第48話 ミルクの味をした祈り(3)
英雄の御乱心は、さすがのクイーンも動揺を誘われる奇行であった。とはいえ今日ばかりは、余計なことに意識を割く時間も余裕もないのだ。無理やり頭を切り替えて、大通りを駆け抜けるようにして先を急ぐ。
ブロックを過ぎていくにつれ、行き交う人々から女性の姿はなくなった。やがて二等以下の市民も消え失せて、暗い色合いの上質なコートを着込んだ男たちは酷薄そうな目で、走るトゥラン娘の姿を追う。
南ゲート近くのここは、一等国民の居住区画。クープ警察に見咎められたらきつい懲罰を受けるエリアだが、警官隊による鞭打ちならマシな末路だった。最悪の場合、命の保証はない。目的地に近づくにつれて、危険指数は増していく。
『決して、
険しい形相をしたアガタに教えられるまでもなく、あの集団の残虐さならエルはよく知っていた。だから万全の注意を払っていたはず――なのだが、「そこの君!」と厳しい声で呼びかけられ、心臓が口から飛び出しかけた。
「こんなところで女の子ひとり何してるんだ! 危ないだろうが!」
それは若いベルチェスター兵だった。まだ十代と思われるあどけなさだが、ブラックマントを羽織った隊服はブレイク部隊であることを示している。
生真面目な叱責から察するに、最悪のパターンではなさそうだ。だが問答無用で帰らされるのは、目的を果たせないという点で歓迎できるものではなかった。(どう言いくるめようかしら……)と脳を回転させながら振り向けば、彼は「あっ!」と驚いた顔で指を差してきた。
「ロス副隊長の彼女だあ!」
「……」
レジスタンスの一員として、望ましい反応が咄嗟にできなかったことを責めないでほしい。彼女? 彼女って……カノジョ⁉ 軽薄なワードが脳内を反響し、機能を著しく低下させたのだ。
「べっべべ別に全然? そんな間柄じゃ、ありませんけども⁉」
「そお?」挙動不審っぷりを物ともせず、少年は首を傾げた。「副隊長、満更でもなさそうに見えたけどなあ」
エルの方も、キャラメル色の髪をこざっぱりと整えたこの若者のことを思い出していた。
「……満更でもなさそうに見えました?」
「そりゃもうバッチリ」グッと親指が立てられる。
「あんな顔した副隊長、ぼく初めて見たもん。
言いながら「それなら用事はわかるよ。ついておいで」と、真新しい隊服の背が向けられる。
「え?」
少女が抱えたバスケットを見て、青い目はニッコリした。
「副隊長の見舞いだろ?」
駐屯地の柵を飛び越えて連れて来られたのは、煉瓦造りの大きな建物の裏手だった。葉の落ちたトチノキの横に、螺旋状の非常階段が伸びている。
「三階の隅が将校室。今は勤務時間中だから寮には誰もいないよ。安心して」
「ありがとうございます。でも、どうして案内まで?」
雲一つない乾いた冬の空に、階段を登る音が高く響く。
「具合がよくないってことは、ぼくも知ってる。溜まりまくった有給をありったけ使うって申し出て、長官が椅子からひっくり返ってたからさ。だからよっぽど悪いんだと思うんだけど、いったん引っ込んだらも~~部屋から出てこなくて。食堂にも来ないもんだから、食事を持っていっても門前払い。いくら何でも限度があるだろ? でもきみが声をかけたら、ちょっと話は違うと思ってさ」
ため息を吐いて、明るい茶髪頭が空を仰ぐ。「本当、犬以外にはてんでドライだよ。栄えある伯爵家出身だってのに、ちっとも女っ気がないのも納得だね」
興味深い情報に、つい食いついてしまう。「女っ気がない? 本当?」
「逆に聞くけどあると思う?」
「質問の意図がわからないわ」
眉を寄せたエルは、うっかり素で返事をした。
「だって紳士だし、優しいし、ちょっと意地悪だけどお茶目なところもあって……どこからどう見ても、クープで一番カッコいいでしょ」
目を丸くして振り向いた少年は、「それは……ぼくが知らないロス・キースリングだ!」と笑い出した。
「ガールフレンドからの評価が星五つだって知ったら、どいつもこいつも床を転がり回るだろうな!」
階段から落ちそうな勢いで大ウケの案内人を横目に、少女は自分の迂闊さに頭を抱えた。エル・スミスって人、もしかしてバカなの? 秘密にしないといけない関係だって、分かりきった前提をスコンと忘れたりして!
