たったのひとつ

〈金森 璋〉

たったのひとつ

 ぐらりと視線が歪んだ。

 気持ちの良いトリップの世界に、身を浸す。

 極彩色の錠剤に、甘い香りのコーヒー。ローテーブルの上に置いた薬の抜け殻は山になっている。

 お気に入りのパーカーだったものが、そこらへんにずだずだになって置き去られているはずだ。

 どうしてずだずだになっているんだっけ。思い出そう。うん。どうして、なんだっけ。

 じっくり、じっくり、意識の波を泳いで記憶に潜る。深海のようなその場所は、実に真っ暗で苦しいくらいに静かだ。

 僕は泳ぐ。暗い静寂を進んでいく。

 そうだ。

 あの子を、殺してしまおうと思ったんだ。

 強く、強くそう思った。それだけを考えればいいと思った。叶えたくなかったけれど、叶ってほしいと強く願っていた。

 だが、まず恐怖が先に出た。

 それに耐えきれなくなって、精神安定剤と抗不安剤と向精神薬をあるだけ引っ張り出してきて、機械的に殻を剥いて、殻はテーブルの上に放り出し、薬そのものはミディタンブラーの中へ。

 そのタンブラーが白やピンクや青や緑のパステルめいた極彩色に染まりきったところで、僕は一気にそれを呷った。

 細かい砂利のように口の中へと流れ込んでくる薬剤、薬剤、薬剤。苦いものもあれば痺れるものもあり、中には甘ったるいのに酷くケミカルな味がするものもある。

 おいしい、と。思い込むことにした。そうしたら飲み込める気がするから。

 口の中に薬剤を詰め込んだまま上を向き、危うい手つきでテーブルの上のマグカップを引っ掴む。その中身のコーヒーで錠剤を喉の奥へと流し込もうというのだ。

 少々零れたが、噛み砕くようにすることでなんとか飲み込むことができた。

 これで良い。これで、恐怖に打ち勝つことができる。

 次は、抵抗感に打ち勝たなければならない。これは薬が回ってからではできないだろう。僕とあの子で買ったお気に入りのパーカー。どっちが着ても似合うね、と褒め合った、あのパーカーを出してきて、カッターナイフを突き刺した。

 布を引き裂く、糸が攣れる。もう一度、放して刺して、引き裂く、糸が攣れる――破れる。

 何回か繰り返しているうちに、あの子を殺している気分になってきた。

 自然と、頬が緩む。これできっと、僕はあの子のことを殺してあげられるのだ、と。

 どんなに願っても死んでくれない、あの子を殺すことができるのだ、と。

 思った瞬間、意識を手放した――


 ――手放された意識は、私が拾った。

 私は、呆然と布切れの残骸と成り果てたパーカーを見た。これは、私が大好きだったあのパーカーだ。どっちが着ても似合うね、褒め合った、あのパーカーだ。

 どうして、と口に出す間もなく、次の一波がくる。

 がん、と。

 頭を殴られたような揺れが、私を襲った。

 私は思わず、痛みと揺れに怯えうずくまる。痛い、痛い、痛い!

 きっと、あれが関係しているのだろう。抜け殻にされた、あの薬剤シートの山が。

 わかっている。これがあの子のやりたいことなのだ。私はそれに耐えなければならない。私はそれを堪えなければならない。私がそれに耐えなければならない。

 呑め、噛み砕け、飲み下せ、熟せ、昇華しろ。

 それが出来なければ、あの子といる意味なんかこれっぽっちもないのだ。

 理詰めで自分を制していく。

 本能の中に理性という冷媒を流し込み、ひたすら命を冷却する。そうしないと、私自身から出る怨嗟で焼け死んでしまいそうだった。

 こんなことをして、何になるの? 何度あの子に問うたかわからない。もちろん、何度目かの頃には無意味だとわかってきていた。それでも聞いた。結果、何にもならないという何にもなれない回答が返ってきた。

 ずだずだのパーカーを私は抱きしめる。思い切り、泣く。子供みたいに惨めったらしく大声で泣き叫ぶ。三歳児でももっと理性的な泣き声を上げるだろう。

 泣いて、泣いて、咽せる。咽せ返る。極彩色の嘔吐物が、私の喉からあふれ出した。

 咳をするたびに、蛙のような声が出て、次いで喉から嘔吐物が溢れる。どんどん、こんなに飲んだのか、と思うほどにたくさんの薬の成りそこない、否、溶けそこないがカーペットとパーカーを濡らした。

 大事なものだったのに、こんなに汚れて破れて、まだ愛する必要があるのか。

 そう考えると、いっそう涙が出てきたが、涙とともに嘔吐物も出てくる。ひとまず、それが治まるのを待つしかなさそうだった。

 しばらく経って、う、ああ、と呻く声が耳に響いた。聞き慣れた声だと思ったら、自分の声だった。気持ち悪い声だった。

 もう何もかも嫌だった。パステルめいた極彩色の世界に、空想の世界に、身を浸す。

 このまま眠ってしまえれば、上々だ。

 だから、意識なんて放り出して――


 ――そして。


 僕たちに平穏は訪れた。

 私たちに平穏が訪れた。

 僕が殺されることになったのだ。

 私が殺すことになったのだ。

 僕はそれで満足だ。

 私はそれが不満だ。

 けれど――


 ――意識と、身体は、たったのひとつ。

 さよならばいばい、またねはないよ――



【了】

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たったのひとつ 〈金森 璋〉 @Akiller_Writer

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