第47話 ミルクの味をした祈り(2)

 一日中夕陽に照らされたように朱色味を帯びた石畳の道を、赤毛の少女が駆けていく。ティールブルーのコートの胸元で大事そうにいだかれているのは、ウールのショールに包まれた小さなラタンのバスケット。


 キャン! と悲鳴を上げた子犬が路地から飛び出してきた。足を引きずってヨタヨタと走る姿を見送ったエルはふと、ベンチの上に置かれたビラに目を留めた。


 赤と緑に色分けされているのは、お馴染みレムリア大陸図。力強く太いフォントを用いて、ヴァルト、ノワイユ、トゥランの三言語でシンプルなメッセージが記されている。


は陸の孤島ではない。世界は蜂起を待っている』


 ……どういう意味だろう? 眉を寄せたペリドットは、一枚だけ置き去りにされた紙を見下ろしてパチパチと瞬きをした。


「そのビラを手に取ると、処罰しなくてはいけなくなるぞ」


「ひえ!」


 肩口からかけられた男の声に飛び上がる。


 癖のあるダークブロンドに、温かい胡桃色の瞳。たくましい長身で型落ちのフライトジャケットを着こなしたその人にバッタリ出会でくわすのは、三度目のこと。


「隊長さん⁉」


「また会ったなお嬢さん」


 ブレイク部隊の隊長ユージン・キースリングは、ポケットに手を入れて屈託のない笑顔を浮かべた。


「今日はギムナジウムの友だちと一緒じゃないのか?」


「ちょっとした用事があって」籠を背中に隠しながら言い添える。「ちゃんと授業も終わったし、勤労もない日なんです」


「怪しんでるわけじゃないさ。祈願祭グリュクスブリンガーでのガイドブックっぷりを見れば、優等生だっていうのは察しが付く」


 ハンサムはニヤリとした。「うちの副官と提燈祭ラテルネで大暴れしたのは、度肝を抜かれたけどな」


「あーっと……」


 曖昧な相槌を打ちながら、エルの頭脳は急速に回転し始めた。


「いったいどういう関係なんだ? どこで知り合った?」


「別に知り合いとかじゃないんです」


 冷酷な青年将校が隠れ街ハイドアウトからのスパイであることは、決して、悟られてはならない。


 キースリング伯爵家のユージンは、心優しきクープの英雄である。彼の評判ときたら、弱きを助け強きをくじき、国民等級のへだてを越えた全ての市民の味方であるという、フィクションのように立派なもの。実際に高潔な人士であることは一度助けてもらった自分が証拠であるが、いくら名高い慈悲深さでも、ロスを危険に晒してまで賭けてみようとは思わない。


「ブレイクの……何だったかしら? ドーソンとかいうあの大尉!」


 幸いにも、エルはこうした演技は得意だった。気分を害したようなへの字口を作って、もっともらしく言う。「あたしの友だちを虐めてたから、頭にきちゃって! 副隊長さんも一緒くたにバカにされてたみたいだし、鼻を明かしてみる? って誘ってみたんです。名前も連絡先も知りません。意外とノリがいい人でよかったわ」


「ふーん、アイツがノリのいい人ねえ……」


 ユージンは納得のいかない顔で顎をさすった。


「じゃあ、きみはロスのガールフレンドじゃないってことか」


「当然です」ツンと顎を上げ、当たり前の確認をするなという顔をする。


「見ての通り、あたしはトゥラン人だわ。ブレイクの隊員さんとそんな間柄になるなんて、天地がひっくり返ったってありえません」


 平然と言ってのけた横顔から、目線だけが石畳にぽとりと落ちた。空きっ腹にバターサーモンを詰め込んだ時みたいに、胃袋がずうんと重くなる。


 どうやら自分が放ったセリフは、エル自身に軽いボディブローを喰らわせたらしい。


 仕方ないじゃない。だってトゥラン娘との仲を邪推されたせいで、ロスさんの素性が疑われたりしたら一大事だもの。あーでもちょっとだけ、猫とか犬とかのフカフカに埋もれて癒やされたい気分……。


「安心した」


 青年が肩を竦めると、ワックスでざっくばらんに流されたダークブロンドが風に揺れる。「なら、わたしが立候補しても問題ないな」


 エルはぎゅっと眉を寄せた。何に?


 疑問は口に出すまでもなく、ウェーブした髪をすくい上げた大きな指が答えを示した。


「初めて見た時から、気になっていたんだ」


 赤い毛先が触れるか触れないかの距離に引き寄せられ、唇を鳴らした軽い音が立つ。胡桃色の瞳は細められて、ご機嫌を伺うような恭しさでエルを覗き込んだ。


「高等文官をも恐れない気の強さ、背中に友人を庇う高潔な心、見ていると胸が踊る快活さ。その大きなペリドットに映るチャンスを、わたしにも与えてもらえたら嬉しいのだが」


 ……もしかして、これ、口説かれてる?


