第7章

第46話 ミルクの味をした祈り(1)

『レイディース・アンド・ジェントルメン! 親愛なる大統領、そして全てのベルチェスター連邦共和国民の皆さん、ごきげんよう。キャスターはジェフ・フォレスト、ディスクジョッキーはリッキー・ワイラスでお送りします』


 年明けのコーヒーハウス、カフェ・ムネモシュネ。カウンター横に置かれた真空型ラジオ受信機からAM放送が流れている。大音量で大学対抗戦のフットボール中継が始まると、顔をしかめたライラがツマミを回した。


「そういや陛下の修行ってどうなってんだ? トゥールを使えるようになったのか?」


 BLTサンドを飲み込んだギヴが出し抜けに問いかけた。せっつきを含んだ明け透けな質問は、当のエルがいないゆえである。


「相変わらずだよ。それが?」熱いジンジャーティーにラム酒を垂らしつつ、ライラが答える。


「大丈夫なのか?」


「大丈夫って?」


「守護者もあんたらも、悠長なことしてるだろ。国家の再興がかかってるってのにお辞儀の練習だのダンスだのさせられてりゃ、陛下が焦るのももっともだ。マナーレッスンだか何だか知らねえが、もっとちゃんとした方がいいと思うぜ」


「いいんだよ、あれで」


 スプーンを回しながら、初老の淑女はハッキリ言った。「あの子に必要なのは、あの時間なんだ」


『ハイ、ロブ! ナウィアスカに別荘を買ったんですって?』『大統領選が近づいてきましたね。労働党のウォレス議員に、党大会に向けての意気込みを語って頂きましょう』『ノルマス港沖で、ベルチェスター海軍とヴァルト・ノワイユ連合軍が衝突。死者数は少なくとも』『ヤギの精巣からの分泌物と人間の性欲にいったいどんな関係があるって? まともなアタマをお持ちの皆さまはそう考えるに違いない』


 ラジオのツマミを回せば、種々雑多な放送に切り替わっていく。ノイズと音割れだらけで、聞けたものではない局もあった。レーベンスタットに無線基地を持つ放送局もあるが、周波数によっては国境を超えた遥か彼方から届くのだ。雑音塗れのその放送を聴いているのがバレたら、もちろん命はない。


 用心深い翠の眼がある目盛りにチューニングした時、ひときわ甲高いハウリングがカフェの静寂を切り裂いた。


『今年の鍛冶始めの月トバルカインは大雪となる。繰り返す。今年の鍛冶始めの月トバルカインは大雪となる』


 コーヒー豆に注がれるケトルの湯が、ぴたりと止まった。


 ゲルハルトは深く彫り込まれた目を上げた。ツェツィーはタイプライターに打ち込む手を止め、カムランは新聞のクロスワードにかぶりついていた顔を剥がし、サンドイッチをたいらげようと大口を開けたままのギヴは、じっと真空管を見つめた。


 反逆者たちの目と目が合う。


 魔女のような爪が不意に伸ばされて、ラジオ放送は平凡なメロドラマに切り替えられた。カラン! とドアベルを鳴らし、彼らの親愛なる女王が入ってきたからだ。


「寒ーい!」


 ふわふわの淡い赤毛には、シクラメンの花弁に似た粉雪がついていた。


「聞きました? ニュース!」


「なんのニュースだい?」


 飲みかけのポットからジンジャーティーを淹れてやりながらライラが尋ねる。鼻の頭を赤くしたエルは、「今朝、急に評議会からお達しがあったんです。物資不足に喘ぐ連邦共和国を支えるため、来週から給食は一日一回とする、ですって!」と、憤懣やるかたない様子で訴えた。


「再生水は子どもひとりにつき、300グレンのコップ二杯まで。朝についてた缶詰のスープも、二日置きになるんだって。信じられます? これじゃみんな、脱水と栄養失調で倒れちゃう!」


「許せないね!」珍しく憤った様子のカムランは、ヒゲの下で口をへの字に曲げた。「育ち盛りからパンもミルクも取り上げようだなんて、頭がどうかしてる!」


「学長先生は雨水を貯めれば切り抜けられるって言ってるけど、オフィーリア先生は鼻で笑ってた。当たり前よね。雨なんて夏からほとんど降ってないし、雪もたまにチラつくだけだもの。総督府じゃ毎晩パーティーしてるくせに、何が支え合いよ!」


