第57話 極夜行路(4)

 その時、背後でドスン! と小麦粉袋が落ちるような音がした。「いったーい!」と聞き覚えのある幼い声に、揃って振り向く。


「メルサ⁉」


「はーい、エル!」


 そこにいたのは、三学年下のメルサ・セラハーニーだった。清流色の髪をふたつ結びにした少女は、クイーンを認めると満面の笑みで飛びついた。


「なんでここに⁉ どうしたの⁉」


「どうしたもこうも」


 ぴょんと跳ねて立ち上がると、胸元のリボンをきゅっと直す。


「ふたりでこそこそしてるから、さては皇帝の気持ちがクイーンに通じたかって、ギムナジウムじゃもちきりだよ。ひょっとして駆け落ちでもするんじゃないって話してたら、おやおやあれあれ案の定ってワケ!」


「なあーッ⁉︎」


 大慌てで「何の話だお前!」と口を塞ごうとするキリルの手を逃れ、メルサは「エルのダーリンが誰でもいいけど、メルサも連れてって。三人で暮らそっ」とニッコリした。


「も〜。キリル先輩と駆け落ちなんてするわけないでしょ」


 皇帝は「うっ」とよろめいた。背後の動揺に気づきもせず、「こんな夜遅くに出歩いたらダメじゃない」と、エルは後輩の身体をぽんぽん触って確かめた。運よく、どこにも怪我はない。


「メルサを置いてこうったってそうは行かないよ」


 いつもは聞き分けのいい十一歳の首席は、絶対に言うことを聞かない顔をしていた。


「エルと一緒ならどこだっていい。連れていって!」


「ええ~⁉」


 想定外の事態である。脳内図書館の司書たちは『危ないから帰らせなきゃ』『どうやって?』『カフェ・ムネモシュネで預かってもらうのは?』『顔出した瞬間にとっ捕まるわよ。こっちはID証をパクってるんだから』とてんやわんやの議論を交わした。


「遊びに行くわけじゃないのよ。すーっごく危ないことをするのよ。絶対戻ってくるから、いい子で待ってて」


「やだ」すげなく断って、何やら誇らしげに腕を組む。「メルサには仕事があるんだもん」


「仕事?」


 聞かん気の顔でリュックから取り出したのは、ウサギが描かれたピンクのノート。


「メルサ・セラハーニーの日記帳ダイアリー。それすなわち、エル・スミスの英雄叙事詩。クイーンの活躍を残らず書き記して百年先に伝えるのが、稀代の天才児の責務。驚天動地の冒険譚に世界は熱狂、ベストセラーは間違いなし! メルサは印税でガッポガッポ、西海岸でセレブな作家暮らしなの!」


「あなた、ダイアリーにそんなもの書いてたの……」


「エヘン!」


 顔色の悪い上級生たちをよそに、メルサは胸を張った。


「専属記者を置いてこうってんなら、こっちにだって考えがあるよ」


 あどけない顔立ちに見合わぬ悪どい表情で、さらにもう一冊取り出す。


「なッ……!」


 赤いギンガムチェックのリングノート。見覚えがありすぎるブツに、赤毛頭は戦慄で逆立った。


「エルの日記、百合リーリエ寮で朗読しちゃうよーん」


「なんてこと!」


 青ざめるエルとは別の理由で、キリルもまた頭を抱えていた。


「そもそもお前ら、命が惜しくないのかよ? 警官隊にそのノートが見つかったらどうなるか、知らないわけじゃないだろうが」


 女子ふたりは顔を見合わせると、「バレなきゃいいんです」「うちは治外法権だもん」と肩を竦めた。


 クープに閉じ込められた人々が禁止された行為は、婚姻制限や夜間外出といった大きなものから、購入してよいジャムの種類などの細則まで数百にものぼる。映画館の利用、バスへの乗車、自転車で走ること、スポーツの大会への出場……枚挙に暇がない禁則条項の中でも、『日記をつける』ことは、極刑相当の禁忌とされた。


