第53話 ミルクの味をした祈り(8)

 赤毛頭は前のめりの姿勢のままで硬直した。視線だけ落として、マフラーの下に隠れた鍵を見下ろす。……あたしが、王じゃない?


「ごめんなさい。まさかこんな結果が返ってくるなんてわたしも予想外で」


 予言者は苦しそうに首を振った。「なんて伝えたらいいか散々悩んだくせに、何の工夫もできなかったわ。いつもこうなの」


「い、いいえ。いいえツェツィーさん、謝らないで」


 落ち込んでいる聖母の様子に、エルは慌てて華奢な肩を叩いて励ました。


 何をビックリしているのだろう? 疑っていたから占いを頼んで、我慢できずに鍵を返そうとまでしたくせに。でも、自分以外にトゥランの王がいるって? ……本当に? 本当にあたし以外の誰かが王?


「どうしてみんな、盛大な勘違いを?」


 いくら隠れ街ハイドアウトの信厚いツェツィーの言葉とはいえ、簡単に飲み込むわけにはいかなかった。だって、大人たちは口を揃えて自分を王だと言い切った。ギヴの上腕を吹き飛ばした導きのトゥールがエルには所持を許し、求めるとおりに姿を変えてきたのに。


「わたしも推測しか言えないんだけど……」


 真っ白な息が漏れる口元を、寒そうに掻き合わされたアメジスト色のショールが隠した。


「熱帯に生息する蜂で、変わった生態を持つものがいるの。名をエメラルドミツバチ。天敵はザクロバチという大型の捕食者なんだけど、これは働き蜂には目もくれず、女王蜂だけを狙うの。子孫を残せるのは女王だけだから、彼女が食べられてしまったらそのコミュニティはおしまいになる」


 唐突に始まったのは、聞き馴染みのない昆虫の講義。


「ザクロバチの十分の一の大きさしかないミツバチには、もちろん勝ち目がないわ。彼らが取った生存戦略は、女王を複数用意しておくということ。スペアというわけね。身代わりを立てておくことで、真の女王が生き残る可能性を上げることができる。もし、トゥランも同じような仕組みがあるとしたら?」


 エルは眉を寄せた。「……だとしたら、代々守護を勤めてきたナスタラン家のロスさんが知らないのは違和感があるわ」


「百年前の君主たちと現在のトゥランは状況が違うわ。あなたたちは、王を奪われたから滅ぼされた。新たなリスクヘッジとしてエルちゃんが用意されたのかもしれないって、わたしは考えてるわ。真の女王と身代わりがどれだけ似ているかっていうと研究者には区別がつかないくらいで、どうやらほとんどのハチにも分かってないみたいなんですって。女王を女王たらしめるのは、子どもを産めるかどうか。つまり、機能こそが王を定義する」


 マフラーを握りしめる。指先は冷え切っていた。


「トゥールは……あたしの望みを叶えてくれてきました」


「手榴弾でベルチェスター兵をバラバラにしたいってエルちゃんが願ったの?」


 人ならざるものと意思を通わせる巫女の双眸が、静かに問いかける。


「よく考えてみて。これまでトゥールが顕現したものは本当に、あなたの望みだった?」


 そのはずだ。……だって、ロスが『エルさんの望みに応じて姿を変える』と言ったのだ。だからバナナの皮もクロスボウも歴史書も、手榴弾もスポットライトも宝石も、自分の求めたものだと考えた。


 ――でも本当に、あたしはあれを願ったっけ?


 作法通りに歌で使役しようとすれば、いまだに痛みを与えて逆らってくる鍵の硬い花弁が、マフラー越しの指に刺さる。


 言葉もなく俯くと、今度はこちらの肩がいたわしそうに支えられた。


「誤解しないで。あなたの役目だって、替わりが利かないものなのよ。……それに、もしかしたら今回に限って月のお告げは間違いで、本当にエルちゃんが女王さまかもしれないわよ。わたしは真実を知っているわけじゃなくて、ただ教えられたことを伝えているだけなんだから」


 無理に明るい声色で諭すそれが、子どもに対する優しい慰めに過ぎないことはわかった。


「……大丈夫です、ガッカリしたわけじゃなくて、拍子抜けしたって感じだし」


 嘘だ。インク壺を床に落としたように、胸の中に落胆が広がっていくのは誤魔化せなかった。


 カフェ・ムネモシュネのドアを開けた時の、熱烈な歓迎を思い出す。エルがエルであるだけであれほど喜んでくれる人々に会えたのは、家族を失って以来のことだった。ツェツィーの見た未来が正しければ、あの熱狂は本来、他の人に向けられるのだ。


 ……それに、王の守護者の愛も。


「それにしても、イカの次はハチだなんて」


 肩を竦めた笑みは、プライドが高い彼女の強がりだった。「トゥラン人はいつ脊椎動物に進化できるんでしょうね?」


 落ち込んでいる暇はない。もしも本当に持ち主が別にいるのであれば、すぐにこの鍵を渡さなくてはいけないのだ。


「本物の王については何か言ってました?」


「小鳥の巣箱、支配者たる諢名こんめい持つ少年」


 謎めいた詩をそらんじながら、ショールに埋もれた双眸が光った。「エルちゃん、ギムナジウムでクイーンって呼ばれてるのよね? 他にもいるんじゃないかしら。生徒の中に、君主のあだ名を持つ子が」


