですぜ!」
「そうだそうだ!オイラ達は大将を想ってしたことなんだ!」
「黙れ」
やいのやいのと騒ぐ威勢もいいことに、青年の一言で震え上がる鬼達。
「その娘にとっては大きな迷惑だ。いいから今すぐ返して来い」
青年の瞳に鋭さが増し、否と言わせない雰囲気が肌を刺す。晶子はおずおずと手を挙げた。
「あの、牛車がぼろぼろで……帰ろうにも帰れません」
鈴鹿御前と青年が絶句した。二人の気配が小鬼たちに対して明らかに怒気を帯びている。
「ご迷惑でなければ、一日だけでも泊めていただけるとありがたいのですが」
「それは別にいいんだけど……こんなところに居たいだなんて、貴女意外と肝が据わってるのね」
鈴鹿御前だけでなく、周りの鬼達や青年も不思議そうな目で晶子を見ている。
「貴女、もしかして見鬼?私達にも全く動じていないものね」
「え?その…鈴鹿御前様?も鬼なんですか?」
「ええ。そこにいる男も私も、ここに住んでいるのは皆鬼よ」
晶子はぽかーんとした表情をしていたが、すぐにきらきらと目を輝かせた。
「わあ…!私、一度でいいから妖と遊んだりおしゃべりしたかったんです…!」
無邪気な晶子の言動に鬼達がひそひそと話し合う。
「な、なあ、あのお姫様ものすごく楽しんでるぞ」
「人間は鬼って聞いたら大体逃げ出すのにな」
一方で、鈴鹿御前は青年に視線を投じた。
「貴方はどう?」
すると青年はおもむろに立ち上がり、晶子の前に立ちはだかった。
「帰れ。ここは人間のいる場所じゃない」
「むー。もっとお喋りしたいです」
「駄目だ」
「帰ろうにも帰れません」
「送らせる」
「ふっふっふー。私知ってます。都には結界があると思うのですがどうするおつもりですか?」
どや、と得意げに胸を張る晶子。はあ、と青年が嘆息する。確かに送ろうにも、都には結界が張り巡らされているし、鬼が都に入れば何をしに来たのだと陰陽師達が勘繰るだろう。
その様子を見ていた鈴鹿御前が、そっと青年に耳打ちする。
「ここで人間に伝手を作っておけば、いつか役立つと思うのだけれど」
「…………牛車を修復させる。その間は好きにすればいい」
そう言い残すと青年は踵を返して、奥に入っていった。
「さて、ちゃんと自己紹介をするわね。私は鈴鹿御前。昔は鈴鹿山の鬼だったのだけれど、今はここで暮らしているわ。鈴、と呼んでちょうだい」
「私は橘しょ…」
「待って。人間界では実名は伏せるのが一般的じゃないかしら?ここは私以外、基本的に男ばっかりだから、通り名を教えてくれると助かるのだけれど」
晶子はいつも皐月に言われていることを思い出した。普通、実名は家族か夫しか知らない。通り名を付けておきましょう、と前に皐月と考えたことがあった。
「ええと、白絹姫なので…きぬと呼んでください」
「わかったわ。きぬ、少しの間だけれどよろしくね。敬語も使わなくて大丈夫よ」
鈴鹿御前が微笑む。妖艶な表情に思わず見惚れてしまう。
「さあ、貴女の連れの方々を起こしにいきましょう」
「う……?」
皐月は頭痛を覚えながらゆるゆると目を開けた。そして、菊丸の上で気を失っていたことに気がつく。
「!菊丸、菊丸!」
ゆさゆさと菊丸を揺さぶって起こす。すると、菊丸もまた、ゆっくりと瞼を上げた。
「……ああ…あなたは天女でありますか…」
「なっ…!しっかりしなさい!」
意識が朦朧としている菊丸の思わぬ発言に顔を赤らめ、先ほどよりも強く揺さぶる皐月。その強さに何度か菊丸の後頭部が壁にぶつかる。
「あいたっ。はっ!皐月殿…?ここは?」
「わかりません。姫様は一体何処に…」
姫の不在を知ると二人はさあ、と青ざめた。もしや妖に連れて行かれたのだろうか。妖に連れて行かれたとしたら、何のために。
最悪の状況を想定してしまった皐月の顔が白くなっていく。
