第50話 ミルクの味をした祈り(5)

「それ、トゥランのご家庭でお馴染みのミルクプリンだって聞きました」


 勝手に開けた食器戸棚から、カトラリーを取り出しながら胸を張る。


「ライラさんに教えてもらったんです。ロスさんの故郷の食べ物で、風邪ひいてる時にもおいしく食べられるおやつがないかって。カフェにある食材だけだから、ローズウォーターとか金箔とか、オシャレなやつは入ってないんですけど」


「……」


 突然の差し入れ――しかも自分のことを思って手作りしてくれたという、夢にも思わない贈り物。状況を受け止めきれないロスは、口を開けたまま明後日のことを尋ねた。


「や、火傷は……?」


「ぷはっ!」


 噴き出した少女が「あのねロスさん」と指を立てる。


「あたしのおばあちゃんはパン焼き名人で、四歳の孫に樹木パンの焼き方を仕込んだんです。かまどの扱いなら、公用語を覚える前に知ってたわ」


 言いながらケトルに水を入れて、炉口クックトップにセッティングする。……が、下を確かめてみても焚き口がなかった。キッチンに付きもののまきも見当たらない。というかこの煙突がない部屋でどうやって煮炊きの煙を排気しているのだろうと、不思議そうな顔が天井を見上げる。


「その、実は薪が燃料じゃないんです」


 後ろから手が伸びてきた。壁から伸びたホースのツマミを回し、擦ったマッチの火を近づけると、一瞬にして青い炎が等間隔に立ち並び、エルは猫目をパチクリと瞬かせた。


「こちらはガスコンロと言います。都市部のベルチェスタンをターゲットに最近普及している、都市ガスを燃料にした厨房機器です。将校室の備品は湯を沸かすくらいの簡易的なものですけど」


「これが、あの!」


 古紙回収で拾った生活雑誌に掲載されていた最新のキッチン設備に、小麦色の頬が紅潮した。


 ギムナジウムにある調理器具といえば、前世紀から変わらない薪式オーブンとクッキングストーブである。ちょっとクッキーを焼くにも煤まみれになるわ再着火が面倒くさいわの骨董品を相手にしている身としては、煙にせることもなく指先ひとつで火の大きさも思いのままだなんて、魔法の一種に数えたいくらいだ。


 感心して眺めていた顔は、「コーヒーでよければおれが」といそいそ世話を焼き始めた病人を見て我に返った。「あ、もう完全に理解しました。楽にしててください」


「でも」


「アメイジングな石頭も紳士の仕様ですか?」


 キッチンから追い出されたロスは、脇腹がくすぐったいのを我慢しているような顔だった。


 青年はそわそわした気持ちを誤魔化すために、養父から贈られた蓄音機の蓋を開けた。針を上げてセットしたのは、朴念仁ぶりを心配した部下から寄越された『ロマンティック・セッション名曲集』……一生聴かないだろうなと思いつつ、黙って受け取った25ユニスSP盤レコードである。


 側面のハンドルを回し切って手を離せば、イメージよりも爽やかなサクソフォンのメロディーが溢れ出た。


 テーブルの上でハンカチに包まれた小さなおやつは、彼にとって巨大な金塊インゴットにも等しかった。キツネの嗅覚が働き、食材の種類と質を嗅ぎ当てる。牛乳、バター、糖蜜、バニラ、シナモン――化学調合品ではない、本物の甘いミルクの香り。


「……材料はどうしたんですか?」


「内緒」


 間髪入れずに答えたエルは「……勤労で貯めたお金を、少々」と、コーヒー豆に湯を注ぎながら打ち明けた。


「ゲルハルトさんはいらないって言ってくれたけど、そういう子ども扱いは好きじゃなくて。というか、あたしの気持ちだから。こんなの鍋底プリンじゃないっていうクレームなら受け付けるけど、もらえないってのはナシです。いつもこっちの遠慮だって、聞いてくれたことがないでしょ?」


 髪色と同じくらい、頬が赤く火照る。照れくさくてあらぬ方を向きたいが、でもこうしたことは目をまっすぐ見て言うべきなのだ。


 ソーサーに少し零れたコーヒーを差し出しながら、大きなペリドットが翡翠を映した。


「これは日ごろの意趣返しと、早く良くなってほしいっていう気持ちをこめたおやつです。だからお砂糖もバターもシナモンも、たっぷり使って作りました。いつだってロスさんはあたしのほしいものをくれるけど、……今一番ほしいのは、元気になったあなたです」


 言った。言ってやった。エルは熱くなった頬に手の甲を当てて顔をそらし、「ちょっと大げさかも」とはにかんだ。


 軽快な前奏イントロは終わった。蒸気機関の街で出会った想い人を田舎の海に連れ出そうと、甘いメロディーで誘う主題テーマが始まる。口笛混じりに爪弾つまびかれるアコースティックギターが、ピアノとサックスのセッションに加わる。


 ロスは両目を押さえて天井を仰いだ。


「死ぬなら今日がいい……」


「縁起でもないこと言わないでください!」


 頬を膨らませた少女が、まだ温かいココットを取り上げた。


「当然ですけど、食べる資格があるのは治す意欲がある人だけです。少尉さんの言うこと聞いて、ちゃんとお医者さんにかかること」


「レーベンスタットの軍医はヤブなんです。診療報酬の水増しのために頼んでもない注射をブスブス打ってくるので、部屋で寝てた方が」


「よく聞こえないわ」


「すぐ受診します」


「よろしい」


 ツンとした顔のまま、スプーンの前に皿を戻す。


「エルさんはお菓子まで作れてしまうんですね」


鍋の底カザンディビ』という名のプリンにスプーンを入れたロスは、一匙口にして、目を閉じた。「……世界一美味しいです」


 その幸せそうな表情を確かめたエルは自分の分を二口で片付けて、「本当はあたし、もっと手の込んだお菓子も焼けるんです。お見舞いだから消化にいいプリンにしたけど」と生意気を言うことで、飛び跳ねたい気持ちを誤魔化した。


祈願祭グリュクスブリンガーのキルシュトルテ、聖餐日ヴァノーチェのラム酒ケーキ、春祭りのレモンパウンド。夏にはクグロフ型を使って、とびきり綺麗なさくらんぼゼリーだって。……全部数十名単位での大量生産で、出来栄えはそこそこではあるけど」


 頬杖をつき、少し頭を右に傾けて、赤い巻き毛のかかった顔が悪戯っぽく笑う。


「春も夏も秋も、季節のおやつをこしらえて差し入れなきゃ。ロスさんのレアな顔、たっぷり見せてもらうために」


 翡翠の瞳が、大きく見開いた。


 薄い唇を噛んで俯く。サラリとした直毛の隙間から、赤く染まった耳が覗く。身のうちでこみ上げる痛痒いたがくて眩しいものは、いくら押し込めようとしても言うことを聞かずに溢れ出ようとする。


 直線的な広い肩が、テーブルにぐいと乗り出した。ブルーグレイのシャツの腕が伸びて、少しささくれた指先が少女の頬にそっと触れた。袖口からコーヒーと薬草の気配。手首に装着された腕時計の金のベゼルが、至近距離で光る。


 あ、キスされると思った瞬間。


 彼の手は引き返して口元で拳を握り、と小さな咳が漏れた。

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