「……」


 命知らずの所業に目を剥いた少年は、たちまち誰が先導したのか察し、エルを睨みつけた。


「も〜、わかったわ。でもあたしがいいっていうまで、後ろに隠れてること!」


「オーケー牧場!」


 メルサは満足げにクイーンの手をブンブン振り、ふたりの少女の後ろを憮然としたキリルがついていく。


 エルにとって隠れ街ハイドアウトとは、気の置けない人々が住まい、安全が保証された、地上とは比べものにならない楽園だった。だが今日ばかりは、息が詰まる緊張感に満ちていた。


 闇に呑み込まれそうなガス灯の暗がり、煤で見えない窓の奥、閉ざされた雨戸の隙間から、反逆の市民たちが無数の目を注いでいる気がした。見つかったら、連れ戻される。連れ戻されてしまったら、全てはそれで終わり。


 お願い、捕まえないで。小さな手を引いて走りながら祈った。


 ずっと、いい子にしてきました。大事なものを奪われても、理不尽な罰を与えられても、魂を踏みにじられても、歯を食いしばって。生まれた時から地の底育ちで、ワガママなんて言おうと思ったこともありません。


 今夜だけでいい。二度と願いごとなんてしないから、どうか見逃して。


 エーデ教会を回り込んだところで、脳内図書館で地図を広げた司書たちがここ! と指をさした。


「あの梯子はしごです!」


 そのまま先導しようとする少女を「お前は後ろ」と押しとどめ、キリルは自分が最初に上った。うっかり上を見て足を踏み外すのは、もうごめんだった。


 井戸を抜けたそこは、北壁にほど近い一画だった。木立の向こうで煌々と光っているのは、六角形のクープに開けられた六つのゲートのうち、北東壁のもの。プラタナスの木勢を越えて光の届かないこのあたりには、数本の細長い糸杉と小さな霊廟がひとつあるだけだ。墓の主は若い恋人たちなのか、屋根の上には弓を引く青年と林檎を差し伸べる女神の像が形作られ、雪が薄くかかっていた。


 近づくと懲罰対象となる壁際、草木も眠る刻限でなくとも、周囲をうろつくクープ市民はいない。……北東区画には、あの悪名高き再教育センターがあるのだ。悲鳴が聞こえる、腐臭がする、焼却炉の煙が途切れない――まことしやかに囁かれる恐ろしい噂は、限られた土地に人家が密集するクープにおいて、唯一の空白地帯を作らせていた。


 ゲートから伸びるサーチライトが回転し、ゆっくりと弧を描く。補修のために組まれた足場の横に、歪んだ正方形の影が落ちたのをエルは見逃さなかった。知っていてなお目を凝らさなければ気づくこともない、小じんまりした両開きの金属扉。


「あった……! やっぱりあった、七つ目のゲート!」


 大きな猫目が熱く潤んだ。


 正六角形の天上のない檻、クープ。それぞれの壁の中央には、絞首刑クレーンを備え付けた三重のゲートがある。駐屯軍によって厳しく監視されているこの六箇所の出口以外、出入りする場所はひとつもない……はずであった。


 ――知っての通り、ゲートは総督府に登録された一等国民しか通行できない。けど、のために、一箇所だけセキュリティが緩い場所があるの。


 ツェツィーからほのめかされて以来、エルはずっと考えていた。ある目的のためのゲートとは何だろう? それは一体、どこにあるのだろう? 違和感と矛盾の散りばめられた箱庭クープで、潤滑油グリスしたての赤毛頭が正解に辿りつくまでに、時は要さなかった。


 まず、箱庭クープとは、ベルチェスター連邦共和国がトゥランの子どもを安全に飼いならすために建設した巨大な檻である。万にひとつも歯向かうことのないように、建材にはトゥーラニアのむくろを用いるという念の入れよう。


 クライノート・ギムナジウムは、集めた小鳥たちに洗脳を施すための施設。だというのに、肝心かなめの教職を併合民に任せきりという奇妙な組織運営をしていた。おかげで、教科書の内容を黒板に記すそばから「これは嘘」だの、「102ページの写真は全部合成。当時と地形が違う」だの、ヴァルト人熱血教師が反逆の訂正をするに至る。


