第51話 ミルクの味をした祈り(6)
はたとペリドットが見開かれる。その乾いた音には聞き覚えがあった。脳裏に一瞬で蘇るのは、最果てのトリカの長い夜。窓を鳴らす風、蒸気でけぶる薄暗い蒸し風呂小屋、背中に刻まれた白い病――。
「ロスさん」
「実は喘息持ちで」
何かを言うより早く、
「成人してよくなったと思ってたんですが、クープの空気の悪さでぶり返したみたいです。ご心配なく。ここ数日の療養で回復に向かってますので」
エルはテーブルに視線を落とした。ただちょっと似てただけ、そうに違いない。自分は医者でも何でもないのだから、咳の音だけで病気を区別しようだなんてとんだ思い上がりだ。それに聞くところによれば、あの病は大人だけを標的にするはずである。
ロスはまだ二十一歳だ。罹患するには早すぎる。
「お菓子作りは得意とは言えませんが、コーヒーには我ながら自信があるんです」
微笑みを浮かべた青年が、テーブルの上に手のひらを伸ばした。意図に首を傾げながらも、高鳴る胸に逆らわず右手を出す。
大きな白い手は、小さな小麦色の手を優しく包んだ。
「エルさんがケーキを焼いてくれるなら、おれはコーヒーを淹れます。あなたが飲みやすいように、たっぷりのミルクと砂糖で甘くして」
ワクワクする想像にエルもニッコリした。「素敵なテーブルになりそう」
「ええ、毎朝」
「……」
空っぽになったココットの上を、とたんに真顔になったペリドットが彷徨った。毎朝? この人いま毎朝って言った? ……どういう意味で?
顔面いっぱいの疑問符を受けてもびくともしない翡翠が、愛おしそうに細められた。
「エルさんのほしいものを何だって与えるとおっしゃいましたが、それは間違いで、ただおれがあなたにあげたいものを贈っているだけです。まだまだたくさんありますよ。まず自転車。
相変わらず、耳に甘い言葉だった。ここは壁に囲まれた箱庭で、その上一歩ドアを出たら命の危険しかない軍人宿舎の一室だというのに、果てしなく広がる空と大地の真ん中で夏の太陽を浴びているかのような心地にさせられた。
まだ、そうと決まったわけではない。いつもの子ども扱いの一種かもしれない。為すすべなく爆音で鼓動する心臓をこらえつつ、先を待つ。
暮れかけの残光が入るだけの室内は、ずいぶん暗くなっていた。闇でこそエルの目はよく働く。春の雨みたいな髪の流れも、歌うように語る薄い唇も、自分を映す優しい眼差しもさらりと乾いた大きな手も、余すことなく見て取った。
きっとこの一瞬を一生覚えているだろうと、ふと予感する時がある。エルは晩照に半身を照らされて手を握る青年の姿が、自分のそうした場所に書き込まれていくのを感じた。大人になり、やがて年老いたエルがすでに存在するような場所に。数十年後のずっと先の地平でふたりを眺める彼女は、未来から予言した。
あなたはどれだけ歳を重ねても、この夕暮れの将校室を覚えているわ。アルトサックスの音色を耳にするたび、少し濃いコーヒーを口にするたび、何度だって鮮やかに思い出す。
「落ち着いたら、温かい海沿いの土地を手に入れましょう。住居のオススメは、風通しがいいクラフツ様式の一軒家です。大きな
これ、やっぱり、口説かれてない? ……というか通り越して、プロポーズじゃない?
完全に俯いたエルは、ぐつぐつとのぼせ上がりそうな頭で脳内図書館の有識者会議を招集した。『えっ嘘』『ヤバいヤバいヤバい』『何が起きてるの?』『無理無理無理』『死にそう』……気が動転した司書どもは、てんで役に立たなかった。
「掃除はおれがしますので、そんなに広くないとありがたいです。ふたり暮らしなら、小じんまりとした家で十分かと。代わりに庭を広くしませんか。我らが愛すべき毛むくじゃらの友人たちに、毎日思いっきり走ってもらえるように」
やっぱりこれは、どう聞いても、そう!
