第55話 極夜行路(2)

 もしかして、自分の気持ちがバレている? 見込みのない片思いはやめろという牽制か? つまり……どう反応するのが正解だ⁉︎


 草原の影色をした頭は一瞬で色んなことを考えたが、ちっとも煤が取れないガラス窓を見つめたペリドットは、思わず言葉を忘れるほど悲しげだった。


「楽しかったわ、毎日。ここが壁の中だってことも、自分が三等国民だってことも、辛い現実は全部忘れて。恋さえあれば、命なんてなくてもいいって思ってた。……もう長くないんだって、その人。あたしの前では無理をしてたの。特技の調合ですごい痛み止めを作って、なんてことないフリを通してた」


 俯くと、泣き出しそうな横顔は赤毛に隠れて見えなくなった。


「何も気づかずに浮かれて、あたし、次の季節の話をしちゃった」


 地面につきそうなほど、深く深くうなだれる。「ほんと、最低」


 雨の一滴も降らないのに厚い雲が動かない空から、凍てついた風が吹き下りた。水に濡れてかじかんだ指は、燃えるように熱を持っていた。厳寒のレーベンスタットで水仕事を強いられるのは、まったく懲罰に相応しい苦行だった。


「……」


 力を入れればれ過ぎたイチジクのようにぜそうな親指をぎゅっと握り込んで、キリルは静かに唇を噛んで地面を見た。


 少女の告白は、彼にとっては失恋である。悪友たちが横にいたらドンマイと肩を叩くような状況。あるいは口の形だけで「チャンスだ」と喋って、背中を叩いてけしかけるかもしれない。他に好きな相手がいるというのは悲しいニュースだが、もうすぐ死ぬというのは吉報じゃないか。優しい言葉をかけておいて、めでたくやっこさんが死んだら攻め込めばいい……。


「ハッ」


 顔を上げた少年は、しかし、鼻で嗤った。


「案外、お前もバカなんだな」


 面と向かって悪口を言い放つと、タイムの植え込みの煉瓦の雪を払って腰を下ろす。


「……おれは、草原氏族カザフェリの酋長しゅうちょうの息子だ」


 オリーブの双眸で地面を眺めて唐突に語られた身の上話に、エルはまばたきをした。


「中央高原の伝統として、酋長の跡目争いは血筋も性別も関係なく、純粋に知恵と力と運を見る。二十年前、男も含めた二百人の候補者を蹴散らして勝利したのが、うちのおふくろだ。親父は商いの得意な南の氏族から、羊三百頭と一緒に嫁いできた。男だってのに兎一匹さばけねえのも、おふくろに頭が上がらねえのも、ダサくてよ。あんな弱虫にはなるまいって思って育った」


 彼はエル以上に、自分の生い立ちを語ってこなかった。ゆえにこれは、ギムナジウムの誰も知らない皇帝の物語である。


「おれたち兄弟は、戦わないやつは死ねという教えで育てられたよ。地元ながらとんだ蛮族っぷりに正直引くが、カザフェリって氏族は、それで数千年やってきたんだ。集団連行で草原から引き離され、羊を捨て、狭いブロックに押し込められてからも、高すぎるプライドだけは相も変わらず。だから絵や詩にうつつを抜かして、弱ぇくせに綺麗ごとを言ってばかりの親父のことは……お花畑の間抜けだと思ってた」


 ここでなぜか一度オリーブの瞳はエルを映したが、含みのある顔は何も言わずに目をそらした。


「しょっちゅう寄越す手紙もまあ、うざったくてさ。もうおれの進路は決まってるってのに、帰ってこい、家族一緒に生きるのが一番だって、そればっか。で、いい加減腹が立って、口を出すな腰抜け野郎って書いて送ったのが先週。今朝、おふくろから珍しく手紙が届いた。……記述病スクリプタを発症してたんだと。急に悪化して、もう月末まで持たねえだろうってさ」


 組んだ指先を見つめる少年と言葉を失った少女の間を、冬の風が吹き抜けた。


「言えばいいよな。あれが最期に見る手紙だって分かってたら、いくらおれでも考えたよ。妙な気を回してデケエ秘密を隠しやがったせいで、こっちはただのクソガキだ。……な?」


