第52話 ミルクの味をした祈り(7)

 ザグレタ山脈、最果てのトリカ、キーロン渓谷、ダリヤ海。定められた四つの境界の外で生きようとするトゥーラニアに顕現する死の病。


 他国への侵略をとがめるための呪いゆえ、子どもは見逃された。三千年を経て薄れたか、大人であっても全員が発症するわけではなく、抑制剤を飲んでいればほぼ確実に防げた。とはいえロスにとって抑制剤を飲むということは、ありえない選択だった。


 自分は守護者ハーフェズだ。恥や後悔ばかりの人生を歩んでいる不肖の末裔だが、誇り高きナスタラン家の守護パルヴィズの息子なのだ。


 父祖が誇った血にかけて、を受け入れることだけは決してできない。


 めぐる天輪が見逃してくれることに賭け、彼はトゥランの成人年齢である十八歳を迎えた。そして笑ってしまうほど呆気なく、弱冠十九歳の秋に発症した。


 この世ならざる文字は全身に広がり、次第に内臓をも侵していく。人体を粘土板のようにあしの茎で抉る神々の筆記は容赦がなく、正気を保っていられるのは発症してから二年余りとされる。最期は呼吸もままならなくなり、多臓器不全で死に至る。すでに二年と半年を数えるロスが理性を失わずにいられるのは、ウラルトゥ仕込みの鎮痛剤漬けであるからに他ならない。


 とはいえ、タイムリミットが差し迫っていることは誤魔化しきれなかった。長らく肩甲骨の間でこらえていた紋様は年の瀬の寒さで急激に増悪ぞうあくし、一気に上腕から腰までを覆った。もう、長袖のシャツを脱ぐことはできない。軍医の診察を受けたりしたら、当たり前だが即座に素性がバレて処刑だ。薬が切れる夜半は疼痛とうつうにうなされて眠れず、きつい痛み止めの飲みすぎか、あるいは病の進行ゆえか、胃は固形物を受け付けなくなってきていた。糧食レーションとサプリをどろどろに溶かしたスープで命をつないでいるこの頃、エルが持ってきてくれたプリンは、久しぶりにれたまともな食事だった。


 あんなに美味しいものを口にできるなんて、夢にも思わなかった。馴染みのないレシピを調べ、きっと貯金箱を空っぽにして材料を揃えて、小さな手で鍋の底をひっくり返してこしらえた、世にも優しい温かな甘味。幸せすぎて、咄嗟に目を閉じなければ涙が零れてしまうところだった。


 病み衰えた身体にも、食事ができないことにも、聡い彼女にはきっと気づかれてしまう。だから実のところ、カフェ・ムネモシュネでのマナーレッスンは、延期ではなくおしまいだ。


「聞いたかい、D-612。エルさん、夏にはさくらんぼゼリーを作るんだって」


 崩れるように椅子に腰かけながら、心配そうに見上げる愛犬を撫でて微笑む。真っ赤で小さくて瑞々しいデザートは、なんて彼女らしいのだろう。ギムナジウムの友人たちを差し置いて一口ほしいなんて贅沢は言わないから、上手に作れて自慢げに胸を張る顔を見てみたかった。


「今日も銀河一、キュートだった。きっと明日も明後日も、未来永劫銀河一だ。そう思わないかい、D-612」


 この身体に、次の夏は来ない。それどころか、彼女の姿を拝むことはもう二度とない。


 終わりの時期は選べなかったが、どうやって終わらせるかだけは自分で決めてある。


 早くも夜の気配を滲ませた消えかけの残光に手を開き、指先をじっと見つめた。先ほどうっかり過ちを犯しそうになった、紳士の風上にも置けない左手。だがグローブを付け忘れていてよかったと、自分のしくじりに感謝してしまう。柔らかそうだとずっと思っていた頬に、こっそり触れることができた。