 どうしてこんなバカげたことが起きるのか、エルは長年不思議であった。二等と蔑むヴァルト人に任せたりせず、出自確かな一等国民を本国から数名派遣すればいいだけの話なのに。ロスから秘密を教えられて、得心した。


 何のことはないシンプルな話。彼らにとって、自分たちは人喰いの怪物なのだ。壁の中でモンスターに囲まれて暮らすくらいなら、たまに監査官を派遣してネズミを捕まえるほうがマシ。本国議会を筆頭にベルチェスターはそのように判断し、予算を組んでいるのだった。


 翠の目をした怪物への恐怖。日の沈まぬ超大国がちっぽけで貧しい三等国民を恐れて止まないことを、クープという巨大建造物は雄弁に語っていた。


 彼らが二等国民に一任する仕事は、もうひとつ。箱庭で死者が発生した際の後処理がある。これはクープ警官隊が務め、その他の併合民は葬列に近寄ることもできない。


 思い返してみれば、警官隊が壁外へ棺を運搬する道中で一等国民を見た記憶はなかった。いるのは葬送の歌をうたう小鳥たちと、オベリスクを切って黙祷するヴァルトの人々だけ。これもトゥラン人の性質を知れば、不思議なことではない。子どもすら恐れるベルチェスターが、三千年の呪いの具現である遺体に近づけるはずがないのだ。


 六つのゲートは、一等国民の看守の目が光っている。七つ目のゲートには、それがない。


 秘密の出口の用途はもしかして、遺体搬出口ではないだろうか? エルは仮説を立て、ひとつずつ推理を重ねていった。教職からも逃げる支配者たちが、そこの管理人を務めることはない。ベルチェスターが不在である以上、逃亡の恐れが高いクープ警官隊の配置も避けられる。無人で運用されていて、カードに仕込まれたトークンで出入りできるよう、特例措置を組まれているのではないか?


 用途の検討がついても、場所の特定が残っていた。友の死を惜しんで警官隊のあとを追おうとすれば容赦なく殴られるので、北へ向かう葬列の終着点は誰も知らないのだ。だが脳内地図を広げれば、人のひしめくクープで隙間があるのは再教育センターの周辺だけ。


 きっと、七つ目のゲートはあそこにある。エルは自分の推理に賭け、結果、勝利したのだった。


「ここが、クープの出口です」


 闇に輝くペリドットは、紋章の彫り込まれた偽造ID証をかざして告げた。


「あそこから、壁の外に出られます」


 キリルもメルサもそれぞれの翠眼を見開いて、金属扉に釘付けとなっていた。


 ――勤労せよ! きみには自由が待っている。ベルチェスター連邦共和国に自由と栄光あれ!


 白々しい標語を掲げたゲートをくぐった七歳の冬、自分はこの中で死ぬのだと確信していた。壁から出たあとの約束を家族と手紙で交わすたびに、きっとそんな日は訪れないだろうけどという苦い予感が舌に湧いた。


 兄さんも姉さんもたどり着くことを許されなかったその奇跡が、いま目の前にあるという。


 本当に、ここから出ることができる? 本当に、手を伸ばしてもいいって?


(さて、肝心なのはこれから)


 エルだけは、感慨に浸ることもなく頭を回転させていた。壁の外に出て何をするのか、キリルに理解してもらわなくてはならない。


 本当の目的を隠して連れてきたことは、一発殴られる覚悟をしている。だが、彼は王。民の願いなら何でも叶えてくれる神の如き存在。どれだけ怒られようが、やり遂げてもらうしかないのだ。……エルでは、ダメなのだから。


「キリル先輩。急なお知らせでちょっとびっくりするかもだけど、よく聞いてください。あなたはですねえ、トゥランの〜……」


 胸元から鍵を取り出そうとしたが、マフラーに髪が絡まった。いつもこの猫っ毛は主人を手こずらせる。苦戦していれば背後でふと、葉擦れに紛れて砂利を踏む音が立った。


 自分たちとは違う、四人目の気配。


「やっぱり、あんたは当てに来るよね」


 聞こえるはずのない声に、大きな猫目が見開かれた。

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