 口の端を上げてこちらを見る顔は、気難しい暴君が初めて浮かべた優しい表情だった。「バカばっかりだろ、どいつもこいつも」


 慰めてくれているのだということに、エルはようやく気づいた。


 口ごもっていれば、年の割りに大きな手がポケットから小瓶を取り出した。たったひとつだけ格納されているのは真っ赤なカプセル。カランと軽い音を鳴らす薬剤に、「それは?」と首を傾ける。


「クープ警察の説明会のあと、おれだけ別室に呼ばれて渡された。成人してからも箱庭で働くなら必要不可欠だとさ。……スクリプタの発症を防ぐ抑制剤だ」


 大きな猫目は、零れ落ちそうなほど見開かれた。


「通称紅珊瑚レッドコーラル。壁の外じゃあ、同量の金より重い価値を持つ。命の保証もない過酷な仕事をこなして、重い税を納めて、やっともらえる報酬だ。末端価格いくらで取引されるか知ったら、笑いしか出ねえぜ。説明ついでにあっさりと支給されて、思わず吹き出しそうになった。そのあと、吐き気をこらえた」


 カプセルに注ぐキリルの眼差しは氷のようだったが、「親父に送ってやりてえと思ったよ」と呟く横顔は優しかった。


「抑制剤ってのが、もう死が秒読みの患者にどれだけ効果があるかは知らん。でも……たった数日でも伸ばせるんなら、全部捨てたって構わない。だって上手くすると、春を見られるかもしれねえんだ。親父はさ、やれ蓮華リャンホアが咲いただの春ツバメハラーツァイが巣を作っただの、くだらないことをやたら喜ぶやつなんだよ。……わかってる。いくら検閲官に金を積んだって、さすがにこれは通しちゃくれねえ。ブロンドの豚どもは紅珊瑚レッドコーラルをチラつかせることで、血の気の多いトゥーラニアをこれまで従わせてきたんだから」


 笑みは自嘲に意味を変え、頑なに組まれた指は祈りの形になった。


「おれがバカだったんだ。この世界は地獄だってのに、ずっと待っててくれるって何の根拠もなく信じてた」


 エルは真っ赤な薬剤から、目が離せなかった。それがあれば、もしかしたら、ロスは――どうしても脳裏をよぎってしまう考えは、皆まで言わせず平手打ちして黙らせた。よく聞くことよエル・スミス。育てられたように生きないのなら、あなたに生きる資格はない。


 それにここで拙速に走らなくてもいいのだ、と言い聞かせる。


 キリルが本懐を果たしてくれさえすれば、何もかもが上手くいくのだから。


「外に出る手段が、あると言ったら?」


 視界の外から告げられたのは、思いもよらぬ提案だった。小瓶を見つめていた精悍な横顔は三回、瞬きをした。


「……ふざけてるならぶん殴るぞ」


「こんな時にふざけません」


 低い声で恫喝をしても、間髪入れずに返ってくるのは否定だった。顔を見据えれば、長いまつ毛がけぶるペリドットが真っすぐ見つめ返してくる。


「全部捨てたって構わないっていうのは、本心?」


 無神経の一線を越えた質問。片眉を吊り上げたキリルは忌々しげに睨みつけたが、少し間を置いて傲然と顎を上げた。「だったら何だ?」


「先輩を、おもちゃ箱の外に案内してみせます」


 いつも余裕綽々とした猫目には、からかおうとする浮薄ふはくも、罠に嵌めてやろうとする緊張もなかった。ただ魂を炙る焦燥が、奥底で光っている。彼女らしくない表情に違和感を抱いて顔を覗き込もうとすれば、小さな手に力強く腕を掴まれて「ヴッ」と声が出た。


 カエルが潰れたようなと喩えられるタイプの、皇帝カイゼルにあるまじき呻きだった。


「その代わり壁の外に出られたなら、あたしの願いを叶えてください。……必ず、すぐに!」

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