 ……あの花びらみたいな唇を奪ってみたい気持ちがないと言えば、嘘になる。愛犬にも明かせない、しょうもない本音を大目に見てもらえれば。


 だが、誇り高い彼女に恥じない守護者でありたいというのも、心からの願いなのだ。


「ハンカチは……返せないだろうなあ」


 赤いギンガムチェックの布を丁寧に伸ばし、小さく畳んで胸に当てた。


 この一枚だけ、あなたの欠片を連れて行くことを許してほしい。次の新月の晩、きっと仕事を果たしてみせるので。


 かくして満願成就の夜が満ち、忌々しい壁は崩れ、我らの王が誕生する。


 彼女なら大丈夫だ。たとえ自分なんかいなくても、大勢の人がついている。


 だが今年の夏は、お祝いのカードもカンパニュラの花束も届かない。そのことだけが気がかりだった。新王の生誕日など国を挙げて祝祭を催すに違いないと分かっているのに、寂しそうな赤毛の後ろ姿が頭に浮かんで離れなかった。


 どうか万能の王ではなく、小さなエルの生まれたことを、心から祝う誰かがいてくれますように。


 ゼンマイの回転エネルギーを使い果たした蓄音機は、急速にターンテーブルの回転を弱めた。湖畔の風を歌うピアノのメロディーはよろめくように歩調を狂わせて、ふと立ち止まったら最後、二度と続きを聴かせることはなかった。

 




 少年少尉と別れたころには冬の日はすっかり暮れ、西の空に金星が瞬いていた。


 帰宅を急ぐ冬の夜は好きだ。耳を千切るような冷たい風に吹き晒されていると、雪の路上に散る戸口の灯り、窓辺から漏れる暖炉の光が、たまらなく美しいものに映る。巣穴にこもって温かな食卓を囲む一家がいるのだと考えるだけで、エルの胸までポカポカする。


「お嬢さん、占いはいかがかね」


 街灯から外れた闇の奥、しゃがれた声がかけられたのはギムナジウムに程近い郵便局の角。振り向くけばニワトコの杖をついて、古ぼけたショールの下から白髪を覗かせた見知らぬ老婆がいた。


「間に合ってます」と通り過ぎようとして、右斜め上を見て思案する。流しの占い師なんてクープにいたっけ?


「なーんてね」


 ショールを外せば、曲がった腰が伸びてすっと背丈が高くなる。


「ツェツィーさん⁉」


 現れたのは、隠れ街ハイドアウトのホーリーマザー。白髪にしか見えなかった髪は、若々しく美しい顔が真ん中に収まるとプラチナブロンドに色を変えた。


「それウィッグですか? 変声も演技もすごいわ! おばあちゃんにしか見えなかった!」


「うふふ、それほどでも」


 おしとやかな謙遜のわりに有無を言わさぬ力で、路地裏に引きずり込まれた。


「月の啓示があったわ」


 ミルクティー色の双眸が鋭く告げた。


「月のケージ?」


「もう。先月依頼したでしょう? 本当に自分がトゥランの王なのか、先読みで視てほしいって」


 あっと口を開ければ、呆れたように目をすがめられた。


「忘れてたわね~?」


「そ、それでお月さまはなんて⁉」


 身を乗り出してみせたが、正直なところ、エルは以前のような焦りからは解放されていた。


 自分が広大なトゥランの王だというのは、信じがたい話である。他にもっと相応しい人間がいるはずじゃないかという疑いは、今も拭い切れていない。だがおそらく、きっと、本当にそうなのだ。


 どれほどありえない話だろうと、ロスの言う通り、トゥールは確かに願いを叶えてくれたのだから。


「ええと、どっちから伝えればいいかしら。言いにくいことしかないわね……」


 美女は眉を寄せ、薔薇色の唇を噛んだ。


「まずトゥールについてなんだけど、王は他にいるわ。真の持ち主は、エルちゃんじゃない」

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