第35話 キツネとアップルパイ(9)

「確かに、あんな人たち、コテンパンにぶっ飛ばしてやりたかった。許せないと思ったわ。でもまさか、……爆弾を出すなんて」


 苦しげに顔を歪めながら、クシャリと猫っ毛を鷲掴わしづかむ。「爆発したのは車だけで、誰も怪我をせずに済みました。けどそれはたまたま、手榴弾を投げた先に誰もいなかったから。あたしは今日、人を殺してもおかしくなかったんです。そんなこと、願ったわけじゃなかったのに」


「エルくん。つまり、トゥールが手榴弾を?」


「はい……」


 口を挟んだのは、カウンター横でレコードを選んでいたカムラン。古めかしい燕尾服を纏った老紳士は両手で口ひげを抑えると、瞳を輝かせて叫んだ。「マンマ・ミーア!」


「この人、長くエスペリオにいたもんだから。かぶれてんだ」コーヒー入りラム酒をあおるライラが言った。


 エスペリオはヴァルト州の西南方面、水の都と呼ばれる渡州八国のひとつである。


「聞いたかゲルハルト! うちの女王の優秀なことときたら! トゥールが顕現させられるのは、自分で仕組みを理解しているものに限るんだぞ!」


「お前に言われるまでもない」ゲルハルトは銀盆を磨いていた。「あの子は豆の違いがわかるんだ」


「効きコーヒーは茶会のネタにしかならんじゃないか。だが兵器を出せるということは、戦争に勝てるってことだ!」


「めでてえ!」ミートボールスパゲッティを掻き込んでいたギヴも快哉を叫んだ。「ちなみに何の車をふっ飛ばしたんだ?」


「ぐ、軍のT型ノーフォードですけど」


「ワーオ‼」


 反逆者たちの大歓声とともに、帽子やナプキンが宙を舞った。


「見たかベルチェスター! これが王の力だ!」


「尽きない弾薬に燃料! ゆくゆくは戦闘機に戦車まで……!」


 立ち上がった男たちが肩を叩き合う。「そしたらおれたち、やっと故郷に帰れるってわけだな!」


「そうだとも! こんな穴倉あなぐらを出てひとっ飛びでイラスメイ! そして雄大なるナルガルの滝、母なる霊峰ハルブルズ、黄金の都アランシャフルだ!」


「やっと骨を持って帰ってやれるんだねえ。おっといけない、涙が出てきた」


「いやだからっ! 使えないんです!」


 どんどん重ねられていく皮算用に焦るのはエルだけで、サーリヤの面々は「そーお?」「使えてるじゃないか」「なあ?」と首を傾げた。


「手榴弾なんて強力な武器、出そうと思って出せるもんじゃない」


「出そうと思って出してません!」話が通じなくて地団駄を踏みたい気分になる。「あとちょっとで殺すところだったし……!」


「あとちょっとで仕留められたのか」グラスを空にしたライラはニヤリと笑った。「残念だったね」


 エルは白目を剥きかけた。助けを求めてツェツィーを見たが、栗色の頭は困ったように横に振られただけだった。


 残念ながら、まだ未来視の結果は出てないということである。


「……ロスさん、ずっと変だと思ってました。マナーレッスンは、錠前破りとかいう魔法を強くするためのもの。でも、クープの中じゃ魔法は使えない。王の力が目覚めない限り、だれひとりとして。なら、こんなことしてる場合じゃないはずでは? まずはトゥールに認められるのが第一優先で、他のことはその次じゃないんですか?」


「いいえエルさん。焦らなくても大丈夫。王の力は必ず目覚めますから」


「何の根拠があって⁉」


 同じ言葉を繰り返すロスの説明は、空虚な子ども騙しにしか聞こえなかった。


「いい加減、トゥールの評価基準を教えてください! この鍵が王と認めるためには何が必要で、どうすればそれを手に入れられるのか! 守護者であるロスさんは知っているはずです、従えるために必要な条件を!」


