第8章
第54話 極夜行路(1)
その日、ギムナジウムの治安は最悪だった。
「ねえ。なんかあたしのパン小さいんですけど?」
「こいつ、スープにベーコンが入ってやがる! ぼくなんて野菜くずの切れ端だけなのに!」
「うえええん、チーズ落としちゃったよお~」
まず食料統制が開始され、日頃から
ギムナジウム全体の不安を受けて、
監督者たるアガタ・アルトマイヤーに至っては
「ああ、もうダメだ!」
頭を抱えて、五年生の双子のナヴィドが呻く。
「卒業なんてできっこないよ! こうしてじわじわ餓死するのが、ぼくらの運命なんだ!」
恐ろしい予言に、子どもたちは震えあがった。ややあって、「……でも、聞いた話と違うよ」とささやき合う。
「だって成人後は、どこかの辺境のブラックな工場で強制労働させられるんでしょ。栄養失調にしたら、長く働けないよ」
「あたしはマッドサイエンティストの人体実験に使われるって聞いたけど」
「ぼくが聞いたところによると、政府高官の臓器のスペアだって。麻酔なしで腎臓を取られて、あとはハウンドのエサになるとか」
誰かがフォークを落っことす音が、カラーンと響いた。ますます顔色を悪くした学友たちに、七年生のテノクは「ただの噂さ! まずは先輩たちが確かめてくれるよ!」と言い、最上級生たちを死んだ魚の目に変えた。
空気は最悪。ピリピリと張り詰めた朝食の席を、食事の世話係として雇用されているフリーダ夫人は小さくなって見渡した。
そんな中、
「おい」
長い脚が宙に浮く。ローファーが椅子の脚を蹴り飛ばす。
トレイをひっくり返して尻もちをついた少年のポケットから転がり出たのは、バーズ社製のキャンディーチョコレート。みんなが大好物の高級品に、低学年が目を輝かせた。
「検閲官にいくら金を積んだんだ? この恥知らず」
長テーブルの最奥、定位置である
「干からびたおれたちの死体に囲まれて、お前はめそめそ泣くんだろうな。『どうしてみんな餓死しちゃったの? おばあさまからチョコレートを送ってもらえばよかったのに!』って」
つま先で蹴り上げられたトレイが、怯えた少年の額に当たった。アルミが跳ねるけたたましい音の中、「悪かったな、気を遣わせて」とキリルはいつになく
「差し入れがあるなら不味い配給なんていらないよな。明日からもうテーブルにもつかなくていいぜ」
皇帝による食堂の出禁。実質的な死刑宣告である。アランは涙目になったが、横目で見下ろす翠眼は誰も助け船を出さなかった。
「みっともないわね」
入口から堂々と投げられた恐れ知らずの一言を、生徒たちは待っていた。来た! と振り向いた彼らはしかし、一目でわかる違和感にパチパチと瞬いた。
いつだって朝っぱらから快活に笑うクイーンが、今日は冷え冷えとした無表情だったから。
「やあこれはエル・スミス。相変わらず目立ちたがりのご登場だな。ところで今のは、誰に向かってのセリフだ?」
玉座から立ち上がった皇帝は、固い靴底を鳴らしてゆっくりと歩み寄った。……にわかにそわそわと浮足立った心臓がバレないように、
「ひとりしかいないと思いますけど」
「ずいぶん偉そうだが何様のつもりだ」
「さあ?」
赤毛が
エルにとってこの問いは、昨夜揺らがされたアイデンティティについての自問自答だった。とはいえ
オリーブ色の切れ長の瞳が、「……お前なあ、よく考えろ」と睨みつけた。
「一等国民さまに
キリルが語ったことはどれも、誰にとっても忘れることのできない痛みだった。頷く者のあるスピーチだったが、冷めたペリドットは「見解の相違ですね」と微動だにしなかった。
「あたしから見たら、これも愛だわ。どこの家の親だって、お金があったら同じことをするに決まってる。アランのおばあちゃんの出資金でナハトムジークが建造されたわけでもなし、文句はクソッタレな世界にだけつけるべきです」
しかめた顔に、うんざりとした棘が滲んだ。「というか実際、みんなこっそりタフィーやドライフルーツ受け取ってるでしょ? 毎朝郵便物配ってるからわかるわよ」
何だ何だ? いつものエルと違うぞ。氷のような苛立ちに、不安そうな目配せがあちこちで交わされた。
彼らが知っているエル・スミスという少女は、どんな相手にも恐れず立ち向かうスーパースターである。おかげで、懲罰回数も鞭の跡もダントツトップ。だというのにいつも堂々と笑って曇ることのない彼女のメンタルは、太陽から飛んできた未知の超合金製だと噂されている。
うちのクイーンがイライラするなんて、いったい何があったというんだ? とうとうギムナジウムが爆発でもするのか?