「さ、皐月殿!しっかりなさってください!」
「き、菊丸こそ落ち着きなさい!」
互いに慌て慰めを繰り返している。その時、簾が不自然な動きをした。
「ばあっ!!!!!」
「ぎゃああああああああっ!?!?!?」
皐月が菊丸に縋りつき、年に一回くらいの二人の大絶叫が響く。しかし、跳ね上げられた簾の下には白い髪の少女が満面の笑みで覗き込んでいた。
「えへへ〜びっくりした?」
「えへへー、じゃありませんっ!それよりも無事なのですか!?」
「なんとも無いわ。元気だから探索していたの」
皐月と菊丸がほっと肩を撫で下ろす。二人にとって晶子は自分の命よりも大切な存在なのだ。
「ねえ鈴、この二人は貴女の事視えないの?」
「いいえ?私は元から視える存在だけれど、他の子たちのことも、此処の特別な結界で視えると思うわ」
知らない声に皐月と菊丸が硬直する。特別な結界?見える?どういう事だ。
簾を上げて、人間離れした相貌を持った女が顔を覗かせる。
「あらこんにちは。ちゃんとした女房と従者がいるってことは、きぬ、貴女そこそこ身分が高いお姫様なのね」
「そりゃあ橘の姫だろ?」
「藤原や源氏に押されているとはいえ、有名な貴族の名だもんな」
鈴の声に加えて二つ。いや気配からして四つ。いつのまにか皐月と菊丸の足元に、小柄な体躯に角が二本や一本の生き物が座っている。
「きゃあああああああああああっっ!?」
皐月が悲鳴をあげる。見鬼でない二人は、初めて見る人ではないその姿に恐れ慄いた。
「おお。良い怖がりっぷり」
皐月の反応が満足のいくものだったようで、小鬼たちはにこにこと笑顔になっている。
小鬼たちは晶子ののほうへ寄っていくと、衣の袖を引いた。
「おきぬー、遊びに行こうぜ!」
「俺たちがいろんな遊び教えてやるよ!」
「あんたたちー、夕餉までには帰ってきなさいよー」
「はーい!それじゃあ鈴、皐月、菊丸、行ってきまーす」
きゃっきゃとはしゃぐ小鬼たちを抱き上げて、晶子は山の方へ消えていく。
「三人とも仲良くねー!」
そう言い置くと、晶子の姿は完全に見えなくなった。何が起きたのか未だに理解するのに時間を要している皐月と菊丸の二人は、暫く固まったままだった。
「さて、あなたたちはこれからどうするのかしら?」
「………どう意味ですか」
鈴は妖艶な笑みを浮かべた。
「お姫様つれて逃げるもよし。私たちを斬っていくもよし。まあ、あの子はここに居たいみたいだけど」
「……」
「まあ私たちを斬っていくなら、全力で抵抗するからそれなりの覚悟は必要かもね」
淡々と口調を変えずに告げられた最後の言葉は宣戦布告ではなく、お前たちは弱いのだからという勝利宣言にも聞こえた。皐月は精一杯平静を装って、鈴と呼ばれた女性と対峙する。
「……一刻も早く立ち去りたいところではあります。しかし、姫様があのご様子、牛車は大破。ここにとどまるという選択肢しかないのでしょう?」
皐月が菊丸の袖をぎゅっとつかむ。鈴はその手が僅かに震えていることに気が付いた。その様子にくすくすと笑う。
「今回はあの小者たちが勝手に連れてきた被害者だものね。客人として丁重におもてなしするわ」
鈴が優雅に衣を翻す。そして、二人を振り返ってにこりと微笑んだ。
「貴方たち、川魚はお好き?」
夕餉の席。晶子は小鬼たちを抱えて廊下に立ち尽くしていた。それもこれも、目の前にひろがる光景に唖然としたからだった。
「すごい……」
小さいものから大きい鬼まで、ざっと数えて五十。いや、ほかの部屋からも聞こえる声からして百は居る。その中に、萎縮している女房と舎人を見つけた。
「皐月、菊丸、ただいまー」
「姫様は今までこのような生き物たちが視えていたのですね……」
「…………」
