第56話 極夜行路(3)

 その日エルは、初めて盗みを働いた。カフェの会計係ジッツ・カッシーリンとして忙しく立ち働くツェツィーが脱いだエプロンから、偽造ID証をかすめ取ったのだ。


 父を案じる息子を利用し、挙句に仲間から窃盗。最果てのトリカの親たちが目にしたら、どれほど嘆くことだろうか。情けない自分の姿に腹の底がずんと重くなったが、黙殺した。


 必ず返します、と罪悪感たっぷりに痛む胃袋で約束する。きっと何もかも、上手くいかせてみせますから。


 民が王に願い、天輪が歌と化した言葉に、およそ実現できぬものはない。守護者の青年はそう語った。


 この世ならざる神々の祝福は、スクリプタの消失すら、叶えてみせることだろう。


 当然ながら、トゥラン民族三千年の悲願である。数えきれないほど願われたはずなのにこれまで果たされなかったのは、天が認めなかったことの証左。そう考えるのが自然だが、エルはひとつだけ、まだ試していないことがあるのに気づいていた。


 王はトゥランの要。その身は中央部、黄金の都アランシャフルに鎮座する。朝夕に葬送の儀をこなす彼らが四つの壁を超えて領外へ出ることは、天地がひっくり返ってもありえぬこと。神話の時代から、百余年前に国を滅ぼされるまでの永きに渡って。


 つまりザグレタ山脈の外で、王の権能が行使されたことはない。


 力が及ぶ範囲が、仕切りを挟んで断たれるとしたら? ザグレタより西で発症する不治の病には、ザグレタより西で天輪に願う必要があるとしたら?


 試してみる価値はある、と赤毛頭は考えた。もうこのたったひとつの可能性にしか、縋ることができないのだとも。


 無謀な逃避行の目的は、こちらの世界で王の歌を響かせること。


 そのためなら、何を差し出したって構わなかった。仲間からの信頼も、自分の将来も、命も、エルが出せるものなら何だって。眩暈がするほど成功率が低い賭けだとしても、七歳の極夜の晩に思い知らされているのだ。大事なものと引き換えにすることでしか、望みを叶えることはできないのだということを。


 机の引き出しを開けると、赤いジェリービーンズの缶が顔を覗かせた。長方形の冷たいアルミの中には、二つ折りされたサフランイエローのバースデーカードたち。十歳から十四歳までの四枚と、臨時配達の一枚を足した計五枚。


『エル 十四歳の誕生日おめでとう。きみの新たな一年が恵みの雲とともにありますように』


 タイプライターで打ち出したような几帳面な文字を見ると、口元がほころんだ。どれだけ打ちのめされている時でも、このカードはいつも勇気をくれる。ロスには告げていないが、素っ気ないほど簡潔な祝福の言葉に、ずいぶんと励まされてきたのだ。


 もう二度と会えなくてもいいわ、と口中で呟いて指先でなぞった。


 エル・スミスは、トリカで死んでおくべき命だった。死にぞこないなりにささやかな命をベットして、幾ばくかの戦利品を手に入れてきた。


 今回もいつものように、無謀なゲームに賭けてみよう。あなたに次の季節が来るのなら、自分はここまでで構わないから。


 ふわふわのジンジャーブロンドはふいにキョロキョロと背後を振り向いて、人気がないことを確かめた。すっかり日は暮れて、空の底には星が輝き始める刻限。ガスランタンも灯していない部屋は宵闇に沈み、うっかり暖房をつけそびれていたせいで底冷えする冷気で満ちていた。


 林檎のように頬を赤く染めた少女は、両手で大事に持ったカードに、そっとキスをした。


 決行は新月の前夜、鍛冶始めの月トバルカインのデア・八日アハツェンとなった。本当はすぐにでも抜け出したかったのだが、いつも寝つきのいいルームメイトがなぜか夜更かしを決め込んだせいで、二晩見送ることになってしまった。


 コートを着込んだ少年少女がふたり、街灯から外れた暗がりで白い息を吐く。


「薬は?」


 言葉少なに尋ねれば、小さな背嚢ナップザックひとつを肩にかけたキリルは胸ポケットを叩いて返事した。


 箱庭の支配者が誰なのか教え込むように、ナハトムジークのサーチライトは地上を舐め回していた。光線の間隙かんげきには、機銃掃射の攻撃機が飛び交っている。あの殺人装置に見つからないように壁際までたどり着くのはキリルには至難の業と思えたが、案内人を自称する後輩が導いたのは、学校からほど近い廃屋だった。


 涸れ井戸の蓋に手をかける後ろ姿に、何をするのかと見ていれば、腕では動かないことを悟ったのか「オラア!」と編み上げブーツが蹴飛ばした。かろうじてずれた蓋から砂ぼこりが落ちる。


「この先です。ナハトムジークに探知されない道があります」


「はあ?」


 少年は信じがたい顔をしたが、へりから地底に向かって梯子が掛けられていることに気づいて目を剥いた。


「お前、ここはいったい」


「急いで、時間がないの!」


 質問は受け付けられなかった。キリルはエルのようには夜目が効かない。足元もほとんど見えない暗闇の中、何とか手がかりを掴んで降下しているというのに「早く!」とせっつかれ、文句を言おうと顔を上げれば、目の前でブーツの紐が揺れていた。


 何の気概か、ギムナジウムの女子たちは真冬でもタイツを履くことをいさぎよしとしなかった。この晩のエルも、氷点下の外気にも関わらずハイソックスだけの着用。コーヒーブラウンのブーツシャフトから、素肌を晒した脚がすらりと伸びていた。膝が赤くかじかんでいる。太ももの稜線が、仄暗い光をかすかに照り返している。


 少年は息を止めた。そして足を踏み外し、五段ほど落ちた。


 街頭もない夜更けの井戸の中である。冷静になれば、何も見えていない。見えていないのだが、思春期には刺激が強すぎた。


「大丈夫ですか⁉」


 危険極まりない暗さは、今ばかりは不幸中の幸いだった。耳まで赤くなった顔がバレずに済む。片手で危なげなく踏みさんに掴まったキリルは、地獄の底から挽き臼を回すような声で唸った。「急かすのをやめろバカ」


「ごめんなさーい!」


 たどり着いたのは地下街、反逆の隠れ街ハイドアウト


「何だ、ここ……⁉」


 古めかしいガス灯、ひさしを出したコーヒーハウス、豊穣の角を彫り込んだエーデの教会、金色の半球を載せた壮麗なオペラ座――あんぐりと立ち尽くすキリルの横で、エルは薄暗い天球から下がる梯子を真剣に数えた。脳内の地図と照らし合わせ、方角を確認する。


「ヤバすぎるだろ、こんなの一発アウトだ」


 一目見て、彼も前世紀ヴァルト帝国を模したこの地下街の意図を理解したらしかった。舌を巻いて背嚢を背負い直すと、慎重に辺りを見渡す。


「なんでお前が知っているのか、あとで洗いざらい吐かせるからな。まずは脱走だ。本当にこの先に、抜け道があるんだな?」


「100%……ではないんです」


「はあ⁉」


「しょうがないでしょ、人生は賭けの連続なんだから」


 無謀な見切り発車をうそぶく少女に絶句する。


「でも知ってますよね? あたしの推理が外れたことないって。……大丈夫。きっと、上手くいきます」


 薄闇を真っすぐ見据えるペリドットはいつも通り輝いていたが、唇が語る言葉は、彼女自身に言い聞かせるためのものであった。

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