 天井を悔しそうに睨む目に、ふと訝しげな色が差す。


「……それともほんとに、ベルチェスターは食料がなくて困ってるとか? どうしてそんなことが起こるっていうの?」


 大人たちの視線が鋭く交わった。


 クイーンの脳みそはいつだって潤滑油グリスが差したてである。考えても栓ない疑問は早々と放り投げて、「隠れ街ハイドアウトが手に入れてる食料、ギムナジウムにも横流しする手段って何かないですか?」と本題を切り出した。


「やってあげたいのは山々だけど、それをするとぼくらの存在が確実に当局にバレるんだよねえ」


 カムランの言が意味するところは、地下街すべての住民を対象とした跡形もない処刑。自分たちの飢餓か隣人たちの死という、いくらなんでも最低すぎる二択を前に、「ううーん!」と苦悶した赤毛頭がワシワシ掻き混ぜられた。


「食料を直接おろしてもらうことも不可能ですか? つまりカフェ・ムネモシュネを通さずに、あたしがツェツィーさんの実家のリューゲン商会さんとやり取りするってこと。クープの内と外を融通するパイプがどこかに存在するんですよね? そりゃ危なさには変わりないけど、隠れ街ハイドアウトを介さないだけでも最悪のパターンは」


「無謀なことを考えるな!」


 大人たちの厳しい声が揃った。


「エル。それは箱庭から出ようというのに等しい」


「あんたをここから逃がす手段があるのなら、あたしらが使わないわけないだろう?」


「でも、試してみる価値はあるって思わない?」


 深刻な制止もどこ吹く風。自分をベットした賭けなど、エルにとっては日常茶飯事のことだった。これまで首尾よくやってきたのだ。今回だって、たぶん何とかなるだろう。


 どうせ失敗しても、ロストするのはこの命ひとつに過ぎない。


「どうやらあんた、まだ勘違いをしてるようだね」


 手首をきつく握りこまれて瞬きをする。ライラの鋭い眼が顔を覗き込んだ。


「いいかい。最悪のパターンってのはね、壁の前に立たされたあたしらがハチの巣になることじゃない。ギムナジウムの子どもたちがどうにかなっちまっても、まだ底がある。あんただ。あんたが敵の手に落ちることが、この地獄の底の底なんだ」


「……何よ、それ」


 大概のことは鷹揚に受け入れるペリドットに、火のような怒りが滲んだ。


「勝手なこと言うのもいい加減にして!」


「そりゃ無理な相談だ」


 憤りを込めて腕を振り払おうとすれば、しかし、初老の女の瞳に揺らめく緑炎を目にして息を呑む。


「人の勝手でこの世界は回ってるんだ。あんただってそうだろう?」


 暗がりを照らして余りあるこの熱には覚えがあった。


 ずっと昔、血の海の納屋で母から浴びたのと同じ炎。


「百年前、トゥランの民は地獄の底に落とされた。あたしの曾祖母と祖母は、地獄の中で死んだ。母さんはザグレタの外で戦ったが……夜明けはまだ遠かった。四世代目のあたしが半世紀生きてようやく、東の空の色が変わりそうなんだよ。この太陽を奪われたら、次の朝を望むまで、また百年かかるだろうね」


 色ガラスを嵌めた眼鏡の奥で、翠眼が「エル、その目を曇らせるんじゃない」と微笑む。


「怖くても瞼をひらきな。そうしてありのままを確かめるんだ。自分がいったい、何者なのかってことを」


 コーヒーハウスに集まった『夜を行く船サーリヤ』の人々は頷いた。


「……」


 俯いた赤毛頭は、唇を噛み締めて床を睨んだ。


 全くロスといい導きのトゥールといい、口を揃えてエル・スミスは自分自身について、決定的な心得違いをしているのだと言ってくる。エル以上に、エルを理解している人間などいないはずなのに。


 踏みにじられた記憶も、むしり取られたものもたくさんあった。だがひとつだって、人に明かしたことはないのだ。


 あれを、言葉にすることはできない。


 エルも頭では分かっていた。いかなる悲劇だろうと、あるひとつの事件に過ぎないということ。事実をつまびらかに述べることは別に不可能でなかったし、聴衆を号泣させようと思えば朝飯前だ。だが、そうしたくないのだ。


 つまりこの大陸に生きる人々がエル・スミスについて知っているのは、ほんの少し。


 だというのにどうして皆が訳知り顔で、『分かってない』などと首を振るのだろう?