若干菊丸の顔が引きつっている。一方で皐月は終始無言だったがこちらも同じく口元あたりが引きつっていた。
「あらおかえりなさい。ほら、そこに座って。夕餉の支度はできているから」
鈴が両手の膳を晶子と皐月の前に、鈴の後ろからついてきた童姿の鬼が、膳を菊丸の前に置く。小鬼たちは晶子の手からぴょんと飛び出ると手を振って駆けていく。
「じゃあなーおきぬー!」
「俺たちも自分たちのところでたべてくるぜー」
呑気に駆けていく小鬼の背を見て、鈴はそっとため息をついた。あんなに怒られていたのが、反省の色が微塵も感じられないほど立ち直っている。もう
「鈴鹿御前様―!盃の数がたりないようです」
「はあ、また?いったい誰が使ってるのよ……」
鈴が額を抑え、渋面になる。その顔には疲労困憊と書かれているような気がする晶子であった。
「す、鈴鹿御前……!?」
突然声を上げたのは菊丸だ。思わぬ声の主に皐月と晶子が驚いてそちらを見る。鈴も驚いている様子だった。
「そうよ?あら、そういえば貴方達二人には自己紹介がまだだったわね」
「菊丸、知ってるの?」
晶子が菊丸に問う。
「知ってるも何も、鈴鹿山の鬼で有名な鈴鹿御前!田村将軍と剣を交え、さらにその妻であるとされるものすごい方ですよ!何かの絵巻か書物で見たことがあります」
菊丸が前のめりになりながら、興奮気味に語る。鈴鹿山、という単語には皐月も聞き覚えがあった。御世は
「もうっ、田村様と仲睦まじいだなんてっ!確かにすっごく愛しあっていたし?すっごく仲良かったし?でも後世にまで仲睦まじいって言われちゃうとさすがの私も照れるというか~、恥ずかしいというか~!」
赤くなった頬を押さえながらもじもじと照れる鈴。その様子を見ていた周りの鬼たちがひそひそと言葉を交わす。
「鈴鹿御前様、田村将軍との話をされると人柄が変わるんだよなあ」
「恋する乙女ってやつ?」
「あの様子じゃ、四刻ぐらい惚気るぞ」
不意に鈴が鬼の方たちをくるりと振り返った。ひっ、と鬼たちが震え上がる。満面の笑み、しかし隠しきれない圧が滲み出る。下手をすれば、大将と呼ばれる青年よりも怖い存在なのだ。
「じゃあ子供はいるの?」
「ふふっ、娘が一人いるの。見た目はきぬと同じ年の子よ、もう可愛くて可愛くて…!」
皐月は鈴の「見た目は」という言葉に思わず引っかかった。つまり実齢はそれよりも下か、上だということだ。妖の場合、実齢の方が上回るのだろう。
「娘はね、田村様に瞳がそっくりで目つきは悪いんだけど優しい瞳をしているの。あ、どうぞ気にせず食べてね。あと甘えん坊なのよね〜」
鈴の家族話が止まらない。「いただきます」と3人は手を合わせて夕餉をいただく。
鈴の話は、鬼たちが予感したように約四刻続いた。
まだ夕餉の席の活気は収まらない。鬼達は、久方ぶりに出会った人間に興味津々だった。
「都は今どんな感じなんだー?」
「誰が政権を握ってるんだろうなあ」
「有名人とかいるのかー?」
意外にも大から小まで様々な鬼たちが友好的に話しかけてくる。その受け答えを晶子と菊丸が主に担当する。皐月はというと、怯えて菊丸の後ろに隠れていた。
「有名人……今は藤原道長様が、朝廷を仕切っていらっしゃるとか」
「おー。道長というと、兼家の四男坊だろー?相変わらずだなー」
「よ、呼び捨て……」
時の権力者、道長を呼び捨てにできるのはそれこそ帝かその家族くらいだというのにこの鬼達は。と菊丸が絶句する。
ふと、晶子は昼に出会った、大将と呼ばれた男の姿を見ていないことに気がついた。
「ねえ、あの大将って呼ばれていた男の人はいないの?」
その質問に、鬼達は困ったように眉根を寄せる。
「あの姿と食事を共にしたことは一度もねえな」
「そうそう。すっげえ強いしかっこいいんだけどな」