握られた手が熱い。手汗がすごいことになっている気がする。息の仕方を忘れた。
わかっている、この世界で恋なんてしてる場合じゃないってこと。とはいえ、自分がとっくに結論を出してることにも気づいているのだ。
差し出されたこのエサに食いつかなければ、きっと後悔する。
「あのっ、ロスさん……っ!」
やっとのことで顔を上げたエルが目にしたのは、――顔を反らしてプルプルと肩を震わせた青年の姿。
「……エルさん、減点です」
マナー講師は、目尻に笑い涙の滲んだ顔で振り向いた。
「いいですか? ちょっと粉をかけられたくらいでそんな
長い人差し指が立てられる。頼んでもないレッスンが唐突に始まった。
「その気がないアプローチを受けた時の作法は、握られた手を上下ひっくり返すというもの。簡単に引き抜けますし、まともな紳士であればその時点で察します。態度で示しても食い下がってくる男はまともじゃないので、学校の先生かおれに言ってくださいね」
「……」
高揚していたはずの空気は、急に常温へ戻った。エルは激しい瞬きを繰り返し、ややあって目を
講師の言いつけどおり手のひらを返せば、あっさりと大きな右手は外れた。そのまま無言で立ち上がると、スラックスの
「いッ……!」
うめき声を上げたロスが足を抑える。冷え冷えとしたペリドットが見下ろす。
無礼者をしこたま成敗する足技。これもマナーレッスンの成果である。
「ゆ、優秀な生徒で嬉しいです」
「帰ります。忙しいんで」
引き
「色ガラスを嵌める時間を頂けませんか? おれが送ります」
「いりません! この女たらし!」振り向きざま、思いっきり頬を膨らませて糾弾する。「ちょっとばかし、クープで一番カッコいいからって調子に乗って!」
クスクス笑っているのが、余計腹立たしかった。悔しい! またからかわれた! ハンカチを乱暴に押し付けると、胸元に指を突きつけてきつく睨む。
「それ、洗って返してくださいね。可及的速やかに回復して、カフェで!」
荒々しくドアが閉められる音が、リノリウムの廊下に響き渡った。「ロスさんなんて、注射百本打たれればいいんだわ!」という捨て台詞に、目を丸くした少尉が興味深そうに近寄ってきた。
「破局?」
「そうかもね!」
パネル戸を睨んでいた赤毛頭は、ガックリと肩を落とした。「いいえ。……実をいうと、始まってすらいません」
結局、ロスにとって自分は子どもに過ぎないのだ。
力任せに閉められたドアを微笑んで見つめながら、ロスは遠ざかる足音に耳を澄ませていた。非常扉が閉ざされて、ローファーが外階段を降りていく。怒っているのがわかる足取りに、つい頬が緩んでしまう。
「……コン」
口元を抑えた彼は、ひとつ、空咳をした。
「ゲホッ、ゲホッ……ゴホッ!」
軽い咳は途切れることなく続き、身体が折られた。ほどなくして床に膝がつく。
銀のこめかみに脂汗が滲み、力を入れすぎて白くなった爪がシャツの胸元に深い皺を作る。心配で走り寄ってきた愛犬にも顔を上げてやる余裕はなく、肋骨を折るような激しい咳をひたすら繰り返した。ゼエゼエとした喘鳴が喉を鳴らす。
薬を、飲まなくては。床に
やがて、青年は発作の海から引き揚げられた。激しく息をしながら弛緩すると、眼鏡が落ち、アカシア材の床に額がつく。しばらくそうして身を起こしたあとには、通り雨でも降ったかのように脂汗が点々と痕を残していた。
壁にもたれながら、悲しげな翡翠が空になったカップを見下ろした。水差しを用意しておけばよかった。せっかく彼女が淹れてくれたコーヒーを、あろうことか白湯代わりにしてしまうなんて。きっとこれが最初で最後だから、心から味わって飲もうと思っていたのに。
呼吸のたびに突き刺す痛みをこらえて立ち上がり、ボタンに手をかける。
肩甲骨の狭間から皮膚に彫り込まれているのは、焼け落ちた灰に似た白い跡。神々の使う文字だとまことしやかに語られる不可思議な紋様。
読める者は地上に存在しないが、なぜか文字だと認識してしまうこの記号が身体に現れることを、トゥランでは『
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