第二部 6


 エリの〈パルテンザ〉は一旦閉店し、新たに本格的でより大規模なイタリアンレストランとして移転リニューアルオープンするまでの間、タカモリの店でのヘッドシェフ兼マネージャーとしての研修が始まった。研修初日、タカモリはエリを研修を担当するシェフ、ナカノに紹介した。

「彼、まだ三十歳と若いがなかなかのやり手でね。将来有望なシェフだ。分からないことは何でも教えてくれるよ」

 エリはナカノと向き合い挨拶した。「よろしくお願いいたします」彼女は丁寧に頭を下げた。

「こちらこそ。よろしくお願いいたします」ナカノはそう言うと手を差し出した。エリも手を差し出し、二人は堅く握手した。エリはその時からすでに彼女の心がナカノの端正なマスクに惹かれているのに確かに気づいていた。

それ以来彼女は毎日彼と会うのを心待ちし、彼との研修は大きな喜びとして彼女の胸の中で膨らんでいった。だが、その喜びは胸の中に押し留められ決して暴露されることはなかった。これは厳格にビジネス上の関係だ。それは決して破られることが許されない戒律だった。彼女はタカモリとの交際とそれによってもたらされるステイタスを優先し、慈しみ、育み、守り通した。それが彼女の戦略的な選択だった。

ただ外面的には戦略に束縛されていた彼女だったが、内面においてはいかなる束縛もなかった。内面においては彼女の欲望はその胸を暴力的に突き破り、戒律を破棄し、ステイタスは二の次となった。エリは妄想の中でナカノと結ばれ、愛し合い、タカモリを追放し、監禁した。

 ナカノとの研修は終わり、〈パルテンザ〉はリニューアルオープンした。タカモリの配慮で経験豊富なスタッフも多少は配置されてはいたが、まだまだ経験の足りないエリにとってトップとして店を切り盛りするには困難が伴った。だが、この困難は彼女にとってある種の福音となる。エリはタカモリにお願いした。

「ねえ、ナカノさんにこの店手伝ってもらえないかしら」

「無理に決まってるだろ、あっちだって大変なんだから」

 最初はそんな感じに断られたが、その後、もっと断られにくそうなタイミングを入念に選び、再度頼み込んだところ、彼女はタカモリを説得し、ナカノを〈パルテンザ〉のスーシェフとして迎え入れることに成功した。

 ナカノは周りの倍のスピードで動き、倍の量の仕事をこなした。出来る奴が一人入るだけで突然全てが快調に回り出すパターンだった。エリはナカノの素早く効率的な仕事振りを目の当たりにして、不覚にもますます好きになってしまった。暴風雨による洪水で堤防は決壊寸前だった。敵の決死の猛攻撃で防壁は突破寸前だった。爆撃機の急降下爆撃で空母は沈没寸前だった。

エリはナカノに屈し、二人は愛し合った。エリはナカノのペニスを咥えじっくりとそのしっとりとした口腔と舌で愛撫した。彼女は彼の固く勃起したペニスを彼女の女陰に迎え入れ、歓待し、喜びと快楽を共にした。

彼女は至高の幸福を獲得し、それを維持したいと願った。だが、そこにはあからさまに厄介な障壁があった。それは決して打倒できない障壁に思えた。

エリはそのことをナカノに伝えた。ナカノもその障壁を的確に認識してはいたが、実のところ、その認識は必ずしもエリと同様ではなかった――彼にはちょっとした切り札があった。

「実はちょっとした切り札があるんだ」

 ナカノはホテルのベッドでセックスの後、エリにそう打ち明けた。

「どんな切り札なの?」エリは興味津々だった。

「前にある先輩がいたんだ。もう死んでしまったんだけど」

「死んだ?」

「殺されたんだ」

「ちょっと待って、それ新聞かなんかで読んだかも。タカモリの部下だった人ね」

「ああ、その人だ。その先輩は優秀で頼りがいがある先輩だった。タカモリさんからも信用され、タカモリさんの右腕としても活躍し、実質的にこのグループのナンバー2だった」