「……あの方は人間を嫌っておられるので」
「俺たちにも冷たくなったし」
「多分今は部屋にいると思うぞ」
晶子は鬼達の話を聞き、部屋がある方角を見た。まだ彼の名前を聞いていない。
この鬼達にも自身の名前を聞いたのだが、名前はないと答えが返ってきた。晶子は流石に百もいる鬼全員にちゃんとした名前をつけていると時間が足りないと考え、見た目から簡単な呼び名を付けていった。
例えば、ここにいる好奇心旺盛な5人の鬼。右から右片角の右鬼、左片角の左鬼、草を噛んでいる草鬼、魚のような鰭がある魚鬼、羊のようにもこもこしている羊鬼。
全て晶子が見た目から考えた呼び名だ。それを伝えたところ、5人は大層喜んだ。
「やった!名前をもらったぜ!」
「みんなに自慢してこようぜ!!」
などと言いながら去って、戻ってきて今に至る。
そこに、食器を片付けに行っていた鈴が戻ってきた。手には二つ御膳を持っている。
「あら、大分仲良くなったのね」
「鈴鹿御前様〜!聞いてよ!俺たちおきぬから名前を貰ったんだぜ!」
「よかったわね。きぬ、ありがとう」
鈴の瞳が優しい。彼らの母のように、姉のような存在なのだろう。
「鈴、どこ行くの?」
「あいつのところよ。持って行かないと、ご飯食べないから」
鈴の視線の方角には、大将と呼ばれた男の部屋がある。
齢十五の少女は、好奇心を抑えられなかった。
「ねえ鈴、私もお手伝いしてもいい?」
「あら、じゃあお言葉に甘えようかしら」
鈴が持っていた膳の一つを受け取ると、晶子は鈴と共に男の部屋へと向かった。
「おきぬ、すごい順応力だよなあ」
「普通はみんな怯えて縮こまってるぜ。あの女房のように」
右鬼と左鬼が菊丸の後ろに隠れて見ている皐月を指差す。
皐月が不満げに目を据わらせる。
「なんですかその目は」
鬼達はにんまりと笑みを浮かべる。
「いや?」
言葉とは裏腹に、鬼たちは悪巧みを思いついたような顔をしていた。鬼達の玩具にされているような気がして、皐月は不満この上無しといった表情を浮かべていた。
「入るわよー」
鈴が声をかけるが返答はない。
「全く……どこ行ったのよ……」
無造作に置かれている円座の前に、取り敢えず膳を置く。
「きぬ、ちょっとここで夕餉の見張りをしておいてくれる?私はあいつを探してくるから」
「うん!……見張り?」
晶子が首を傾げる。思わず返事をしてしまったが、見張りとは一体なんだろう。
「小鬼たちが食べにくるかもしれないからね……」
鈴は肩をすくめる。確かに小鬼たちはよく動き、よく遊び、よく寝ている。これだけ活動的なのだから食欲旺盛なのも頷ける。
まるで幼い子供のようだ。
「わかった。行ってらっしゃい」
晶子は満面の笑みで鈴に手を振った。それに応じるように、ひらひらと手を振って鈴が男を探しに行く。
さて、どうしたものか。
晶子は膳のそばに正座した。既に日は落ちている。だが、木々の隙間から見える空の彼方には、まだ陽光の名残が残っている。
「素敵な所……」
自然にあふれ、聞こえるのは鬼たちのにぎやかな声と、木々のざわめき、微かに聞こえる鳥の鳴き声。
ふと、それが止んだ。
「お。なんだ美味そうなのがいるな」
声の方を振り返ると、額から角が生え手に刀や斧を持った鬼が三人もいた。
「?此処の鬼の人たち?」
「いいや?俺たちは酒呑童子退治に来たのさ」
「しゅてん……?」
聞きなれない単語に晶子は首を傾げた。
「分からなくてもいいさ。お前は俺たちが喰っちまうからな!」
殺気立った鬼たちから逃げようとしたその時、目の前で一人の鬼の首が刎ねた。鬼たちの意識が晶子から、首取りの犯人へと変わる。
不気味に揺れる長髪と、合間から除く金色の瞳。着崩した狩衣で、その者の正体が大将と呼ばれていたあの男だということが分かった。