「食堂でこれ見よがしにつまむのが問題なんだ」
「論点をすり替えないでください。そうだとしても先輩にこんな目に遭わされたら、明日からアランがどうなるかなんて分かりきってるでしょ」
「自業自得だ」
「……はー。ガッカリ」
腕を組んだキリルに、冷たいため息が突き刺さった。
「全っ然ダメ。お話にならないわ」
このクイーンが尊大な軽蔑を滲ませるのは、クライノートの仲間たちにとってはまれによくある姿であったが、自分たちにそれが向けられるのは、かつてない出来事だった。
「ハア⁉︎ 何が⁉︎」
瞬く間にキリルの頭を占めたのは、とうとうエルに嫌われてしまったという重大事項だった。クソ! ただでさえ最低最悪な朝だってのに、泣きっ面にハチじゃねえか!
皇帝からクイーンへの思慕は、仲間内では暗黙の了解事項である。悪友たちには、彼らのリーダーがパニックに陥ったことが察せられた。思わず「おい、どういうことだよ!」と声を荒げて腕を掴んだのも、真意を知りたいがゆえ。……だがキリルは歳のわりに少しばかり、力が強かった。
突然詰め寄られた少女が後ずされば、椅子の足が絡んでバランスを崩した。上体が机の下に消え、赤い巻き毛が床に散る。
「あ……!」
キリルは思わず助け起こそうとしたが、身を屈めた様はクイーンを床に引き倒したようにも見えた。
瞬間、心配そうに成り行きを見守っていた子どもたちは、ギロチンで断ち落とされたように揃って表情を消した。
椅子を蹴り倒す轟音が響く。コップの水面が跳ね、ぼやけた曇天の朝日に埃が舞う。冬服を着たいくつもの小さな背は、肩に逆光を滲ませて立ち上がっていた。無数の翠眼が、キリルを見つめて光る。
彼らは、肉食獣が獲物の頸動脈を狙って飛び掛かる寸前と同じ表情をしていた。
「何をしているのです!」
一瞬にして、大乱闘寸前である。生徒たちの不可思議な特性に慣れているアガタもさすがにこれには面食らった。
「キリル・カザンチェフ、エル・スミス! 朝っぱらからいい加減にしなさい!」
お揃いでもらったしつけ鞭は四発。一限目の地理は、強制的に校内美化の時間に変えられた。
「ごめんなさい。先輩は悪くないことで、八つ当たりしました。まあカツアゲは悪行だから、金輪際やめるべきですけど」
仲良く横並びで窓を拭きながらポツリと謝られて、キリルは雑巾を落っことした。八つ当たり? エル・スミスが?
「お前も人間みたいなことするんだな」
「何だと思ってます?」
質問は黙殺した。……言えるわけがない、本当はどう思っているかなんて。
「好きな人がいるんです、あたし」
その一言は、滅多にないふたりきりの状況に、落ち着きなく前髪を直していた少年を絶句させた。
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