「どの道、あのルートをエルちゃんが使うのは無理なの」


 静かに聞いていたツェツィーが、エプロンのポケットから何かを取り出した。


 スリープに入ったそのカードは、一等国民の登録ID証。


「偽造よ」


 地下帝国の聖母ホーリーマザーはあっさり言った。


「知っての通り、クープのゲートは総督府に登録された一等国民しか通行できない。それ以外の通用口も、二等や三等のネズミがチョロチョロ出入りすることがないよう厳重に管理されてるわ。けど……のために、一箇所だけセキュリティが緩いゲートがあるの。そこならID証だけで通行可能。わたしはウィッグを被ればベルチェスター人のフリもできるし」


 興味深い話に、赤毛頭は身を乗り出した。「ある用途のためのゲートって?」


「秘密」


 悪戯っぽく、しかし断固とした様子でツェツィーは片目を瞑った。「この話はこれでおしまいよ、エルちゃん」


「心配いらねえ! しばらくはしみったれたメシを食わなきゃかもだけど、すぐ終わるさ!」


 コートを着込んだままの肩を後ろからバンと叩かれて息が詰まる。口元にパン屑をつけたギヴはウインクした。


「詳しいこたあ言えねえけど、まっ、大人に任せておきなさいって!」


 大きな猫目が、ジロリと一同を睨みつけた。全く、人のことを王だなんだと担ぎ上げておきながら、肝心なことは秘密だなんて! しかし、反逆者たちの笑みはビクともしなかった。こうして子ども扱いする連中には何を言っても無駄だということは、ティーンなら誰もがよく知っている。ムキになればなるほどカーテンに腕押し、ジャムに釘なのだ。


 諦めたエルは、大きなため息をついた。「ところでロスさんは?」


 珍しいことに、いつも新聞を読んで生徒を待っているマナー講師は、本日遅刻であった。


「ああ忘れてた! 伝言を頼まれてたんだった」


 額を叩いたカムランが、胸元から小さなメモを取り出す。


「えーっと、『申し訳ありませんが、今日のマナーレッスンは中止です。ディナーはキッチリ食べて、ナハトムジークに気を付けて帰るように』。以上」


「中止って? 何かあったんですか?」


「あー」


 丸眼鏡の奥の翠眼が、右斜め上にある壁掛けの鳩時計を見上げた。「……風邪を拗らせた、みたいだねえ」


「風邪」


 確かにこのところ、レーベンスタットは酷い冷え込みだった。トリカ育ちには何てことない気温とはいえ、温暖なトゥラン南部出身のロスにとっては何倍も厳しく感じられるかもしれない。辛そうな姿を想像し、エルは眉を下げた。


「そういうことなら、今日はこれで帰ります。レッスンがないのに、ご馳走になるわけにはいかないもの」


 来週からの粗食に打ちひしがれている学友たちを思えば、自分だけタダ飯にありつくというのはためらわれた。だが「それは困る」と、カウンターの奥から重々しいがかかる。


「もう代金は受け取り済みだ。ついでに申し添えれば、あとは皿に盛り付けるだけとなっている。貴重な資源を無駄にしたくなければ、諦めて腹に収めてもらおうか」


 ゲルハルトは有無を言わさぬ顔をしていた。仕方なくエルは心苦しい気持ちいっぱいでスプーンを運び、ホカホカのビーフシチューをたいらげたのだった。


 カムランの口ぶりからすると、ロスの不調は単なる流行性感冒で、すぐに回復するものと思われた。


 だが翌日も、その翌日も、そのまた翌日も翌々日も、エルの守護者はカフェ・ムネモシュネに姿を現さなかったのだった。

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