 晴天の霹靂、寝耳に水、藪からスティックである。予想外の展開に、少女は完全に硬直した。ボディーを動作停止させて浮いたメモリの分で、頭蓋骨の中に詰まった図書館が全力で検索エンジンを稼働させる。24時間勤務の司書たちが収蔵書物をひっくり返して、喧々諤々けんけんがくがくのディスカッションをやり合う。


 火急の議題は、『圧倒的目上の人間から仕掛けられた突然の求愛を、無事に切り抜ける冴えた方法』。


「隊長さん、その」


「名前で呼んでほしい」


 英雄は上手うわてであった。トンとさりげない仕草でベンチの背もたれに手をついて進路を妨げながら、共和国のレディーたちが直視したら卒倒しそうな笑みを返す。「きみさえよければ、ジーンと」


「急にこんなことを言われて戸惑ってるよな。わたしも本来は呑気なほうなんだが、まごまごしていたら後悔することになりそうだと思ってさ。だってきみ、モテるだろ?」


 エルは額にこぶしを当てて眩暈をこらえた。「クープの英雄よりモテる人類、この七ギールマルト四方に存在しないと思いますけど」


「ただのプロパガンダだ」咄嗟に抗弁したユージンは、バツが悪そうに口元で人差し指を立てた。「……すまん、今のはオフレコで頼む」


 青年はベンチに腰を下ろした。長い脚を組み、憂いのある眼差しで凍てついたクープの路上を眺める横顔は退廃的な絵画から抜け出した美青年そのものだったが、ポケットから出された手が掴んでいたのは乾燥トウモロコシの粒だった。


 無造作に投げれば、狂喜乱舞した鳩たちが集まってくる。


(鳩エサ直入れ仲間だわ……)


 わずかに親近感が芽生えたが、ここで余計な一言をいうのはアホである。ユージンは「若手だから文句も言えないと思って、都合よく広告塔に使われているだけさ」と物憂げに言った。


「実際の暮らしは地味なもんだ。職場と寮の往復だし、右を向いても左を向いてもブレイク隊員とハウンドだらけ。ま、わたしも華やかなことは得意ではないし、これまでそれで構わなかったんだが……」


 ベルチェスター人らしい桃色がかった白い肌が蒸気する。「初めてなんだ、こんな気持ちは」


「光栄なお話なんですが遠慮します」


 バッサリと断り、エルはコートの上から腕をさすった。「ちょっとアレルギーで、ハンサムに近づくと蕁麻疹が出ちゃって」


「ハイスぺイケメンをご所望だと聞いた覚えがあるが」


 級友がデカい声で漏洩した個人情報は忘れ去られていなかった。日頃の行いが悔やまれてならない。


「自分で言うのも何だが、わりとお買い得物件の自信があるぞ」


 食い下がる青年は苦笑いで頬を掻いた。


「この場で結論を出すのは勘弁してくれないか。せめて生身のユージン・キースリングがどんな人間か、プレゼンする機会を与えてほしい。そうしたら世間で語られる英雄なんかいなくて、どこにでもいるただの男だってことが分かってもらえると思う。きみはわたしを手のひらで転がしながら、ドレスやらジュエリーやらを気にせず受け取ってくれればいいさ。……ああもちろん、来週からの食糧統制に関しても手助けできるだろう」


 胡桃色の瞳が細められた。「子どもたちに贈る食料なんて、山ほど積んだっていいってもんだ」


 息を呑んで後ずされば、かかとに縁石がぶつかった。見え過ぎる翠眼を周囲に走らせて、通行人の人数、大通りまでの距離、警官隊や軍人の有無を確かめる。


 赤毛頭に収められた巨大機械は、検索を完了した。


「アアアーッ!」


 突然、マーモットもかくやの絶叫。コートを着込んだ身体がくの字に折られる。「急にっ! 腹部に差し込みがーッ!」


「え?」


 目の前で大声を出され、ユージンは面食らったようだった。鳩もビビって飛び立っていく。


 動揺する一同に構わず、エルは「可及的速やかにっ、花を摘みに行かなくちゃいけないわ!」と鬼気迫る形相で告げた。


 管制閉鎖区域クープに花畑などない。腹を抑えた年頃の女子が使う隠語には、どんな朴念仁だって気がつく。


「そ、それは大変だ。すぐにノーフォードを手配しよう」


 慌てて車を探し始めた青年に「無理」と据わった目で告げる。


「もう、大事故が起こる寸前」


 とんでもない告知に、青ざめた美しい顔が息を呑む。


「ということで失礼します!」


 返事を待たず、きびすを返して駆け出した。「待ってくれ!」という制止には当然振り向かず、腕の中のバスケットが跳ねないように抱きしめながら全速力で。


「びっ……くりしたあ〜! 一体何だったの?」


 大通りを行く群衆に紛れ込んで、一息。エルは強張った肩をようやく和らげた。


「ろくに会ったこともないのに、いきなり口説いてきたりして。変なキノコでも食べたのかしら?」


 胸がドキドキと脈打っていた。しかしこの胸の高鳴りは、カフェ・ムネモシュネで味わういつものやつ――からかい混じりに見下ろしてきたかと思えばとびきり優しく細められる、切れ長な瞳を前にした時のそれとは違う。どちらかといえば、ギングマを殴った棒がへし折れた時の、ぞっとする心境に近い。


 食料を融通しようというほのめかしには、たしかに心動かされた。見返りのない施しなど存在しないのが世の常とはいえ、命を投げ出すことも恐れないのがエル・スミスである。検討してもよい条件のはずだったが、トン、トン、トンと数パターンの顛末てんまつをスライドにした脳内有識者会議は、満場一致で却下した。


 優先順位の一番上は、いつだって大切な人々の命である。替わりの効かないものを守るためなら、何を捨てたって惜しくない。


 けどその次に、……叶うことなら、どうか誰にも奪わないでほしいものがある。


「靴を舐めろとか、満足いくまで殴らせろとかだったら頷けたのに」


 大きなペリドットは呆れた眼差しで冬の曇天を仰ぎ見て、小さくため息を吐いた。


「命よりもあたし、ちっぽけな恋のほうが大事みたい」

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