月光を反射する太刀は、紅い雫に濡れている。
「な、なんだお前!」
「しゅ、酒呑童子が出たぞおおおおおおお!」
鬼の声を皮切りに、木の上、木の影、草むらから続々と鬼たちが飛び出す。男、酒呑童子はあっという間に囲まれた。
だが、それに動じることもなく、静かに佇んでいる。
「やっちまえ!」
一斉に鬼たちが酒呑童子へと襲い掛かる。しかし、一振り、又一振りと太刀をふるう度に、鬼の数が減っていく。鋼がぶつかる音、土を踏む音、鈍い音、倒れる音が重なる。
あまりにも圧倒的な戦闘に、晶子はただ呆然とするしかない。十は超えていた鬼は、瞬く間に屍の山と化した。
酒呑童子は幽鬼のように佇んでいた。光のない眼で鬼だったものを見下ろし、白い肌、白い衣は所々赤く染まっている。
「きぬ、あんまり見ない方が良いわよ」
「姫様!」
「一体何が……、っ!」
ただならぬ男の様子に、皐月は晶子を抱きしめ、菊丸は二人を守るように刀に手を掛けた。男が刀の切っ先を菊丸に向ける。菊丸はひるむことなく、刀を抜いた。
「……ふうん」
その様子を、鈴が興味深そうに眺めている。
あの鬼を前に、ひるむことなく、後退することなく面と向かえるとは。
男と菊丸が動いたのを鈴が視界の隅でとらえた。
刃がぶつかる音が響き、長い黒髪が翻る。
「やめなさい、二人とも。あれの外に血を流す必要はないでしょう」
左手の太刀で菊丸の刀を、右手の太刀で男の刀を防ぎながら、鈴は静かに諫める。
菊丸は男二人の剣戟を造作もなく止めている鈴を見て愕然とする。太刀というのは男でも少し重い、と思うほどだというのに、この女人は片手で扱っているのだ。
これが、噂に聞く鬼女・鈴鹿御前の実力なのだと思い知らされる。
男は不満げに刀を収めた。菊丸も刀を下ろす。
男がその場を去ろうとしたとき、晶子が皐月の腕の中を飛び出した。
「あ、あの!」
何をやっているんだと、皐月と菊丸が慌てる。
「貴方の名前を教えてください。ちゃんとした名前を知りたいんです……!」
男は一瞥する。晶子の白い髪が夜闇に浮かんでいる。
「……酒呑童子」
そう言って、男は何処かへ去っていった。
『……違う』
晶子はぎゅ、と両手を握りしめる。
『私が知りたいのは……呼び名じゃない』
だってその呼び名は、貴方自身が、嬉しくなさそうだったから。
「ま、色々と気になるわよね」
「当たり前ですよ!どうして酒呑童子が生きているんですか!」
鈴に詰め寄っているは菊丸だ。晶子と皐月はきょとんとした顔で聞いている。
「貴方達二人は何のことか分かっていないようね」
「ええ。そういう話には疎くて」
「彼も鬼なの?」
鈴はどこから話したものか、と少しばかり思案する。
「酒呑童子とは何者なのか。まずはそれからね」
彼の懐の深さと、豪快な人柄には多くの鬼たちが惹かれ、彼の周りに集うようになった。そして、鬼の力を恐れていた人間たち、酒呑童子を尊敬する鬼たち双方から、いつしか「鬼の大将」と呼ばれるようになったのだ。その頃には、彼の周りには強い鬼から弱い鬼まで、様々な鬼たちがいた。
時は遡る事およそ十年前。大江山に人間たちがやってきた。
率いるは源氏、「
その人間の仕打ちに「鬼に横道なし」と叫んだ童子。童子の声に応じるように強い鬼たちは怒り狂った。彼らは命が尽きるまで人間と争い、残った鬼はたった百分の二十。戦う術を持たない、弱い鬼たちが生き残った。
生き残った頼光は彼の首を持ち帰り、宇治に埋めたという。
「ざっとこんなところかしら」
鈴の話に付け加えるように、近くにいた右鬼、左鬼が口を開く。
「俺たちは二十の中に居たんだ。あれは……思い出したくもないほど酷かったよ」
