とろけた煮卵と擦り林檎

えんがわなすび

ラーメン屋

 雲が月を食い潰すような夜だった。

 終電はもうとっくに俺を残して街から出て行ってしまった。息苦しくて緩めたネクタイがひらひらと視界に踊っている。ネクタイはいいよな仕事しなくてと訳の分からないことを考えるくらい、その日は疲れていた。


 終わらない仕事。使えない同僚。自分のミスを部下に押し付ける上司。何もかも嫌だった。これ明日の朝使うからと押し付けたやつは、早々に退社した。ふざけんな。そもそもコピペもショートカットで出来ないオヤジに偉そうにされたくないんだよ。

 また胃がむかむかしてきて、俺はぎゅっと眉間に皺を寄せる。転職したい。でもこの歳で今更受け入れてくれるような会社は少ない。相手が喉から手が出るくらいキャリアがないと、企業は深夜の冷えたアスファルトみたいに冷たい。なんでもいいから明日起きたら会社が爆発していないかなと妄想したところで、俺の冷たくなった鼻に凝縮されたスープの匂いが漂ってきた。

 ふらふらと歩いていたからか、いつの間にか高架下を彷徨っていた俺の前に、ぽつんと灯りが見える。屋台のラーメン屋だ。こんな深夜に、しかももう終電もないような時間にまだ開けてある屋台があるのか。そう思うと、もう俺の足はそっちに引き寄せられていた。

「まだやってる?」

 くたびれて薄くなった赤い暖簾を上げると、小さなカウンターの向こうに皺の寄った親父が寸胴鍋を混ぜていた。じいさんと呼んでも変わらないような年齢に見えた。親父は細い目でちらりと俺を見て、思ったよりしっかりした声で「どうぞ」と座席を促すように見た。

「お兄さん、運がいいね。今日はあと一人来たら終わりにしようかと思ってたんだ。何にするよ」

「とんこつ。一番濃いやつで」

「あいよ」

 初見だったため、この屋台の一番濃いものがどれほどなのか分からなかったが、とにかく今は何か濃いものを胃に流し込みたい気分だった。とんこつがなかったらどうしようかと注文した後に気づいたが、親父は迷う素振りもなく麺を茹で始めていた。

 電車も車も走らない高架下にスープの香りが充満する。中途半端な田舎は深夜を過ぎると駅前すら人がいない。たった二人置き去りにされたような世界で、俺は屋台の明滅する電球を見ていた。

 運がいい奴は、こんな深夜までスーツを着て駅前にいないし、こんな寂れたところで屋台のラーメンなんか食うこともない。その運はもっと他のところで生きてほしかった。またうんざりしてきたところで、目の前にどんと器が置かれた。

 見ただけで分かるどろりとした白濁色に黄金の麺。濃厚な匂いに鼻が犯される。刻んだネギの隣に、とろりとした黄身を蓄えた煮卵が鎮座していた。

「煮卵頼んでないけど、初めから乗ってるの?」

「それはサービスだよ。最後の一個」

 なるほど得した気分だ。レンゲを取り、スープに口をつける。見た目通りどろっとした液体が見た目以上に濃縮した旨味を連れて喉を通っていった。正直、めちゃくちゃ美味かった。麺を掴む。細めのちぢれ麵がどろりとスープを巻き込み、そのまま口に入れるとスープと麺が絡まりあって乾いた胃を潤した。とんでもなく美味い。その辺のチェーン店より何倍も美味い。

 それからサービスだという煮卵を箸で掴んだ。掴んだところから黄身がじゅるりと溶けだし、俺は慌てて半分口に含む。嚙んだ瞬間、絶妙な半熟で口の中が水没した。

 途端、視界がぐにゃりと歪みぼたぼたと水滴が落ちる音がした。

 俺は泣いているのか。そう気づいたときには、視界はブラックアウトしていた。



 畳の匂いだなと思った。俺の好きな、新品の畳の匂いだ。

 目を瞑っていたようで、視界が開けると少し先に木目が見えた。隣では古臭い円形が微かに光って揺れている。

 それが天井に吊るされた常夜灯だということに気づくまでに暫く時間を要した。さらに言えば、そこが実家の俺の部屋だということに気づいたのは、昔いたずらで天井に落書きして消されたキャラクターの絵が微かに見えたからだ。罰として一人で消すよう言われたが、馬鹿な俺は油性マジックなんかで書いたもんだから完全に消すことはできなかった。


 俺は寝ていたのか。頭がぼんやりして瞼が重い。いつ帰ってきたのかも記憶にない。それにしても、実家の天井はこんなに高かったっけ。寝ているからそう見えるのか。

 数回瞬きを繰り返したところで、畳がみしりと音を立てて視界にぬっと人影が入ってきた。

「あら、起きたの」

 母さんだ。そう思って、いやそんなはずはと否定した。母さんは五年前に癌で死んだんだ。俺が看取ったんだ。

 けれど目の前で顔を覗き込む姿は確かに母さんだった。だけど記憶にある最後の姿より随分と若く見える。彼女は俺の頭の横に座り、床に何かを置いた。ともすると甘酸っぱい香りが漂う。考える前に、それが擦り林檎だということを思い出した。風邪のとき、よく母さんが林檎を擦ってくれたんだ。

「母さん」

 紡いだ声が想像より遥かに高く幼くて、俺は吃驚して口に手を当てようとした。けれど何故か体が重く、腕が動かない。重力に負けて抑えつけられているような感じだった。それでも母さんはにこりと笑って俺の額に手を添えた。林檎を剥いた手から甘い香りがして、目尻に皺を寄せて母さんは笑った。

「浩太、つらいね。でも大丈夫よ。母さん、ここにいるから」

 母さんの手は、深夜の冷えたアスファルトみたいに冷たい。途端に俺の目から決壊したダムのようにぶわりと涙が溢れて視界を溺れさせた。子供みたいに声を上げて泣いた。

「かあ、さっ……!」

 嗚咽が喉を止め、無理やり出した幼い声はもう気にならなかった。母さんは一つ大きく頷き、水に溢れた視界でぐにゃりと笑った。

 溢れる涙が止まらない。

 俺の視界は水に溺れ、だんだんと消えていく。



 気づけば俺は、どこか狭い路地裏の朽ちた扉の前で、膝を抱えて泣いていた。

 林檎の甘い香りが夜の闇に溶けて消えた。

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とろけた煮卵と擦り林檎 えんがわなすび @engawanasubi

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