「あのお〜、今日あたしが来たこととか副隊長さんとのこととか、まるっと全部、ご内密にお願いしたいんですが~……」
「もちろん。身分違いの恋人たちの邪魔するような野暮じゃないさ」
揉み手で願ったことに、気のいい新米少尉はふたつ返事で頷いた。
「うん、ぼくはイケてると思うよ、副隊長ときみ」
何か誤解されている。とはいえ黙っていてくれるというのであれば、わざわざ訂正することもないだろう。……正直、悪い気もしないし。
非常扉を開けた少年は廊下に人気がないことを確認し、足早に角部屋をノックした。
「監査書類ならメッセンジャーに預けましたが」
少し掠れた声。部屋の奥から投げているのか少し反響して届いたそれに、エルの胸が高鳴った。
「面会はお断りしています。用事はルームポストに文書で投函してください」
「あの」
口に出したのは短い呼びかけだけで、名乗ったわけではなかった。だが扉の向こうにいる人間は、声の主人を一瞬で把握したらしかった。
バサリと床に落ちたのは新聞。椅子が蹴倒され、バタバタと忙しなく駆ける足音が右往左往する。ガサガサと小さい紙製の何かを掻き集め、まとめてどこかに押し込んでガンと閉めると同時に、バン! と木板のぶつかる音が響く。……おそらく、チェストオンキャビネットの引き出しを閉める勢いが強すぎて、上の引き戸が反動で開いたのだ。
束の間、ピクリとも動かぬ静寂が支配した。
「……エ、エルさん……⁉」
扉を開けたロスは、赤くなった額を涙目で抑えていた。ズレた眼鏡の奥から素早く廊下に視線を走らせると、少女の腕を掴んで部屋に引きずり込む。
「どうしてこんなところに!」
瞬時にドアの施錠まで済ませた彼は、気遣わしさいっぱいの顔で叱りつけた。
「なんて無茶をするんです! ここがどこだかっ……どんなやつらが集まる場所だか分かっているんですか!」
「わ、分かってます。部屋まで入れちゃうのは想定外だったけど」
近すぎる端正な顔を両手で制しつつ、横を向いて熱くなった頬を隠す。「たまたま出会った少尉さんが連れてきてくれて」
その情報だけで、ロスは手引きした犯人を把握したらしかった。
「ライナス・ブラウン少尉ー‼」
部屋の外から、少年隊員の笑い声が上がった。
「副隊長が悪いんですよ! 軍医の診察も受けないどころか、ろくに食事も取らずに引きこもってるんだから!」
「だからって、女性を軍人宿舎に連れてくるなんて!」
「ちゃんと送り届けますんでご心配なく。あっ報酬は夜警の配置換えでいいですよ。壁上はもう寒くって。それじゃあ、ハニーとごゆっくり!」
「ハニー⁉」
エルのすぐ上にある顔に、パッと朱が散る。
「そっ、そんなただれた関係ではありません! 訂正しなさい少尉、彼女に失礼でしょう!」
「信じられない。
感嘆の声音で漏らされたのは、アイスマンより数段ひどいあだ名である。
「しかもからかい甲斐がある」
「少尉!」
「おっとすみません、心の声が」
デカい独り言で上官を煽りながら、「半年くらい愉快な気分でいられそうです」と少年は遠ざかっていった。ドア相手に説教をかまそうとしたロスは、人差し指を立てた腕を行き場のない様子で下ろした。
「ええと」「あの」
何を喋ろうか決めかねたままの声が被る。今更距離の近さに気付いたのか、ハッと
七日ぶりの再会である。部屋着姿の守護者の姿を、エルはまじまじと確かめた。
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