「そうだ。強かった奴らも、仲良かった奴らもみーんな殺されちまったんだ。残ったのは俺達と、仲間の骸と、数人の人間の死体だけ。中には骸なんて残さずに、自然に還っちまう奴らも多くてさ……」
晶子はぽつりぽつりと話す二人をぎゅ、と抱きしめた。
「……ごめんね……」
泣きそうに呟いた言葉に、右鬼と左鬼が目を丸くする。
「な、なんでおきぬが謝るんだよ。おきぬは何も悪くないのにさ」
「な、なんでおきぬが泣いてるんだよ。おきぬは全く関係ないじゃないか」
右鬼と左鬼が晶子を慰める。
「だって、人間が鬼は怖いもの、鬼は倒さなきゃならないものって、勝手に決めてるからこうなると思うの……」
「姫様……」
皐月と菊丸が俯く。自分たちもその一人なのだ。鬼は怖い。その思いが膨れ上がった時、話のような惨劇を生むのだと、今更気付かされた。それでもなお、ここの者たちは皆優しかった。
「……私、決めた」
晶子が鈴に向かって顔を上げる。
「あの人と、仲良くなる。仲良くなれなくても、一度話をしたいの。それできっと、鬼と人間が一緒に生きることが出来たらいいなって」
まっすぐな瞳が、鈴を映す。鈴はくすりと微笑んだ。
「私は好きよ、そのまっすぐな目。幼い子供故の、純粋な眼」
鈴が愛おしそうに晶子の髪を撫でる。
「貴女の望みは大きくて、その一歩は小さいものだろうけれど、いつかきっと叶うわ。叶う時が貴女のいない遠い未来だったとしても、その夢は諦めちゃだめよ。……これは人間の夫がいた私からの言葉」
うん。と晶子が頷く。
「私ね、皆と仲良くなりたいから、やっぱり教えるね」
右鬼と左鬼の手を握りながら、鬼三人と視線を合わせる。
「私の本当の名前は、橘晶子。晶子っていうの」
この世において、真の名は重要だ。おいそれと他人に教えてはいけないし、知られてはいけない。知ることができるのは、家族だけ。
だが、彼女は、自ら名を告げた。
「しょうこ、かー!いい名前だな!」
「あ、でもおきぬって呼び方は変えないぜ?俺達の名前をくれたのは、おきぬだしな!」
「うん!知っておいてもらいたいだけだから、おきぬで良いの」
三人は笑う。すっかり仲良くなってしまった。皐月と菊丸はそれを眩しそうに眺めている。
それは鈴も同じである。どうかこの日々が、出来るだけ長く続きますようにと、祈った。
「でも、酒呑童子はその話だと死んだ風に聞こえるのですが」
口を開いたのは皐月だ。顎に指をあてて首を傾げる。
確かにそうだ。と晶子と菊丸は鈴に視線を投じた。
「ええ。死んだわ。……色々事情があるのよ。そこらへんは勝手に話すとあの人に怒られるから言えないのだけど」
そう、はぐらかした。
「本当、きぬは面白い子よ。貴方も逃げずにあの場に居ればよかったのに」
鈴鹿御前は衣を縫いながら御簾越しの影に語り掛ける。
「鬼と仲良くなっちゃうし、自ら
かつての夫も少し変わった人だった。何せ、この鈴鹿御前を妻に迎えてしまうくらいだ。しかし、彼は優しかった。蝦夷にも都の人々にも。自分の信念を曲げず、まっすぐに先の未来を見通せる武人だったのだ。
「あの子なら、貴方のことも受け入れてくれると思うけれど?」
「……戯言を」
そう吐き捨てて、影は音もなく去っていった。
「ったく……。ちょっとは素直になればいいものを……」
鈴はそっと嘆息する。丁度衣も出来上がったところだ。艶やかな浅葱色の上着は鈴鹿山の娘に送る物である。
「きぬの衣も作ってみようかしら」
そんなことを呟きながら、出来上がった上着を仕舞う。
ようやく停滞していた気が廻り始めた。あの人間はきっとあの青年を変えてくれる。
そんな希望を抱きながら、燭台の灯りをふ、と吹き消した。
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