 翠眼を揺らすのは焦燥。


 声を荒げても、青年は「すでにお伝えしています」と微動だにしなかった。


「自分が何者なのか見定めること、命を費やす仕事を見つけ出すこと。さすれば天輪があなたの魂に契約を記し、真の力を振るえるようになるでしょう」


「……」


 エルは唇を噛んで俯いた。


「自分のことを見誤っているだなんて、心外なご指摘だわ。……これ、返します」


 ソファーに腰掛けたロスに、鍵を突き出した。


「よそを当たってください」


 怒りを滲ませた大きな翠眼は、さっさと受け取ってもらえます? と言わんばかりに、生意気に見下ろした。


 切れ長の銀眼は、尊大な静けさをもってひたりと見返した。


「すみませんが、それは出来かねます」


 同じくらい譲らない顔をした少女と青年は、しばし無言で睨み合った。


「待った待った待った」小麦色の手を押し留めたのはギヴだった。


「らしくないぜ。ちょっと駄々っ子の鍵ごとき、素直になるまで言って聞かせるのがエルって女の子じゃないのかい。ドーンと構えてりゃいい、あんたが持ち主なんだから」


 進まない話に顔をしかめた。「それが何の証拠もないって言ってるんです!」


「やけに後ろ向きじゃねえか!」ギヴは眼を丸くした。「何があんたの自信を奪っちまったんだ?」


「そんなの決まってるわ。あたしが」


 口の回るクイーンは即座に言い返そうとした。だが自分が脳内で組み立てようとした一文を理解した瞬間、――ゴソリと言葉は抜け落ちた。


 チクタク、チクタク。頭の右斜め上で鳴る秒針の音。


 いつもコロコロと変わる表情は、氷の彫像のように凍てついた。翠の眼差しは遠いどこかをのぞみ、小さな背中は疲れたように少し傾いた。


 肩が落ち、トゥールを握った手が力なく下ろされていく。


「エルさん」


 落ちていく手を、黒手袋がすくい上げた。


 ほんの数秒前まで尊大に腕組みをしていた青年は、ソファーから立ち上がっていた。片膝を床につき、一心な眼差しで少女を見上げて小さな手を両手で包む。


 ロスはいくらか躊躇ためらった様子で、「……大丈夫」と微笑んだ。


「意地悪を言ってすみません。鍵が重荷だというのなら、預かります」


 エルの言葉を奪った記憶を、彼は知らないはずだった。この大陸に生きる者で、アンジェリカの咲く白夜のスュクスで起きたことを知るのは、自分ただひとり。


 しかし複雑な笑みを浮かべた青年は、何もかもよく分かっているというような、悲しくも優しい眼でエルを見つめていた。


「でも、これだけはお伝えさせてください。トゥーラニアが王を間違えるなどありえないということを。トゥランの王は、替わりの効く存在ではありません。それについて語るには、三千年の呪いと祝福から話す必要があります。本当はもっと早く教えないといけなかったのですが……。ゲルハルトさん、二階を人払いして頂けますか」


 階上へ導く守護者は、一度握った小麦色の手を大事そうに両手で持ったまま、離そうとしなかった。


「今日のレッスンは、座学にしましょう」

 



 雪をかき、ポポヨラを丘に放す。獣を狩って毛皮で縫い物をする。夏にはベリーを摘んでジャムを作る。冬にはオイルランプの灯りで本を読み、長い夜を過ごす。


 この村のだれとも血縁にないと知らされた八歳の誕生日には、いつも快活な赤毛娘もキンポウゲの丘に突っ伏して、少しだけ泣いた。頬を舐めてくれるふわふわの親友はもういない。ザラザラとした舌の感触を思い出すとまた涙が溢れ、岸のない湖でボートを漕いでいるような茫洋とした感覚は、生まれて初めて、自分はたったひとりきりなのだという気持ちにさせた。


「エル〜」


「エルや〜……」


 情けない声に振り向くと、花畑の中にヨンネラッセとマウノラッセが立っていた。くたびれたフェルト帽を気まずそうに握りしめたふたりの初老のぼさぼさ眉は下がりきり、なぜか当事者より落ち込んでいた。


 皺だらけの手に両手を引かれ、家に帰る。甘い匂いがドアの外にまで立ち込めている。


 エメラルドグリーンの扉を開けたヘンナは、「おかえりなさい、あたしのお姫さま」とエプロン姿で出迎えた。彼女がたった今オーブンから取り出したのは孫娘の大好物、カルダモンの爽やかに香るアップルパイ。


 木玉すだれの奥から進み出たニルファルは、「そら、母からは王冠だ。きみの新しき年が恵みの雲とともにありますように」と言祝ことほいだ。うやうやしい手つきで、赤毛頭にヒナギクの冠をいただかせる。


「……ママ。この花冠ガーランド、おばあちゃん作でしょ」


「おやバレたか。鋭いなあ」


 最果ての賢者は悪びれもせずに笑った。彼女はいかなる書物であっても紐解ひもとくことができる恐るべき知の巨人だったが、ささやかなつくろい物やスープの塩加減の調整など、ちょっとした雑事をてんで苦手としていた。


 こんなの誰だってわかると言いかけ、エルは横を向いてはにかんだ。「……当たり前でしょ。ママの娘だもの!」


 賑やかなドラムの音が近づいてくる。ポホ革を張ったシャーマンドラムはトリクスの大好きな楽器である。叩けば誰でも音を出せるし、ポコポコとした音色は能天気でご機嫌で、何より壊れてもすぐに作り直すことができるのだ。


 陽気な一張羅を羽織った村中の老人たちがぞくぞくとドアから入ってきた。揃いも揃って頭にシカの角をつけた一行に満面の笑みで鼻をくっつけられて、こらえきれずに笑い出した。


 村人たちからは、昼の仕事を終えたあとのクータモ葉巻の匂いがした。


 トリカにおいて八の倍数は重要であり、八歳の誕生日は神々の国から正式に人間界へ下ろされたというひと区切りを示した。村落で唯一の幼子の健やかな成長を心から喜ぶ人々に囲まれて、あてどない寂しさはあっという間にどこかに消えてしまった。


 エルは自分のを気に入っていた。聡明にすぎる母、しとやかで強い祖母、ケーキよりも甘い老人たちとふわふわの帆角鹿たち。


 本当の親について尋ねなかったのも、教えようとするニルファルを制したのも全部、次から次へと与えられるもので両手がいっぱいで、これ以上何もいらないと思えたから。


 夏の思い出はこれが最後。


 次に最果ての大地に花が溢れるのは、全てとお別れを告げる九才の夏至だ。

 

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