「へえ、素敵な先輩だったのね」

「だが、その先輩はナンバー2では満足していなかった」

「なかなかナンバー2を目指して頑張る話も聞かないしね」

 ナカノはエリの言葉を聞いて深く吟味してゆっくり噛み締めるように頷いてから次の言葉を口にした。

「先輩はクーデターを画策していた」

「クーデター……」

「そう、クーデター。裏切り、反逆、背反行為だ」

 彼はクーデターの具体的計画内容についてエリに説明した。店舗用地を確保し、銀行から融資を受け、タカモリのグループからスタッフを引き抜き、新たに独自のレストランを開店し、その先輩がトップとして運営する。

「引き抜き行為は民事訴訟で賠償金請求出来る違法行為だけど、実際はその違法性を法廷で立証するのは困難でカネもかかる。度胸を決めて迅速に事を運べば絶対に成功する。先輩はそう読んでいた。だが先輩はそれを実行する寸前に何者かに殺害された」

「そうだったんだ」

「結果としてはクーデターは失敗に終わったが、全てが無駄だった訳ではない。先輩は銀行に融資を申し込む際、有利になるように高額な謝礼を払って、完成度の高い事業計画書を経営コンサルタントに作成させていたんだ。先輩はそれを融資担当者に見せてかなりの好感触を得ていた」

「まさか、その事業計画書って」

「僕のパソコンの中に拝借したコピーがある。昔、スパイに憧れてたんだ」ナカノは不敵な笑みを浮かべて言った。「これがあれば、先輩がやろうとしていたクーデターを実行出来る」

「度胸を決めて、迅速に事を運べば」

「どうだい、ちょっとした切り札だろ?」

 ナカノの不敵な笑みはいつしかエリにも伝染していた。クーデターか。なるほど、その手があったか。彼女はじっくりと〈その手〉を吟味してみた。私はこれまでクーデターなんかやったことがない。言わばこれは私にとっての初クーデターだ。初クーデター、初民法違反。初めての犯罪。いや、初めての犯罪ではないかもしれない。初めてではないかもしれないが、これほど入念に企図され敵を破滅に陥れる目的を持った本格的な禍々しい犯罪としては、これがきっと初めてだ。だが、もし失敗したとしたら……その先輩も、ひょっとしたら、クーデターを企んでいるのがバレて、タカモリに殺されたのかもしれない。あいつに人殺しをする度胸があるとは思えないけど、他人にやらせた可能性だってある。私も失敗すれば殺されるかもしれない。けどクーデターと名のつくほどの行動だったら、逆にそれくらいの危険がなければ面白くないかも。いや、あって当然だ。危険であればあるほど成功した時の快感も凄まじいはず。クーデター。やってやろうじゃない。絶対やってやる。でも、ただ闇雲に突き進んじゃダメ。事は迅速且つ慎重に進めなくては。失敗する原因として可能性が最も高いのは何? 情報漏洩だ。情報漏洩を防ぐ為には秘密を知る人間を最小にしなくてはならない。ということは、引き抜く人数も必要最低限に抑えるべきね。それに、誰を引き抜くかも重要だ。下手に野心がある奴は避けるべきね。野心がある人間は計画をタカモリに密告し、出世しようと企むかもしれないじゃない。後賢い人間もダメ、賢い人間は何を企むか分かったものじゃない。野心があまりなく、それほど賢くない人間に絞るべきだ。さて、候補となるのは誰々だろう。しっかり吟味して選ばないと。ただしっかり選んだとしても絶対に裏切らないとは限らない。失敗する可能性も、殺される可能性も最小にすることは出来てもゼロにするのは無理。どこまで入念に準備したとしても、これは本質的に危険なギャンブルだ。最後は勇気を持って実行するしかない。やるか、やらないか、やられるかだ。やって、成功して、愛する男と至上の幸福を掴む。これこそ私の生きる目的だ。今こそ、本当の意味で生きる時だ。さあ、冒険へ出発だ。危険に飛び込もう! 賭けに打って出よう! 初めてのクーデターをやり遂げよう!


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