もみじがり

@inugamiden

もみじがり

 私は今、東福寺とうふくじに来ている。

 京都、秋の名所として、よく知られる東福寺の朝の拝観は、控えた方がよろしい。寒風一歩前の、さわやかな冷気にもまれ、人波にもまれ、まるで、食パンの耳に食らいつく、鯉の群れの一匹となり果てるだろう。そう悟ったとき、私もまた、鯉の一匹として、口をぱくぱく開閉して、景色を食べていたのだった。南無三なむさん

 そのような屈辱を味わおうとも、見るべき景色であることも、悟った。

 まず、有料区である、通天橋つうてんきょう付近へ入る前に、臥雲橋がうんきょうと呼ばれる、木造の、古色蒼然こしょくそうぜんたる橋を、渡ることとなる。

 弁慶べんけいが、その大槍で、まっぷたつにしてしまいそうな、古めいた橋の中から眺める、寺の紅葉は、ほとんど罪である。

 美を罪と定める仏法もまた砕かれる、寺の庭とは、どのような皮肉か。私は、ない頭で考える。そもそも、仏法では、も厳禁である。

 さんざめくいろの嵐が、秋空の中、ぴた、と静止し、そのコントラストが、景観の輪郭線を燃やしている。ほとんど全て、紅葉もみじかえでで、構成された、人為の絶景。

 その臥雲橋を、さくさくと越え、有料区へ入ってゆくと、再び、紅葉と楓の、朝日につつまれ金色にかがやく、天狗のおうぎのような葉が、万華鏡をえがいてゆく。そうやって、庭の小径こみちをそぞろ歩くと、まるでくるくると回る万華鏡の中を、闊歩かっぽしている気分だった。

 また、ふかふかの苔を、これら金色を帯びる弁柄色べんがらいろが、落ち葉として、おおっている。そこへ、同じく弁柄色の愛染堂あいぜんどうが、景観のゆうを成して、そびえてくる。

 最大の名所、通天橋が、ごった返している。極楽の野火のような、これら美の劫火ごうかを、一穿いっせんしてゆきながら架かる木造の、悠然ゆうぜんたる橋が、宙を舞うとされる天人の心地を、私を含め、世俗の人々へ、与えてゆく。

 今ここで、秋が壮麗そうれいに、燃やされているのである。

 私は、このようなめくるめく拝観を終えて、境内けいだいを去るとき、ふと足を止めて、ふりかえって、本堂を眺める。

 この、二階層の方舟はこぶねを思わせる、本堂の門が、私を見ている。

 私は、秋のささやかな陽気のなかで、近くひかえる冬のひだを、肌の先で感じながら、一礼した。

 足もとで、砂利がわびしくさびしく、それでいて、あたたかく、鈴のような音で、さり、さり、と鳴った。

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