 脳裏をよぎるのは、皇帝カイゼルと呼ばれる男の子の傲然とした眼差し。「……まさか、キリル先輩」


「ええ」


 先読みの聖母は重々しく頷いた。


「彼が真の王」


 息を呑む音のあと、「……いや待って。全然似てないんですけど」と唇を尖らせた少女が心外そうに訴える。


「だって先輩、カツアゲ常習犯なんですよ? すぐ足が出るし口は悪いし、皇帝ていうかガキ大将。あたしとキリル先輩の区別がつかないなんて、目がドーナツで脳みそにマシュマロが詰まってるとしか思えません」


「わ、悪いけどクレームは受け付けてないの」


 ツェツィーは顔の前で指を組んでバツを作った。「こちらはしょせん告知窓口よ。文句はトゥランの神々までよろしくどうぞ」


 キリルこそが、トゥーラニアの王。……想像してみれば、玉座にふんぞり返る彼の姿は、そうしている自分よりもしっくり来るようには思えた。とはいえ、勝手に行動する前にまずサーリヤの大人たちに相談しなくては、間違いなく怒られる――。


「それであとひとつ。これは王の件とは関係なくて、たまたま見えちゃったんだけどね……」


 自分から話題を変えたはずのツェツィーは、噛み切れない肉でも含んでしまったように言い淀んでいた。エルに王ではないと告げた時よりよほど。


「落ち着いて聞いてほしいんだけど……ロスさん、まもなく亡くなるわ」


 呼吸は、喉元で止まった。吸った息を器官に引っ掛けたまま尋ねる。「もう一回、お願いします」


「次の新月の先読みに、彼の影がなかったの。月影がないってことは、この世にもういないってこと。それで急を要することだから、爪と引き換えに教えてもらったわ。……どうやら、重い病気を患っているみたい」


 ショールを握る砂糖菓子のような手をよく見れば、左手薬指に包帯が巻かれていた。


「そんなわけないです」


 エルは間髪入れずに断言した。「だってさっきも元気そうだったもの」


「彼が何年スパイ任務についてると思ってるの? 演技なんてお手の物なのよ」


 予言者は駄々をこねる子どもを諭す時の顔をしていた。


「今はもう立つのもやっとでしょうに……エルちゃんに心配かけまいとして、気丈にふるまったのね」


「信じないわ!」


 赤毛頭は、いつになく苛立って横に振られた。


「それこそ先読みを間違えた可能性は?」


「かもね。でも、そうじゃなかったら?」


 にわかに焦燥が掻き立てられる。火の粉が胸の内側を炙り、頭蓋骨の図書館では早回しでページが捲られていく。思い出せ、思い出せ、思い出せ。ロスさんの顔色、いつもより白いと思わなかった? ふだん選ばない立て襟のシャツを着ていたのはなぜ? 気が回る彼が、薄暗くなっても電気を付けなかったのは? 食堂に降りることすらないのはどうして?


 ドアを開ける前、慌てて隠されたのは薬包だったことに思い至った瞬間、小さな浅黒い手は華奢な手首を掴んだ。


「どうすればっ、ロスさんは助かりますか⁉」


 今にも決壊しそうに揺れるペリドットに、ツェツィーは後ずさった。


「ご、ごめんなさい。わたしも何とかしてあげたいんだけど、もう手遅れで……! 質問は満月の夜更け、未来視は新月の夜明け。月が一巡するまで、彼の命は持たないわ」


「そこを何とか! あたしの爪どころか指も、全部持ってってくれていいから!」


 今日は下弦の月を過ぎた、明け方に輝く二十六夜月にじゅうろくやづき。月の満ち欠けは29が上限であり、あと4つ数えたら月齢はゼロから数え直しとなる。


 つまり、新月の夜が来る。


「お願いします!」地面につくほど下げられた赤毛頭から、かじかんだ耳が覗く。「せめて、なんて病気かだけでも……!」


「役に立てなくて悔しいわ」


 ツェツィーは柔和な顔を悔しげに歪ませた。「わたし、トゥランのことには詳しくなくて」


「トゥラン?」


「あなたたちの病でしょう? あの、白い文字が皮膚に彫り込まれていく……」


 愕然と見開いたペリドットの奥、図書館の禁書庫から古い書物が紐解ひもとかれる。


 記述病スクリプタ


 最愛の母を責めさいなんだ、忘れがたき不治の病。


 やつは確かに峻厳な寒さで増悪する。ニルファルはエルにオーロラを見せてくれたその翌日に高熱を出し、熱が引いた時には、肩甲骨の隙間に羽をたずさえた跡のようだったささやかな紋様は、一気にうなじまで達したのだ。


 姉を食い荒らし、次は弟へ。


 数百世代を経てなお古代の罪をとがめ、トゥランの人々をいましめてきた宿痾しゅくあは、今度はちっぽけなこの恋を奪っていこうというらしい。


 赤毛頭に構築された巨大機械の回転は火花を上げた。司書たちは沈黙している。必要なのは議論ではない。全てのデータを入力して演算し、レコーダーに出力することだけ。


「教えてくれてありがとうございます。……大丈夫、あとは自分で何とかしますから」


 地下帝国のカフェの二階で、守護者の青年は三千年のおとぎ話を語った。


 あれが正しいのなら、真なる王はこの病すら、粉砕してみせるはずである。

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